【消えた女】鎖のそばに残された第三のDNA 1.鎖につながれたデザイナー
2013年3月22日、海坂市東郊の月見丘で、七十歳近い老夫婦が警察に通報した。
通報したのは、三浦誠一と三浦和江だった。二人は若いころから工場で働き、定年を迎えたあとは年金と少しの蓄えで静かに暮らしていた。本来なら、ようやく落ち着いた老後を過ごせるはずだった。
だが半年前、たった一人の娘である慧子が交通事故で亡くなった。
まだ二十七歳だった。
慧子が死んでから、婿の水原透はまるで別人のようになった。以前は誠一たちにも礼儀正しく、盆や正月には手土産を持って顔を出していた。それなのに、事故のあと、透からの連絡はほとんど途絶えた。
誠一と和江は、彼が妻の死を受け止めきれず、家に閉じこもっているのだと思っていた。
この日、二人が月見丘を訪ねたのは、慧子が別邸に残した遺品を引き取りたかったからだった。
その家は市街地から少し離れた、緩やかな坂の突き当たりに建っていた。周囲に民家は少なく、古い家屋と雑木林、空き地がまばらに続いている。もともとは、ひっそり暮らしていた陶芸家の家だった。
庭には石灯籠があり、小さな池には錦鯉が泳いでいた。
慧子と透は結婚後、かなり無理をしてこの家を買った。
透はインテリアデザイナーとしての感覚で、室内を大きく改装した。街の騒がしさは坂の下に置き去りにされ、この家だけが隠れ家のように静かだった。
しかし、誠一と和江が訪れた日の別邸は、以前の面影を失っていた。
草は膝の下まで伸び、石灯籠には埃が積もっていた。池の水は濁り、玄関まわりにも人の出入りの気配がない。二人は何度も呼び鈴を鳴らし、声をかけたが、中から返事はなかった。
誠一は、慧子が生前実家に預けていた合鍵を取り出した。
玄関を開けた瞬間、腐臭が押し寄せた。
和江は一目見ただけで、足元から力が抜けた。
水原透の遺体は二階にあった。
腐敗はすでに進んでいた。体は太い鎖で固く縛られ、階段の近くの床に倒れていた。乾いた排泄物が周囲にこびりつき、目を背けたくなるような跡を残していた。
さらに、一階の居間にはもう一つ遺体があった。
和江はその場で血の気を失いかけた。誠一は震える手で携帯電話を取り出し、警察に通報した。
海坂中央署刑事課が到着すると、月見丘の別邸はすぐに封鎖された。
死亡していた水原透は三十二歳。職業はフリーのインテリアデザイナーだった。司法解剖の結果、死亡推定時期はおよそ十日前。死因は、長期間の脱水と栄養失調による多臓器不全だった。
簡単に言えば、彼は生きたまま飢え死にさせられたのだ。
透の体には、激しく殴られた痕がいくつも残っていた。鎖は手のひら付近と足首の拘束部を通るように巻かれ、さらに首の周りを通って、二階の階段そばに固定されていた。
とっさに縛ったようには見えない。
そこには、明らかに相手を苦しめようとする意思があった。
もう一人の死者は、二階の吹き抜け廊下から一階の居間へ転落し、後頭部を強く打って死亡していた。
身元はまだわからなかった。
佐伯航平は二階の廊下の縁に立ち、一階に横たわる見知らぬ男の遺体を見下ろした。別邸の中に、はっきり荒らされた跡はない。外部から無理やり押し入った形跡も見つからない。
死体。
監禁。
転落。
鎖。
それぞれの手がかりは強烈なのに、すぐには一つの形にならなかった。
最初の現場は、誰かにわざと乱された舞台のようだった。
本当の問題は、そこにあった。
誰が水原透を鎖につないだのか。
そして、もう一人の男はなぜ居間で死んでいたのか。
手がかりを探すため、刑事課は二つの班を交代で現場に入れた。
誠一と和江も警署に連れていかれ、事情を聞かれた。娘と婿の話になると、和江は何度も言葉を止めた。一つ一つの言葉を、傷口から取り出しているようだった。
慧子は幼いころから成績がよかった。大学を出たあと司法試験に合格し、海坂市内の法律事務所で弁護士として働いていた。両親にとっては、いつも頼りになり、何事もきちんとこなす娘だった。
二十三歳のとき、慧子はパラグライダー愛好者のオンラインコミュニティで水原透と知り合った。
