4.身代わり
その日、奥沢署の警察官が森下家へやって来た。
逮捕しに来たわけではない。
森下が家に招いて酒を飲ませたのだ。真帆は料理を並べ、高い酒も用意した。その関係が汚いものだとはわかっていたが、どうすることもできなかった。
その日は頭痛がひどく、真帆はもてなしを終えると寝室へ下がった。
夜中に目を覚ますと、午前一時を過ぎていた。
居間から、まだ声が聞こえていた。
警察官は帰っていなかった。
真帆はもともと、大和が布団を蹴っていないか見に行くつもりだった。だが襖を少し開けたところで、居間の会話がはっきり耳に入った。
警察官は声を低くしていた。
「上が最近、環境保護の取り締まりを強めるらしい。違法な野鳥捕獲は目をつけられる。森下さんのところは今、目立ちすぎている。陰で足を引っ張ろうとしている奴もいるだろう。俺は地方署の一警官にすぎない。いつまでも守れるわけじゃない」
森下が煙を吐いた。
「俺はおまけみたいなもんですよ。鳥のことは、全部うちの嫁がやっているんです。あいつは学校も出ているし、客を探したのも、電網を作ったのもあいつです。俺みたいに中学を出てすぐ働いた男に、そんなことがわかるわけないでしょう」
襖の向こうで、真帆は動けなくなった。
警察官はしばらく黙った。
「そう言っても、お前が完全に逃げられるわけじゃない。せいぜい少し軽くなる程度だ」
森下は懐から包みを出し、相手のほうへ押しやった。
「近いうちに、あいつとは離婚するつもりです。もし本当に何かあったら、そのときはよろしくお願いします。買い手に渡した記録には、毎回あいつの名前を書かせてあります。俺は一人息子なんです。俺が入ったら、親はどうなるんですか」
警察官はそれ以上何も言わなかった。
金は上着の内側へ消えた。
真帆は襖の陰に立ったまま、酒卓の前に座る夫を見ていた。
その瞬間、彼女は初めて、自分がこの男をまったく知らなかったのだと思った。
最初の取引のとき、森下は真帆に記録へ名前を書くよう言った。彼女は理由がわからなかったが、森下は笑っていた。
この商売は真帆と子どものためにしている。
稼いだ金も全部、真帆が管理すればいい。
そう言った。
いつか会社にできたら、真帆を代表にするとも言った。
あのとき真帆は、それを信頼だと思っていた。
だが、違った。
彼は最初から、彼女を身代わりにする場所を用意していた。
正直に話してくれていたなら、真帆は家のために何かを背負ったかもしれない。
けれど、利用されることには耐えられなかった。
夜更けまで待っても、帰ってくるのは酔い潰れた夫だった。目も合わせず、布団に倒れ込むだけの夫だった。どうにか昔の二人に戻りたくて話題を探しても、返ってくるのは気のない返事だけだった。
あの夜、居間から聞こえた会話が最後の一押しになった。
真帆は、自分がもうとっくに耐えられなくなっていたのだと気づいた。
工場で働いていたころ、彼女には彼女なりの誇りがあった。その誇りは、森下の優しさを受け取るうちに、少しずつ消えていった。だが今、夫に利用されていたことを知り、その
誇りがもう一度体の奥へ戻ってきた。
そのときから、彼女は考え始めた。
どうすれば、この男に代償を払わせられるのか。
真帆が最初に思い浮かべたのは、黒川美里だった。
あの宴席の日、台所で美里の腕の痕を見たとき、真帆は何も言わなかった。その後、慎吾の態度を見て、あの家で何が起きているのかはおおよそ察していた。
霧原は小さい。
秘密は深く隠れない。
慎吾は気性が荒く、酒を飲むとさらにひどくなった。美里はあまり外に出ず、たまに見える肌には青い痕があった。集落の人間はそれを見ても、夫婦のことだと片づけ、関わろうとしなかった。
真帆は機会を見つけて、美里を家に呼ぶようになった。
慎吾の目は厳しかった。美里が来られるのは、夫が鳥捕りに出ているときか、外で酒を飲んでいるときだけだった。最初のうち、二人は台所でどうでもいい話をした。
天気。
買い物。
大和のこと。
川沿いの道のこと。
そのうち、言葉より沈黙のほうが役に立つようになった。
真帆は、傷がどこから来たのかを尋ねなかった。
美里も、真帆がなぜ夜ごと夫を待ち、目を赤くしているのかを尋ねなかった。
二人の女は、同じ山村で、それぞれ違う結婚に閉じ込められていた。
一人は外から来た妻で、表向きには豊かに見えながら、夫に身代わりとして準備されていた。
もう一人は地元の妻で、寡黙で、子どもを持てず、夫の暴力に少しずつ押し潰されていた。
前田沙也香が後に美里を取材したとき、一つの質問をした。
「あなたは本当に、慎吾さんに死んでほしかったんですか。結婚してから、楽しかった日はありましたか」
美里はうつむいたまま、長く答えなかった。
やがて、うなじの髪をそっと上げ、沙也香に傷痕を見せた。
「これは五年前のものです。そのころ、病院で妊娠しにくい体だと言われました」
美里と慎吾の結婚は、親戚の紹介だった。
結婚前、二人は数えるほどしか会っていない。美里の実家は山の中にあり、暮らしは楽ではなかった。親は、黒川家に嫁げば少なくとも食べるものには困らないと思った。
黒川家のほうは、子どもを産み、家のことをする女を求めていた。
結婚して間もなく、慎吾は手を上げるようになった。
もともと気性が荒く、酒を飲むと手がつけられなくなる男だった。美里が妊娠しにくいとわかってから、暴力はさらにひどくなった。
うなじの傷は、ある口論のあとに残ったものだった。
美里はずっと耐えていた。
実家は彼女を迎え入れない。
嫁ぎ先は、彼女を守らない。
このまま一生を終えるのだろうと思っていた。
真帆と出会うまでは。
真帆を知って、美里は初めて、自分はこのまま惨めに生きなくてもいいのかもしれないと思った。
真帆が計画を打ち明けたとき、美里は長く迷わなかった。
美里にとって、慎吾はいずれ自分を殺す人間だった。
彼女はただ、その日を待つのをやめただけだった。




