3.賭場の神様
朱里が再び賭け事にのめり込んだのは、結婚して間もないころだった。
最初は休日にパチンコ店へ行くだけだった。浩介には、少し気晴らしをしたいだけだと話した。だが通う回数は増え、動く金額も大きくなっていった。やがて彼女は、台の前での小さな勝ち負けでは満足できなくなり、知人に誘われた麻雀や地下の賭場にも顔を出すようになった。
初めて浩介に金を送るよう頼んだとき、まだ少しだけ後ろめたさがあった。
だが、すぐに命令のような口調へ変わっていった。
「浩介、十万円振り込んで。今すぐ」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
「朝、五万円渡したばかりだろ」
朱里の声が冷えた。
「いいから早くして」
「朱里、今回の金は姉さんから借りたんだ。家のことで必要だって言って。これ以上なくなったら、どう説明すればいいんだよ」
「まだ少し残ってるでしょ。私の味方でいてくれるって言ったよね?」
浩介は、結局いつも金を送った。
彼はそういう人だった。
怒っても、最後には朱里の後始末を選んだ。妻は追い詰められているだけだと信じていた。借金さえ返せれば、朱里が賭け事をやめてくれれば、家族三人でまたやり直せると思っていた。
しかし、その優しさは、朱里の中の歯止めを少しずつ壊していった。
家の貯金はすぐになくなった。
親戚や友人からも、彼女は金を借りて回った。
浩介は昼間、信用金庫で働き、夜は配送の副業をした。毎日疲れ切って帰ってきても、朱里には責める言葉を向けなかった。
「もう賭けなければいい。少しずつ返していこう。いつか終わる」
朱里は、疲れた夫の背中を見ていた。
罪悪感がなかったわけではない。
だが、その感情はすぐに別の思いに塗りつぶされた。
少しずつ返すなんて、遅すぎる。
もっと早く抜け出す道が必要だった。
そのころ、朱里は一人の男を思い出した。
黒川勝也。
父が昔、賭博仲間として知っていた男だった。朱里よりもかなり年上で、若いころに刑務所へ入ったことがある。出てきてからも、地方の地下賭博に出入りしているという噂だった。二日で数千万円勝ったことがあるとも、一晩で同じだけ失ったことがあるとも言われていた。
朱里は何人もの知人をたどり、ようやく黒川に連絡をつけた。
白川町近くの茶室で会うことになった。
浩介も連れていった。
黒川は畳の個室に座り、目を半分だけ開けたまま、湯飲みを指先でゆっくり回していた。朱里は笑顔を作り、媚びるような声を出した。
「黒川さんのこと、前から聞いていました。本当に賭場だけで生きてきた方だって」
黒川は鼻で笑った。
「賭場だけで生きてきた? 飯代も残らないくらい負けた話は聞いてないのか」
朱里の笑顔が一瞬固まった。
それでも、すぐに表情を戻した。
「一度だけでいいんです。助けてください。今、かなり借金があって。取り返せたら、必ずお礼はします」
黒川は湯飲みを置いた。
「お前たちが金を出す。俺が場所へ連れていく。勝てば分ける。負けても借金は分ける。それでいいな」
朱里はすぐにうなずいた。
浩介は隣で、顔色を失っていた。
その夜、黒川は二人を山あいにある廃業した温泉旅館へ連れていった。
外には看板もない。入口付近には、目立たない車が数台停まっているだけだった。だが中へ入ると、そこには朱里が初めて見る本物の違法賭博の空気があった。
現金が束になって積まれていた。
煙草と酒の匂いが漂い、興奮した呼吸が部屋の熱を上げていた。
朱里はその金を見て、目を輝かせた。
ようやく、人生を取り戻す入口を見つけた気がした。
だがその夜、彼女は用意した金をすべて失った。
親戚や友人からかき集めた四百万円以上が、賭場の中で消えた。
帰り道、朱里は空っぽの人形のようだった。
浩介はハンドルを握りしめ、手の甲に血管を浮かせていた。
家に戻ると、彼は朱里の前に正座した。声はほとんど消えかけていた。
「朱里、俺、仕事を辞めてもいい。どこか別の土地へ行って働こう。家族でいれば、いつか返せる」
朱里は顔を上げた。目の中には絶望しかなかった。
「いつまで?私たちの給料で、何が返せるの?」
浩介は彼女を抱きしめた。
「遅くてもいい。もう賭けなければ、それでいい」
朱里は答えなかった。
あの夜の金を、彼女は運命がくれた最後のチャンスだと思っていた。
そのチャンスを失ったことで、世界のすべてが自分を追い詰めているように見えた。




