3.つぶれた服屋
美羽は結局、須藤内科クリニックを辞めた。
退職後、同じような仕事を探すことはなかった。同級生や友人、消費者金融から金を借り、白川町駅前の商店街に小さな店を借りた。若い女性向けの服と雑貨を売るつもりだった。
店は十坪にも満たなかった。壁は淡いベージュに塗り直され、木製のハンガーラックが左右に置かれていた。ガラス扉には手書きの開店ポスターが貼ってあった。美羽はおしゃれが好きで、服の組み合わせを考えるのも好きだった。自分が服を選ぶのが得意なら、店もきっとうまくいくと思っていた。
けれど、自分を着飾ることと、店を経営することはまったく違った。
美羽には経験がなかった。立地の見方も、在庫管理も、近隣の客が何に金を使うのかもわかっていなかった。商店街は昼間から人通りが少なく、夜になるとさらに静かになった。最初の数日は知り合いが来てくれたが、その後の売上は一日に数千円程度まで落ちた。
家賃、光熱費、仕入れ代。
それらが、少しずつ彼女を圧迫していった。
三か月後、美羽はもう店を続けられなくなっていた。
最終的に、彼女はその店舗をラーメン店を始める予定の男性に譲った。男性は新しい内装を見て、取り壊すだけでも金がかかると眉をひそめた。美羽はその横に立ちながら、自分が使った金を目の前で捨てられているような気がした。
店は閉じた。
だが借金は消えなかった。
美羽が抱えた借金は、全部でおよそ二百五十万円になっていた。
それから、美羽は借金から逃げるようになった。
電話が鳴っても出なかった。友人からのメッセージを見ても、既読をつけずに放置した。消費者金融からの督促状は郵便受けにたまり、家に帰ることさえ怖い日もあった。
ある朝、家を出た美羽は、アパートの入口で二人の友人と鉢合わせた。
顔が一瞬でこわばった。
「朝早いね。よかったら朝ご飯でも行かない?私がおごるから」
一人は笑わなかった。
「美羽、本当に返す気あるの?」
もう一人の声にも疲れがにじんでいた。
「先月返すって言ったよね。私たちがここで待っていなかったら、いつまでたっても会えなかったでしょ」
美羽は入口に立ったまま、バッグの持ち手を強く握った。
「あと一か月だけ待って。本当に考えてる。これが最後だから」
二人は顔を見合わせた。
「本当に最後だよ。私たちだって余裕があるわけじゃないんだから。美羽、ずっとこんなことは続けられないよ」
二人が去ったあと、美羽はその場にしばらく立っていた。
一か月。
その一か月後に、どこから金を用意すればいいのか。
彼女には何もわからなかった。
数日後、美羽は香織の部屋へ向かった。
玄関の前まで行くと、ドアの隙間に何通もの督促状が差し込まれていた。さらにドアには、赤い付箋が貼られていた。
金を返せ。
乱暴な字だった。だがその文字は、美羽の顔に直接貼りつけられたように見えた。
美羽は階段の踊り場でしばらくためらい、最後にはドアをノックした。
香織が出てきた。驚きはなかった。ただ疲れた顔をしていた。
「見たでしょう。こっちにまで来てる」
美羽はうつむいたまま部屋に入り、座るなり香織の手をつかんだ。
「香織姉ちゃん、もう一度だけ助けて」
香織はその手をそっと外し、眉間を押さえた。
「もう渡したよ。店を出すときも、返済のときも。私、本当にないの」
「じゃあ、誰かに借りて」
「誰に?」
「お願い」
香織はあちこちへ電話をかけた。
それでも借りられたのは、八万円だけだった。
その金額では、利息すら埋まらない。
二人は居間に座り、何も言わなかった。
夕方になって、剛が来た。
玄関を開けるなり二人の顔を見て、さらに玄関先の督促状の山に気づいた。眉をひそめる。
「外のあれ、何だよ」
香織は胸元を押さえ、苛立った声を出した。
「借金取りが来たの。これ以上払わないなら、美羽の家にも、親の職場にも行くって」
美羽は顔を上げた。目の奥に、かすかな期待が戻っていた。
「剛さん、助けて」
剛はすぐには答えなかった。
彼は普通の工場労働者にすぎなかった。給料は高くない。自分の家庭を持ちながら、香織との関係にも金を使っている。手元に大きな貯えなどあるはずもなかった。
それでも、二人の女が自分を見ていた。
最後の希望のような目で。
剛は煙草に火をつけた。半分ほど吸ったところで、急に灰皿へ押しつけた。
「足りない額が大きすぎる。盗んでも、奪っても、埋まらない」
香織が彼を見る。
「じゃあ、どうするの」
剛は顔を上げた。
「金を持っている人間を誘拐する」
部屋の空気が止まった。
その言葉が落ちた瞬間、三人は何かが割れる音を聞いたような気がした。




