3.読書会の孤児
藤原家は札幌で、建設関連会社と不動産管理業を営んでいた。
詩織は裕福な家で育った。両親は忙しかったが、娘の教育には金も手間も惜しまなかった。ピアノ、茶道、英会話、私立校。彼女の人生は、いつも丁寧に整えられていた。
両親は、詩織に大きな成功を求めていたわけではない。大学を卒業したあと、家業を手伝うか、身元のはっきりした穏やかな相手と結婚してくれればいい。そのくらいに思っていた。
当時、詩織は札幌の私立女子大学に通う二年生だった。
親元を離れることなど考えたこともなかった。まして、自分の人生がある日突然、一千キロ以上離れた土地へ流れていくとは、想像もしなかった。
彼女が蓮太を初めて見たのは、市立図書館で開かれた読書会だった。
読書会の席は円形に並べられていた。蓮太は詩織の向かい側に座っていた。白いシャツを着て、講師の話を静かに聞いていた。眉目は整い、時折ノートに何かを書き込む横顔は真剣だった。
詩織はもともと、その読書会に強い興味があったわけではない。ただ退屈していて、ふらりと立ち寄っただけだった。
それでも、彼女はすぐに彼を意識した。
蓮太も視線に気づいたように顔を上げ、一瞬だけ詩織を見た。すぐに恥ずかしそうに目をそらした。
その瞬間、詩織の胸が小さく跳ねた。
その日から、彼女は図書館へ通うようになった。
自分には本を読みに行くのだと言い聞かせていた。けれど本当は、もう一度彼に会いたかった。一週間ほどして、二人は書架のそばで再会した。蓮太は詩織を覚えていて、軽く会釈をした。
二人は少しずつ話すようになった。
詩織は彼が図書館の制服を着ているのを見て、学生のアルバイトだと思った。だが蓮太は首を横に振った。
「大学生じゃないんです」
声は静かだった。
「施設で育ちました。親の顔も知りません。大学に通うお金はありません。でも勉強はしたくて、近くの大学の公開講座を聴きに行くことがあります。あとはここで働いて、本を読んで、読書会に出られれば、それで十分なんです」
詩織は胸を打たれた。
自分は金に困ったことがない。生活を一人で背負ったこともない。蓮太の貧しさと努力は、彼女には清らかな強さのように見えた。
詩織はその場で、父に頼んで学費を援助できると言った。
蓮太は断った。
「ありがとうございます。でも、誰かに頼って生きたくないんです」
その言葉で、詩織の好意はさらに強くなった。
それから、彼女は自分の授業で使う教材やノートを蓮太に貸すようになった。会う回数は増え、二人の距離も近づいていった。
ある日、詩織は一冊の本の裏表紙に、こっそり一行を書いた。
私は一つの城に閉じ込められている。その城の名前は、蓮太。
数日後、その下に新しい文字が増えていた。
その城の門は、君にだけ開いている。
詩織には、彼の字だとすぐにわかった。
その夜、彼女は眠りに落ちるまで笑っていた。
半年後、詩織は蓮太を家に連れていくことにした。
両親もきっと、自分と同じように、この人を好きになってくれる。身寄りがなくても、努力して生きている人だとわかれば認めてくれる。そう信じていた。
だが夕食のあと、父は詩織を静かに書斎へ呼んだ。
窓の外には雪が降っていた。書斎の明かりは冷たかった。
「彼は、お前とは住む世界が違う」
詩織は机の前に立ち、顔をこわばらせた。
「お父さんは、蓮太のことを何も知らない」
「見ればわかる。あの男が近づいてきた理由は、恋愛だけじゃない」
「貧しいから見下しているだけでしょう」
父は声を荒げなかった。
「詩織。早く別れなさい」
そのころの詩織には、何も届かなかった。
両親は冷たく、打算的で、蓮太の苦しみを理解しようとしない。商売と人付き合いの中で生きてきた大人たちは、金と家柄しか見ていない。そう思い込んだ。
一方で、蓮太は何度も彼女に約束した。
必ず結婚すると言った。
二人でいれば、いつか両親もわかってくれると言った。
愛は家柄で決められるものではないと言った。
詩織はその言葉に揺さぶられた。
反発心にも背中を押された。
家族との関係は、日を追うごとに悪くなった。最後には両親も、蓮太を選ぶなら二度と家には戻るなと言った。
若かった詩織は、愛を選んだ。
大学に退学届を出し、両親に手紙を残して、蓮太と札幌を出た。
二人は切符を買い、蓮太がかつて暮らしていたという南の街へ向かった。
福岡県北九州市。
北海道から九州まで、一千キロ以上。
詩織はその距離の向こうに、家族を置いてきた。




