5.HIVに感染した妻
一依は看護専門学校を卒業していた。
就職活動は順調ではなかった。大きな病院は競争が激しく、コネも後ろ盾もない一依にとって、入り込むのは難しかった。最終的に、彼女は海坂市立精神科医療センターで看護師として働くことになった。
精神科病棟の夜勤は、一般病棟よりもずっと過酷だった。
患者が不安定になれば、同僚と協力して落ち着かせ、守り、時には体を押さえる必要もある。対応の中でけがをすることもあった。
一依は山間の町で育ち、幼いころから両親の農作業を手伝っていた。
体力はあった。
数年働くうちに、混乱した場面でも冷静でいることを覚えた。最小限の動きで、興奮した人を止める方法も身につけた。師長は彼女を、真面目で我慢強く、病棟で頼れる人だとよく褒めた。
2012年、一依は同僚の紹介で神谷悠斗と知り合った。
悠斗は市役所で働いていた。身なりは清潔で、性格は穏やかだった。口数は少ないが、人を安心させる雰囲気があった。一依はきちんとした恋愛をしたことがなく、悠斗も自分に経験はないと言った。
二人でいると、いつも少しぎこちなかった。
デートも静かだった。
けれど悠斗は、一依をよく気遣った。
毎週末には会いに来た。夜勤の日には、差し入れを持って病院の近くまで来ることもあった。その穏やかな優しさに、一依は自分がようやく町の外の世界に受け入れられたような気がした。
ほどなくして、悠斗は結婚を申し出た。
一依はすぐには決められず、霧原の実家へ戻って両親に相談した。
母は満足そうだった。
悠斗は市役所職員で、仕事は安定している。見た目も物腰も悪くない。町の外で暮らす娘の相手としては、申し分ないように見えた。
一依の両親にとって、その結婚は娘が嫁ぐというだけではなかった。
家がようやく一つ報われるような出来事でもあった。
2013年、二人は結婚した。
結婚後、悠斗は交際中のような熱を見せなくなった。
穏やかではある。
けれど、いつも見えない膜を一枚挟んでいるようだった。夫婦としての触れ合いも少しずつ減り、やがて決まった義務のようになった。
姑は、悠斗はまだ若いし、仕事が大事な時期だからと言った。
一依は深く考えないようにした。
陽太を産んだあと、悠斗はさらに遠くなった。
一依は、自分が変わってしまったのだと思った。出産後の体を、夫が嫌になったのかもしれない。彼女は夫に気を遣い、家を整え、いい妻でいようとした。
それでも、夫との距離は戻らなかった。
ある日、一依はキッチンの扉を閉めて電話をしている悠斗の声を聞いた。
声は低かった。
だが、その柔らかさは、一依に向けられたことのないものだった。
「週末に会おう。大事にしてるよ」
一依は扉の外で凍りついた。
その日から、彼女は悠斗のスマートフォンを見るようになった。
自分が見つけるのは、どこかの女の名前だと思っていた。
だがそこにあった名前は、青柳悠真だった。
そのとき、一依は知った。
自分の結婚に入り込んでいた第三者は、若い女ではなかった。
何度も家に来て、一依が食事を出し、泊めたことさえあるあの男だった。
前田沙也香が一依を取材したとき、同じことを尋ねた。
「そのことを知ったとき、離婚は考えなかったんですか」
一依は首を振った。
「考えませんでした」
答えは早かった。
何度も自分に問いかけてきた人の返事だった。
「離婚という選択がわからなかったわけではありません。ただ……怖かったんです」
彼女はうつむいた。
「霧原のような場所では、人と人の距離が近すぎるんです。誰の娘がいい家に嫁いだとか、誰が離婚して戻ってきたとか、ずっと言われます。私は家で唯一、外へ出た人間でした。両親は私を誇りに思ってくれていました。離婚して帰ったら、両親まで一生言われ続けると思いました」
長い間があった。
「それに、陽太がいました。あの子を、両親が離婚した家庭で育てたくなかったんです」
だから彼女は耐えた。
悠斗と一度、向き合ったこともある。
