4.標的は須藤院長
沙也香は拘置所で、美羽に一つの質問をした。
「最初に誘拐と言い出したのは、あなたですか」
美羽はほとんど迷わなかった。
「違います」
声は低かったが、答えは早かった。
沙也香は彼女の目を見た。
「では、誰ですか」
美羽は視線を落とした。
「剛さんです」
だが、最初に口にしたのが誰であれ、三人が本気で標的を考え始めた時点で、彼らはすでに深淵へ足を踏み入れていた。
剛は、金持ちを狙うべきだと言った。
そのとき美羽の頭に最初に浮かんだのは、須藤誠一だった。
須藤は自分のクリニックを持ち、安定した患者もいる。町ではそれなりの立場もあった。だが美羽にとって、彼はただ金を持っている男ではなかった。
彼女に吐き気を覚えさせる男だった。
そして、自分が手を下してもいいと、そう思い込める相手だった。
美羽は顔を上げた。
「須藤院長は?」
剛の目が光った。
「そうだ。あのじいさんなら金を持ってる」
香織の顔から血の気が引いた。
「何言ってるの。あの人は美羽のことも、私のことも知ってる」
美羽は香織を見た。
「だから誘い出しやすい」
「誘拐だけでも大変なことなのに、知り合いを狙うつもり?」
「私にあんなことをした人だよ」
香織の声が強張った。
「それと殺すことは違う」
剛が手を伸ばし、香織を制した。
「縛って放したら、こっちが終わる。顔を知られている相手を、生かして返せるわけがない」
香織はそれ以上言えなかった。
唇が小さく震えていた。
その夜、三人は須藤を標的に決めた。美羽が彼を香織の部屋へ誘い出す。剛が取り押さえる。香織は縄やテープ、振込先の口座を用意する。
彼らは常習犯ではなかった。
ただ、あまりにも幼稚なやり方で、もっとも残酷なことを計画していた。
須藤に警戒させないため、美羽は数日空けてからクリニックへ行った。
その日は香織を連れていた。
診察室で美羽を見た須藤の目は、明らかに明るくなった。美羽が退職してから五か月以上が過ぎていた。彼は、もう二度と彼女が現れることはないと思っていたのだろう。
美羽は薄く化粧をし、体の線が出る服を着ていた。話し方も以前より柔らかかった。
「院長、姉が最近ずっと胸が苦しいと言っていて。きちんと診ていただけませんか」
須藤の視線は、美羽の顔にしばらく留まった。
「もちろんだ。君が辞めてから、みんな寂しがっていたよ。僕もね」
美羽は目を伏せた。
「ご迷惑をおかけしました」
香織は隣に座り、バッグを強く握っていた。
美羽があの温順な顔で須藤と話しているのを見て、背中が冷えた。それでも止めなかった。香織はすでに借金に巻き込まれ、計画にも同意していた。ここで退けば、自分が最初から間違っていたと認めるような気がした。
二日後、美羽は一人でクリニックを訪れた。
香織の検査結果を聞きに来た、と言った。
その日、美羽は体に沿うニットを着て、短い上着を羽織っていた。院長室に座る須藤の目は、ほとんど彼女から離れなかった。彼は、美羽がついに自分を受け入れ始めたと思った。これまでの拒絶は、若い女の遠慮や恥じらいにすぎなかったのだと勝手に解釈していた。
美羽は彼の向かいに座り、声を柔らかくした。
「院長、今日は姉夫婦が親戚の家に行っていて、私が犬の世話を頼まれているんです」
須藤はすぐに身を乗り出した。
「奇遇だな。僕もちょうどそちらのほうへ用事がある」
美羽は立ち上がった。
「では、下でお待ちしています」
院長室を出る前に、彼女は振り返って小さく笑った。
須藤はすぐに白衣を脱ぎ、上着と車の鍵を手にした。自分の言った用事が、具体的にどこで何をするものなのか。そんなことすら、まともに考えなかった。
欲望が、彼から最低限の判断力を奪っていた。
二人は香織の住む集合住宅へ向かった。
階段を上がる途中、須藤の手が美羽の腰に触れた。胃の奥がひっくり返るようだったが、美羽は避けなかった。ただ足を速め、バッグから鍵を取り出した。
扉が開いた瞬間、須藤は彼女に密着するように中へ入った。
美羽は振り返り、ドアを閉めた。
次の瞬間、冷たい縄が後ろから須藤の首にかかった。
「動くな。動いたら本当に締めるぞ」
須藤の体が固まった。
剛が背後から縄を強く引いた。香織が飛び出し、須藤の手を押さえ込む。美羽はテープを取り、彼の口を塞いだ。数分後、須藤は居間の床に転がされていた。院長としての体面など、どこにも残っていなかった。
剛は彼の前にしゃがみ、短く笑った。
「驚いたか。いろいろ考えたのに、あんたを呼び出すのがこんなに簡単だとはな」
須藤の目には恐怖しかなかった。
美羽は彼の前にしゃがみ込んだ。
「五百万円」
須藤は必死に首を振った。塞がれた口から、意味のない声が漏れた。
美羽は彼の口元のテープを剥がした。
「払えば帰してあげます」
須藤の声は泣き声に近かった。
「そんな現金はない」
美羽ははさみを手に取り、彼の太ももへ向けた。
須藤は逃げようとしたが、剛に押さえつけられて動けなかった。
その瞬間、美羽は点滴室で閉ざされた扉を思い出した。須藤が近づいてきたときのにおいを思い出した。何度も飲み込んできた吐き気を思い出した。
彼女の手は止まらなかった。
やがて須藤は完全に折れた。
「三百八十万円。用意できるのは、それが限界だ」
美羽は剛を見た。
剛がうなずいた。
三人は、須藤に姉へ電話をかけさせた。
須藤は手を縛られていたため、美羽が携帯を耳元に当てた。
「姉さん、俺だ。急に金が必要になった」
電話の向こうで、女性が戸惑う気配がした。
「どうしたの。いくら必要なの?」
「三百八十万円。明日までに振り込んでほしい」
「そんな大金、何に使うの?」
「聞かないでくれ。本当に急いでる」
須藤は、三人に指示されたとおり、園田莉子の口座番号を伝えた。
莉子は、香織の幼なじみだった。
数日前、香織は莉子に頼んでいた。美羽の店に残った在庫を処分していて、取引先からの振込を自分の口座では受けにくい。しばらくネット銀行の口座を貸してくれないか、と。
莉子は深く考えなかった。
長年の友人からの頼みだった。少し手を貸すだけだと思っていた。
彼女は知らなかった。
自分が貸したのは、口座ではなかった。
命だった。




