3.鹿喰集落の妻
鹿喰集落の人間は、「買われた女」とは言わなかった。
ただ、嫁いできた女だと言った。
だが、誰もが知っていた。
美咲は、自分の意思であの集落へ来たのではなかった。
拓馬の父は早くに亡くなっていた。
拓馬と母の登喜子は、数枚の栗園と山仕事の手伝いで暮らしていた。生活は楽ではなかった。むしろ、毎月の支払いに追われるような家だった。
それでも登喜子は、何年もかけて金を貯めた。
そして仲介人を通じ、町から来た若い女を買った。
それが美咲だった。
大黒岳の奥では、若い女が年々少なくなっていた。山の外の女性は嫁いでこない。山で育った女の子たちも、成長すれば必死に外へ出ていく。集落の老人たちは、その違法な取引をまるで遅すぎた縁談のように語った。
美咲が森下家へ連れてこられた最初の夜、彼女は最悪のことを覚悟していた。
しかし拓馬は、布団をかけてやると、自分は少し離れた場所に横になった。
二人の間には、広い距離があった。
美咲は天井を見つめたまま、一睡もしなかった。
翌朝、彼女は思わず尋ねた。
「どうして……?」
拓馬は長いあいだ黙っていた。
「無理にしたくない」
その言葉で美咲が自由になることはなかった。
戸には鍵がかかっていた。窓は塞がれていた。登喜子は彼女を見張っていた。それでも、完全に知らない山の中で、拓馬は唯一、美咲と言葉を交わす相手になった。
彼は美咲を殴らなかった。
ニュースで見たような買い手の男たちのように、暴力で従わせることもなかった。毎晩、同じ部屋で眠ったが、布団は別々だった。眠る前に少し話すこともあった。美咲が話す町のことや大学のことを、拓馬はほとんど理解できなかった。
それでも、聞いていた。
後になって、美咲はそのころの自分を思い返し、どこか心を壊していたのかもしれないと考えた。
彼女は、自分を山へ閉じ込めている男に少しずつ依存し始めていた。
それは愛ではなかった。
許しでもなかった。
暗闇に閉じ込められた人間が、すぐには自分を傷つけない火に本能的に近づいただけだった。
二か月が過ぎるころ、登喜子は苛立ちを隠さなくなった。
半生をかけて貯めた金で嫁を買ったのに、息子はその女の手すらまともに握っていない。登喜子は庭先で拓馬を罵り、美咲のことも町から来た化け物のように言った。
ある夜、美咲はとうとう折れた。
そのときの感情が何だったのか、彼女自身にもわからなかった。
あの狭い部屋から出るには、この山が押しつけてくる運命を受け入れるしかなかった。彼女は拓馬を選んだのではない。ただ、絶望の中で生き続けるほうを選んだ。
その日から、美咲にはほんの少しだけ自由が与えられた。
最初は、庭へ出て息を吸うことだけだった。
やがて登喜子の目が届く範囲で、家の外を歩くことが許された。鹿喰集落の風は冷たく、頭上にかぶさる木々の影は、どこまでも続く囲いのようだった。
2005年の初春、美咲は自分が妊娠していることに気づいた。
母になる喜びはなかった。
それでも、拓馬が不器用に笑うのを見たとき、心のどこかがわずかに揺れた。腹の中に命がある。その命は、この山とも、自分を買った人間たちとも違うもののように思えた。
拓馬は、それまで以上に美咲をかばうようになった。
登喜子が粗い仕事をさせようとすると、彼は前に出た。
「腹に子がいる。仕事なら俺がやる」
登喜子は集落の中で面目を失った。
それ以来、美咲が道を歩くと、背後からひそひそと声がした。千代、富江、房枝は、いつも道端に座って濁った目で彼女を見た。言葉は汚く、冷たかった。湿った薪のように燃えはしないのに、ずっと嫌な煙を出し続けていた。
美咲はうつむいて通り過ぎた。
聞かなければいい。
そう自分に言い聞かせた。
この子が無事に生まれれば、まだ生きていける。
そう思った。




