4.一千キロ先の駆け落ち
沙也香は薄暗い画面越しに、詩織を見つめた。
「そのあと、ご両親はあなたを探しに来ましたか」
詩織は首を横に振った。
「来ませんでした」
少し間を置いた。
「手紙に、かなりひどいことを書いたんです。きっと本当に、私をいないものにしたんだと思います」
沙也香は事件記録のページをめくった。
「北九州に来てから、思い描いていた生活はできましたか」
詩織の肩がわずかに落ちた。
「来てから、あの人が詐欺師だったとわかりました」
蓮太が最初に狙っていたのは、藤原家だった。
詩織が一人娘であることを知り、結婚すれば藤原家に婿として入り込めると考えた。両親が年を取れば、会社や不動産はいずれ自分たちのものになる。蓮太はそう計算していた。
だが、藤原夫妻は追ってこなかった。
娘を取り戻すために折れることもなかった。
詩織は、裕福な生活へ続く切符ではなく、蓮太にとっての重荷になった。
北九州へ着いたばかりのころ、詩織は残っていた金で駅近くの古いアパートを借りた。部屋は狭く、壁紙は黄ばんでいた。浴室とトイレも一体になっている。そんな部屋に住んだことは一度もなかったが、彼女はそれでも必死に掃除をして、暮らしを整えようとした。
蓮太は、働くと約束した。
「前と同じ暮らしをさせてやる」
詩織は信じた。
最初の一か月、蓮太は時々外へ出て日雇いの仕事をした。詩織は部屋に残り、料理や洗濯、掃除を覚えた。まるで本当の妻のように、彼の帰りを待った。
三か月が過ぎた。
藤原家から連絡はなかった。
半年が過ぎても、誰も迎えには来なかった。
蓮太の忍耐は、そこで尽きた。
二人は初めて激しく言い争った。その喧嘩の中で、詩織は彼の本音を聞いた。彼女は一晩眠れず、翌朝には仕事を探しに出た。
大学を中退し、社会経験もない彼女に選べる仕事は少なかった。
ファストフード店のレジ、コンビニの夜勤、清掃、倉庫の仕分け。
最初の給料を受け取ったとき、詩織はしばらく動けなかった。
一か月働いて、家賃、水道光熱費、交通費、食費を差し引くと、手元にはほとんど残らない。かつての自分なら、一度の食事で使っていた金額にも届かなかった。
きちんと手入れしていた服は、少しずつ古くなっていった。髪を整える余裕もなくなり、安いクリップで雑にまとめるだけになった。靴も何か月も同じものを履き続けた。
生活は、すぐに彼女から上品さを奪っていった。
蓮太も、次第に冷たくなった。
昔のような優しい目で詩織を見ることはなくなった。時々帰ってくると、酒と知らない香水の匂いがした。詩織は、彼が外で別の人間と関わり、別の道を探していることに気づいていた。
それでも戻らなかった。
自分が負けたと認めたくなかった。
家族も、学業も、未来も賭けて選んだ恋だった。蓮太が詐欺師だったと認めることは、自分が自分の人生を壊したのだと認めることだった。
彼女は八年、そこにしがみついた。
愛はとっくに、意地と未練に変わっていた。
数年後、詩織は少しずつ貯めた金で、洗濯代行の仕事を始めた。
子どものころ、家の衣類は家政スタッフが高級クリーニング店へ持っていってくれた。裕福な家庭には、衣類の手入れに金をかける需要がある。独身女性にも、家まで来てくれるサービスは必要なはずだった。
この仕事を丁寧に続ければ、あちこちで働かなくても済むかもしれない。
詩織は、北九州市郊外の古い一戸建てを借りた。
駅から遠い代わりに家賃は安く、庭には中古の洗濯機を二台置くことができた。昼間は軽ワゴンで高級住宅街へ衣類を取りに行き、夜は庭や小さな倉庫で洗い、干し、アイロンをかけた。
この街へ来て初めて、生活にほんの少しだけ希望が差した気がした。
蓮太は興味を示さなかった。
詩織が働いて金を稼ぐなら、どうでもいい。彼にとってはそれだけだった。ただ、駅前から郊外へ引っ越したことで外出が不便になったことだけは、不満そうにしていた。