透はインテリアデザイナーで、美術大学を出ていた。清潔感のある外見で、話し方にはどこか自由な雰囲気があった。慧子がパラグライダーを始めたばかりのころ、透はよく時間を作って、彼女に経験や注意点を教えた。
やり取りが増えるうち、二人の距離は自然に縮まっていった。
深く付き合うようになると、慧子は透と自分の恋愛観、結婚観がよく似ていることに気づいた。
二人とも、子どもを持たない人生を望んでいた。
慧子は結婚前から、いわゆる普通の家庭を作るために子どもを産むつもりはなかった。透も、伴侶と自由に生きていきたいと言っていた。だが慧子は弁護士だった。口約束がどれほど簡単に崩れるかを、仕事で何度も見てきた。
透が若いうちはそう言っていても、年齢を重ねたあとで考えを変えるかもしれない。
その不安があり、慧子は交際後もしばらく心を開ききれなかった。
ある普通の夜、慧子は賃貸マンションで透の帰りを待っていた。透は地方の現場を見に行くと言っていたが、帰ってきた彼が差し出したのは、泌尿器科の手術証明だった。
透は病院で精管結紮の手術を受けていた。
将来、子どもを持たないという選択を変えるつもりはない。
その意思を、彼は行動で示したのだった。
その瞬間、慧子の中に残っていた警戒はほどけた。
ほどなくして、二人は結婚した。
誠一と和江は、正直なところ、この結婚に賛成していなかった。透はフリーのデザイナーで、収入が安定しない。どこか芸術家らしい派手さや気ままさもあった。一方、慧子は収入も能力もあり、どちらかといえば娘のほうが多くを背負うように見えた。
それでも慧子は、透の不安定さに惹かれていた。
両親の前では、彼女はいつも優秀な娘だった。けれど心の奥では、刺激を求め、決められた人生から逃げたいと思っていた。仕事を離れると、パラグライダー、クラブ、酒、夜の高速道路を走る風を好んだ。
両親の知らない顔を、透の前では隠さずにいられた。
結婚後の慧子は、ようやく一緒に無茶ができる相手を見つけたようだった。
透も、かつては本当に彼女を愛していた。
少なくとも、周囲にはそう見えていた。
二人は熱く、自由で、互いの一番深いところを理解している共犯者のようだった。
半年前、慧子は交通事故で死亡した。
事故現場は月見丘の近くにある狭い坂道だった。彼女の運転する車は制御を失い、道路脇の電柱に衝突した。車体は大きく変形し、その後火が出た。
慧子は運転席に閉じ込められ、助からなかった。
その後、透は自分を閉じ込めるように別邸で暮らし始めた。電話に出ず、誰にも会わず、新しい設計の仕事も受けなくなった。少なくとも誠一たちには、妻の死に打ちのめされた男に見えていた。
だが警察はすぐに、その見方を疑うことになる。
翌日、DNA照合によって、一階の居間で見つかった身元不明の遺体の名前が判明した。
岩崎翔平。
三十一歳。
彼は配送ドライバーだった。普段はトラックで荷物を運び、空いた時間には宅配の仕事も請けていた。別邸の近くで彼の車が見つかったことから、偶然通りかかったのではなく、目的を持ってここへ来たことは明らかだった。
月見丘の別邸は人通りの少ない場所にあり、翔平の配送ルートからも外れていた。
なぜ彼は透に会いに来たのか。
さらに調べると、二人が見知らぬ相手ではなかったことがわかった。
十数年前、透と翔平は同じ高校の同級生だった。透は成績も悪くなく、美術の才能を評価されて、卒業後は美術大学へ進んだ。翔平は勉強についていけなくなり、高校二年のころから学校を離れ、働き始めた。
そこから二人の人生は分かれた。
それでも、学生時代のつながりが完全に切れたわけではなかった。透は自分がデザイナーになってからも、昔の同級生を見下すような態度は取らなかった。翔平もときどき透と連絡を取っていた。
親友とまでは言えない。
それでも、長く知っている相手ではあった。
水原透を縛っていた鎖から、岩崎翔平の指紋が見つかった。
透の体に残る暴行の痕も、ほぼ翔平によるものと見てよかった。
これで、事件は一つの方向を持ったように見えた。
旧友が借金を取り立てに来る。
口論になり、暴力に発展する。
一人は鎖につながれて飢え死にし、もう一人は事故のように転落して死ぬ。




