5.先生の家
朱里が選んだのは、佐伯美月だった。
美月の家は裕福だった。父は地元で建材会社を営み、母も落ち着いた家庭の出身だった。それ以上に重要だったのは、美月が朱里を信じていたことだった。
かつて年長クラスで朱里に見てもらったことがあり、美月は彼女を見るたびに笑顔で
「先生」と呼んでいた。
2018年3月8日の午前、朱里はこども園の活動準備を口実に、美月を園の近くから連れ出した。
卒園記念の工作がまだ終わっていないから、先生の家で少しだけ仕上げよう。そう言われた美月は疑わなかった。六歳の子どもにとって、先生の言葉は信じるものだった。
朱里は美月を自宅へ連れていった。
彼女は、黒川が家族へ連絡し、身代金を要求するのを待つつもりだった。だが実際に子どもを家の中へ入れてみると、すべては想像よりずっと難しかった。
美月はリビングに座り、汗を浮かべた朱里を見上げた。
「先生、具合悪いの?」
朱里は無理に笑った。
「大丈夫。美月ちゃんは、ここで少し待っていて」
朱里は黒川に電話をかけた。
つながらない。
もう一度かけても、つながらない。
向こうは、彼女とのつながりを完全に断ったようだった。
午前十一時ごろ、こども園の同僚から何度も電話がかかってきた。
町の教育関係者が急きょ視察に来ることになり、園は朱里にすぐ戻るよう求めていた。電話が鳴るたびに、リビングにいる美月も不安そうになった。朱里が電話口で
「すぐ行きます」
と言うのを聞き、ソファから立ち上がった。
「先生、私も帰る。お母さんが迎えに来るから」
朱里の頭の中は真っ白だった。
子どもをなだめながら、彼女は黒川へ電話をかけ続けた。画面には、つながらない表示が何度も出る。園からは催促が続く。呼吸は浅くなり、指先も思うように動かなくなった。
美月は泣き出した。
「帰りたい。お母さんのところに行きたい」
その泣き声で、朱里は完全に追い詰められた。
危ない橋を一度渡るだけだと思っていた。金さえ入れば終わるはずだった。だが黒川は電話に出ず、園からは呼び戻され、子どもは泣いている。すべてが同時に彼女へ押し寄せた。
のちの取調べで、朱里は何度も殺すつもりはなかったと繰り返した。
だが、美月は彼女の家で亡くなった。
朱里は子どもを黙らせようとして、取り返しのつかない行為に及んだ。気づいたとき、リビングは恐ろしいほど静かになっていた。
美月は動かなかった。
朱里は床に座り込み、手足が少しずつ冷えていくのを感じていた。
震える手を伸ばして、子どもの息を確かめた。
その瞬間、体から力が抜けた。
拘置所でその話を聞いたとき、沙也香は何度もペンを止めた。
朱里は途切れ途切れに話し、途中で言葉が出なくなった。医療スタッフが何度か様子を確認し、取材はようやく続けられた。だが沙也香自身も、平静でいることが難しかった。
美月は、あまりにも幼かった。
世界の悪意を知る前に、先生を信じて、二度と出られない部屋へ入ってしまった。
朱里には、止まれる瞬間がいくつもあった。
賭場で金を失ったあと。
浩介がやり直そうと言ったとき。
美月を連れ出す前。
どこかで立ち止まることはできた。
それでも、彼女は一度も止まらなかった。
父に壊された。
賭け事に壊された。
黒川に追い込まれた。
浩介に甘やかされた。
朱里は、そう言い続けた。
しかし、美月を家へ連れていったのは彼女自身だった。
子どもの命を奪ったのも、彼女自身だった。