その日、陽太は姑の家に泊まっていた。一依は悠斗のLINEの記録をテーブルに置いた。少なくとも夫は恥じ、説明し、離れないでほしいと頼むのではないかと思っていた。
だが悠斗は、それを見ても黙っていた。
その沈黙で、一依は悟った。
この人は、自分が離婚できないと知っている。
それ以降、悠斗は隠すことに真剣ではなくなった。家には帰る。父親の顔もする。外から見れば、普通の家庭も続いている。
けれど彼は悠真を家に連れてくるようになり、一依の目の前で連絡を取り合うこともあった。
一依が最後に出した条件は、一つだけだった。
「陽太には知られないようにして」
悠斗はうなずいた。
だが、うなずいたことは尊重を意味しなかった。
彼はただ、この家を都合のいい覆いとして使い続けた。
一依のことも、もう出ていけない妻として扱い続けた。
一依を最初に押し潰したのは、HIVの検査結果だった。
五月五日、こどもの日。
二人は陽太を連れて一日中出かけた。
帰宅後、悠斗は少し酒を飲み、疲れもあってすぐに眠った。一依はベッドの上の夫を見つめながら、久しぶりに胸の奥に小さな期待が生まれるのを感じた。
もしかしたら、まだ夫を自分のほうへ少しだけ引き戻せるかもしれない。
一か月後、一依は発熱し、頭痛と吐き気に襲われ、体には広い範囲で発疹が出た。最初は風邪かインフルエンザだと思った。ある日、病院の前でHIV検査を呼びかけるパンフレットを配っているボランティアを見て、その言葉が頭をよぎった。
一依はまず陽太を検査に連れていった。
幸い、子どもは感染していなかった。
一依の結果は、陽性だった。
彼女は報告書を手に、病院の廊下に長く座っていた。
一依は看護師だった。
現代の治療の意味も、誰よりもわかっている。
それでも彼女は、知らされていなかった。
選ぶこともできなかった。
夫を信じたというだけで、別の人生へ引きずり込まれた。
最後の一押しになったのは、百五十万円だった。
それは一依と悠斗が、陽太のために貯めてきた金だった。
幼稚園の費用になるはずだった。
将来、もう少しよい住まいへ移るための金になるはずだった。
自分に何かあったとき、息子へ残せる小さな保障になるはずだった。
けれど悠斗は、それを青柳悠真へ渡した。
悠真はその金で車を買った。
何も知らない、きれいなままの女の子を追いかけるために。
一依は銀行の明細を見つめ、心のどこかが完全に崩れるのを感じた。
長い間守ってきた結婚も、体面も、忍耐も、母親としての居場所も、その瞬間、すべて笑いものに変わった。
一依は、まず夫を殺した。
陽太を連れて霧原の実家へ帰るという口実で、自分が海坂を離れたように見せかけた。その後、妹を駅のカメラに映らせ、自分は先に海坂へ戻り、あの雨の中へ紛れ込んだ。
その夜、悠斗は悠真を家へ呼んで酒を飲んだ。
それも一依が仕向けたことだった。
彼女はすでに、悠真に新しい恋人がいることを知っていた。悠斗が金のことで自分と揉めたことも知っていた。その話を少し悠斗の耳に入れれば、二人の関係は勝手に裂ける。
実際、隣人は口論を聞いていた。
悠真が出ていくと、部屋は静かになった。
悠斗は酒で意識が鈍っていた。彼がベッドにうつ伏せになったとき、一依は寝室へ入った。自分と三年間結婚していた男を見た。妻、母、体面という場所を背負わせた男を見た。
かつては、安定した人生と結婚したのだと思っていた。
だが、それは他人から押しつけられた役割にすぎなかった。
その夜、悠斗は火が出る前に死んだ。
一依は火を大きくするつもりはなかった。
必要だったのは、少しの煙。
少しの混乱。
事故に見える可能性だけだった。
しかし、佐伯は見抜いた。
一依は、いずれ悠真に疑いが向くこともわかっていた。
それも計画の一部だった。
悠真が悠斗と口論になり、殺したように見せたかった。そうすれば夫の死も、恋人の秘密も、あの汚れた関係も、すべて悠真の上に押しつけられる。
だが悠真は逮捕されなかった。
それどころか、一依はすぐに知った。
彼の生活は続いている。
桐谷花音との結婚まで考え始めている。




