3.死亡報告書の中のもう一人
警察は新堂奈緒の行方を追い始めた。
別邸周辺の防犯カメラには、事件当日に彼女が正面玄関や表の道から出ていく姿は映っていない。だが、主寝室の窓の外に残った半分の足跡は、奈緒が現場から逃げたことを示していた。
佐伯は、すべての手がかりをもう一度整理した。
なぜ奈緒は透の家にいたのか。
彼女と透は、いつ知り合ったのか。
慧子が死んだあとに関係を持ったのか。
それとも、もっと前からつながっていたのか。
そして、さらに大きな疑問があった。
慧子の交通事故は、本当に事故だったのか。
佐伯は三浦慧子の死亡報告書を取り寄せた。
報告書によれば、慧子の死亡日は2012年9月2日。事故現場は月見丘近くの坂道だった。運転していた車は制御を失い、電柱に衝突。その後、車両火災が発生した。
当時の捜査では、飲酒運転や精神的な異常による運転は否定され、交通事故として処理されていた。
だが、生命保険が追加された時期は事故のわずか二か月前だった。
あまりにもタイミングがよすぎた。
佐伯は当時救急搬送を受け入れた病院に連絡し、救急記録と関連資料を取り寄せた。
そこに、見落とされていた一つの事実があった。
その日、病院に運ばれたのは三浦慧子だけではなかった。
もう一人の負傷者がいた。
新堂奈緒だった。
奈緒は当時、助手席に座っていた。事故後、意識を失うことなく自力で車外へ出ており、傷も軽かった。その日のうちに退院している。一方、慧子は運転席に閉じ込められ、車内の火災によって死亡していた。
佐伯は資料を閉じ、奈緒の名前の上に指を止めた。
もし奈緒があの車に乗っていたなら、彼女と慧子、そして透の関係は、事故の前から存在していたことになる。
慧子の死は、もはやただの交通事故ではなかった。
警察は捜索範囲を広げた。
数日後、奈緒は隣接する自治体の高速バスセンターに姿を見せていた。彼女は切符を買おうとしたが、身分証をなくしたと言い、乗車券を購入できなかった。
警察が現場へ向かったときには、奈緒はすでにバスセンターを離れていた。
防犯カメラには、彼女が北へ歩き、小さな商業施設へ入っていく姿が映っていた。
だが、その後、正面出入口から出てくる姿はない。
警察がその建物を確認すると、前後に二つの出入口があった。裏口にはカメラがなく、細い路地へつながっていた。
奈緒はそこから姿を消していた。
佐伯は警署で一週間、ほとんど帰らずに捜査資料を見続けた。
奈緒は、突然事件に入り込んできた幽霊のようだった。説明できそうだった殺人事件を、さらに深い迷路へ引きずり込んでいる。
彼女は被害者なのか。
共犯なのか。
なぜ逃げたのか。
何を隠しているのか。
八日目になって、ようやく捜索は実を結んだ。
新堂奈緒は、古い映画館の非常階段で見つかった。
その映画館は客が少なく、平日はほとんど人目がなかった。逃げるために、奈緒は外へ食べ物を買いに出ることもできず、トイレの水だけで耐えていた。
最後には非常階段で倒れ、清掃員に発見された。
清掃員は最初、彼女が死んでいるのではないかと思い、病院へ運ぼうとした。
その体を起こした瞬間、奈緒の上着から札束が落ちた。
清掃員は数秒固まり、そのあと警察に通報した。
奈緒は病院に搬送された。
警察はすぐには取り調べを行わなかった。彼女が目を覚ますと、佐伯は温かい食事を用意させた。奈緒は自分がどこにいるのかを気にする余裕もないように、無言で食べ始めた。
あっという間に、器は空になった。
少しずつ理性が戻ると、彼女は不安そうに周囲を見た。
丸く大きな目で佐伯を見上げる顔は、まるで厄介ごとに巻き込まれただけのかわいそうな女のようだった。
佐伯は、女性警察官が奈緒の所持品から押収した現金を机に置いた。
三百万円。
「この金はどこから?」
奈緒は札束を見た。
「自分で稼ぎました」
「稼いだ?あなたに定職はないはずですが」
奈緒は少し黙った。
「彼氏にもらいました」
「彼氏とは誰ですか」
奈緒は答えなかった。
取調室は静かになった。
佐伯は声を荒らげず、銀行の防犯映像、事故当時の救急記録、月見丘別邸のDNA鑑定書を一枚ずつ机に並べた。
