3.駅前の簡易旅館
2010年5月3日、警察は海坂駅前で森下真帆と黒川美里を見つけた。
二人は古い簡易旅館に泊まっていた。部屋は狭く、細いベッド二台と小さな卓袱台を置けば、もうほとんど余白がなかった。窓の外は駅裏の路地で、夜になると列車の到着音が聞こえた。
二人はすでに、北陸方面へ向かう切符を買っていた。
海坂を完全に離れるつもりだった。
警署へ連行されたあと、二人は別々に取り調べを受けた。真帆と美里は別々の取調室に入れられ、それぞれ二人の刑事が向き合った。
二日が過ぎても、二人は何も話さなかった。
真帆の目は固く、質問に答えるときもほとんど隙を見せなかった。美里はさらに黙っていた。もともと内向的な性格なのだろう。取調室の椅子に座っているあいだ、両手を膝に置き、自分を殻の中に閉じ込めているように見えた。
佐伯は、力ずくでは開かないと判断した。
彼は経験豊富な女性警察官、藤井直子を美里のもとへ向かわせた。
藤井は美里の向かいに座り、声を低くした。
「黒川慎吾は、あなたの夫ですよね。森下猛が彼を殺した。それなのに、なぜ森下さんと一緒に逃げたんですか」
美里はゆっくり顔を上げた。
「真帆さんは、私に優しくしてくれました」
藤井はすぐには追及しなかった。
美里の手を見ていた。
その言葉のあと、美里は無意識に自分のうなじへ触れた。とても軽い動きだったが、長く染みついた癖のように見えた。監視室にいた佐伯も、その仕草に気づいた。
しばらくして、佐伯は美里を留置場所へ戻すよう指示した。
そして少し離れて後ろを歩き、彼女の様子を見た。
美里がうつむいて歩いたとき、髪がうなじから少し滑り落ちた。
そこには、深い傷痕があった。
古傷ではある。だが痕は生々しく、髪の生え際から斜めに襟元へ伸びていた。さきほどの仕草がなければ、ほとんど誰も気づかなかっただろう。
佐伯は足を止めた。
ただ転んでできた傷ではない。
彼はすぐに取調室へ戻り、相手を替えた。
次に会うべきなのは、森下真帆だった。
真帆は取調室の椅子に、背筋を伸ばして座っていた。
佐伯が書類を机に置く。
彼女の視線は一度だけ紙面に落ち、すぐに逸れた。
「私は殺していません」
声は落ち着いていた。
佐伯はすぐに反論しなかった。
「美里さんは、もう話しています」
真帆の目が、ようやくわずかに揺れた。
ほんの一瞬だった。
だが佐伯には、それで十分だった。
「今ここで黙っていても、意味はありません。あなたには三歳の子どもがいる。実家には、あなたの帰りを待っている母親もいる。全部を人の口から語られて、本当にそれでいいんですか」
真帆は唇を強く結んだ。
長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「今話したら、少しは軽くなりますか」
佐伯は曖昧な約束をしなかった。
ただ、記録係に準備をさせた。
真帆は、港南市の電子部品工場に入りたてだったころから話し始めた。
当時、彼女は二十歳だった。
商業高校を卒業したものの、大学には進まなかった。それでも真帆は、自分は少なくともきちんと勉強してきた人間だと思っていた。電子部品工場には、早くに学校を離れ、あちこちで働いてきた若者も多かった。
真帆は、すべての人を見下していたわけではない。
それでも心のどこかに、小さな誇りはあった。
自分は、その日暮らしで流されている人間とは違う。
彼女は煙草も吸わず、酒も飲まず、男性作業員の下品な冗談に乗ることもなかった。入社したばかりのころ、そんな彼女は若い男たちに特別もてたわけではない。
だが、指導係の女性は真帆を気に入った。
その女性も、同じ時期に入った中では比較的学歴があるほうだった。のちに工場の小さな管理職と結婚し、事務部門に異動していた。真帆が真面目で覚えが早いのを見て、仕事のことをいろいろ教えてくれた。
森下猛を紹介したのも、その指導係だった。
森下は工場での勤務年数が長く、そのころにはすでに班長になっていた。
整った顔ではない。
服装にも無頓着だった。
口数は少なく、気の利いた言葉も言えない。ほかの男性作業員のように、きれいな女性の周りをうろつくこともなかった。けれど真帆は、その不器用な優しさに惹かれた。
森下は、口先だけの男たちとは違う。
そう思った。
付き合い始めると、森下は真帆をよく気遣った。働きぶりも真面目で、人柄も堅実だった。真帆の両親も、彼なら安心だと言った。
やがて二人は結婚し、まもなく子どもが生まれた。
森下が初めて自分で商売をしたいと言い出したとき、真帆は驚き、同時に嬉しくもあった。
経験もない二人が失敗したら、すべてを失うかもしれない。
その不安はあった。
けれど夫が、彼女と子どものために前へ進もうとしていることは嬉しかった。
その後、二人は霧原へ移り、違法な鳥捕りを始めた。
真帆は毎日、不安だった。
だが金は本当に入ってきた。
工場の給料とは比べものにならなかった。
以前より広い木造の家に住めるようになり、大和に少しいい服を買ってやることもできた。実家へ仕送りもできた。何より安心したのは、森下が金を持ってもすぐに変わらなかったことだった。
彼は相変わらず、真帆と子どもには優しかった。
そのころの真帆は、自分の選択は間違っていなかったと思っていた。
だが違法な商売は、いつも薄い氷の上を歩くようなものだった。
一度、奥沢署の人間が森下家を訪ねてきた。違法な野鳥捕獲の件だった。森下は金で人を動かし、どうにかその場を収めた。それ以来、真帆は夜中によく悪夢を見た。
自分と夫が連れていかれる夢。
大和が、誰にも面倒を見てもらえない子どもになる夢。
真帆は何度も、森下にやめようと訴えた。
これまで稼いだ金で、まっとうな商売をすればいい。大金持ちにならなくてもいい。家族三人が食べていければ、それで十分だ。
だが森下は聞かなかった。
彼は金に取りつかれていた。
危ない橋を渡ってでも稼ぎ続けるほうを選んだ。毎月の給料を数えながら暮らしていた昔には、もう戻りたくなかったのだ。
夫婦のあいだに、初めてはっきりした亀裂が入った。
森下は真帆が自分を理解しないと思い、友人たちと外で酒を飲むようになった。帰りは遅くなり、妻と子どもへの態度も少しずつ冷たくなった。
真帆は、自分に言い聞かせるしかなかった。
もう少しだけ気をつければ大丈夫。
集落には、ほかにも鳥を捕っている人間がいる。
自分たちだけが見つかるわけではない。
だが本当に彼女の心を折ったのは、ある深夜のことだった。