奈緒はそれらを見つめていた。
無垢に見えた表情が、少しずつ消えていく。
最後に、彼女は口を開いた。
始まりは、岩崎翔平だった。
奈緒が初めて水原透の名を聞いたのは、翔平からだった。
当時、奈緒と翔平は恋人同士だった。二人は海坂市内の古い木造アパートで暮らしていた。部屋は狭く、壁は薄く、隣室の咳まで聞こえるような場所だった。
翔平は配送の仕事をしていたが、収入は楽ではない。奈緒にもまともな仕事はなく、二人の生活はいつもぎりぎりだった。
ある日、透が翔平に金を借りたいと電話してきた。
奈緒はその場にいた。
電話が終わったあと、奈緒はなぜあんなに簡単に貸すのかと尋ねた。
翔平は、昔の同級生だからだと言った。
今はデザイナーになり、弁護士の妻をもらい、郊外に別邸まで買った男だ。ただ一時的に金が足りないだけだろう。昔の同級生の前で、しみったれたところは見せたくない。
その夜、奈緒はほとんど眠れなかった。
彼女は水原透の名前を覚えた。
三浦慧子の名前も覚えた。
三日後、奈緒は翔平に別れを告げた。翔平は納得しなかったが、奈緒の決意は変わらなかった。部屋を出ていく前に、彼女は翔平の携帯を盗み見て、透のSNSを確認した。
そして、透と慧子がよく行くバーを記憶した。
ある週末の夜、奈緒はそのバーで偶然を装った。
最初の標的は、透ではなかった。
慧子だった。
既婚男性に直接近づけば、警戒される可能性が高い。だが、先に慧子へ近づけば、家の中へ入り込む道が開ける。
奈緒はそれを知っていた。
その夜、慧子と透は酒を飲んでいた。
慧子は仕事帰りのスーツを脱ぎ、弁護士の殻を外したような顔で笑っていた。煙草を吸い、酒を飲み、言葉も率直だった。奈緒は少し離れた席に座り、タイミングを見て声をかけた。
彼女は、自分を弱く見せるのがうまかった。
前の恋人から暴力を受け、金を奪われ、住む場所も追い出された。
そんな話を作った。
行くところがない。
誰を信じればいいのかわからない。
その夜、奈緒は途切れ途切れに、自分の不幸を語り続けた。
慧子はそれを聞いた。
独立していて、強く、問題を解決することに慣れている女ほど、守らなければならない相手に反応しやすい。奈緒の無害そうな顔と、ちょうどよくこぼれる涙は、慧子の庇護欲にまっすぐ刺さった。
酒の席が終わると、慧子は奈緒をタクシー乗り場まで送った。
奈緒は乗る直前、夜中に元恋人から何度も嫌がらせを受けていることを、小さな声で漏らした。いつか殺されるかもしれない、とも言った。
そこから先は、奈緒の思ったとおりに進んだ。
慧子は、彼女を一人で帰すことができなかった。
「今夜はうちに来なさい」
隣にいた透は、反対しなかった。
奈緒はこうして、月見丘の別邸へ入り込んだ。
翌朝、奈緒は早く起き、居間を片づけ、朝食を作った。
自分をどう見せれば、素直で、かわいそうで、邪魔にならない人間に見えるのかを、彼女はよく知っていた。慧子はその振る舞いを受け入れた。仕事も住まいもない奈緒を気の毒に思い、仕事が見つかるまでいていいと言った。
物事は、奈緒の計画どおりに進んでいった。
誰も、彼女がいつ出ていくのかを口にしなくなった。
三人の奇妙な同居生活が始まった。
最初に奈緒への感情を変えたのは、慧子だった。
はじめは庇護欲だった。傷ついた、守るべき年下の女。そう思っていた。だが時間がたつにつれ、その感情は曖昧になっていった。奈緒は慧子が残業から帰ると温かい茶を出し、仕事の愚痴を聞き、尊敬するような目で彼女を見つめた。
慧子は奈緒を守っているつもりだった。
だが同時に、自分も奈緒に必要とされていた。
透は最初、嫉妬した。
妻の関心が別の女に向いていることを、すぐには受け入れられなかった。だが、慧子も透も、もともと刺激を求める人間だった。秘密、越境、両親にも同僚にも言えない関係は、二人をかえって昂らせた。
三人のあいだには、いつしか共依存のような関係ができていた。
奈緒は、二人が一緒に守る子どものようでもあった。
同時に、二人が共有する恋人のようでもあった。
月見丘の別邸は、三人だけの秘密になった。




