3.二人目の死者
2016年8月2日。
その日も、雨上がりの朝だった。
前の夜、海坂市には一晩中雨が降っていた。
今度の通報者は、桐谷花音だった。
青柳悠真は、彼女が借りているマンションで死んでいた。
花音と悠真は前夜、激しく言い争っていた。二人は同じ部屋では眠らなかった。朝、花音が客間へ起こしに行くと、悠真はベッドの上でうつ伏せになったまま動かなかった。顔を枕に埋めた姿を見て、息が苦しいのではないかと思い、彼女は彼の体を仰向けにした。
そのとき、彼がすでに呼吸していないことに気づいた。
警察が到着したとき、花音はリビングの隅に縮こまり、客間へ近づくこともできなかった。
佐伯は悠真の遺体を司法解剖へ回すよう指示し、自分は捜査員たちと現場に残った。
ローテーブルの上にあった一枚の書類が、佐伯の目を引いた。
病院の検査報告書だった。
そこには、青柳悠真がHIV陽性であることが記されていた。
佐伯は、その報告書がなぜ花音の部屋にあるのか、誰が先に見つけたのかを考えた。
法医学担当には標準的な感染防護を徹底するよう伝え、まだ動揺から戻れない花音を警察署へ同行させた。
今回の現場は、かなり閉じていた。
花音と悠真以外、第三者が残した明確な痕跡は見つからなかった。二時間後、法医学から初期報告が届いた。
悠真の死因は、神谷悠斗と同じだった。
窒息。
ただし、悠真の体には、悠斗の手首にあったような押さえつけられた痕がない。表面的には、自殺か事故にも見えた。だが佐伯は、すぐにその可能性を退けた。
悠真のスマートフォンには、翌日の午後の映画チケットを予約した記録が残っていた。
自殺を考えている人間が、翌日のデートを予約するとは考えにくい。
司法解剖報告書に添えられていた写真の一枚で、佐伯は目を止めた。
悠真の両手が、それぞれ人差し指を立てていた。
二本の指。
まるで二つの「一」のようだった。
これは何を意味しているのか。
二人の犯人。
二つの事件。
それとも、死の直前に誰かを指し示そうとしたのか。
佐伯は花音を取調室へ呼ばせた。
現時点で、彼女の嫌疑はもっとも強かった。
現場には花音と悠真しかいない。花音は検査報告書を見つけていた。怒りと恐怖を抱く動機もあった。口論の末、感情が爆発した可能性もある。
花音が佐伯の前に座ったとき、顔は青白く、視線はどこか定まらなかった。
佐伯はすぐに追い詰めず、報告書を机の上に置いた。
「昨夜、部屋にはあなたと青柳さんだけでしたか」
花音はうなずいた。
「はい」
「この報告書のことで、言い争ったんですね」
花音はその紙を見た瞬間、目を赤くした。
「これを見つけなかったら、私は今も騙されていました」
最近、花音は悠真の行動がおかしいと感じていた。何かを隠しているようだった。仕事の時間を利用して、彼女は悠真の部屋へ行き、引き出しの中からこの報告書を見つけた。
彼女はまず病院へ検査に行き、そのあと悠真に電話をかけ、仕事が終わったら自分の部屋へ来るよう伝えた。
悠真はテーブルの上の報告書を見た瞬間、動揺した。
膝をついて謝った。わざと隠していたわけではない、失いたくなかっただけだと言った。
だが、花音はもう信じられなかった。
時間が遅くなり、彼女は寝室へ戻って鍵をかけた。悠真は扉の外で泣きながら謝り続けた。何時間も膝をついていた。花音は別れると決めていたが、まだ深い関係になっていなかったことにだけは安堵していた。
ただ終わらせればいい。
これ以上、こじらせる必要はない。
そのときは、そう思っていた。
佐伯は彼女を見た。
「部屋へ戻ったあと、彼はずっと扉の前にいましたか」
「たぶん。声が近かったので」
「そのあとは?」
「眠ってしまいました。半分寝ているときに、彼が離れていく音が聞こえました」
佐伯は顔を上げた。
「どうしてそう思ったんですか」
花音は眉を寄せ、混乱の中から音の記憶を拾うように話した。
「足音です」
声は小さかった。
「重い音ではありませんでした。途切れ途切れで、少し歩いて、止まって、また歩く感じでした。眠りかけるたびに、その音で目が覚めました。私は、音に敏感なんです」
佐伯はすぐには答えなかった。
悠真が寝ていた客間は、花音の寝室の向かいにあった。距離は四、五歩ほどしかない。寝室の前から客間へ戻っただけなら、そんなに長く、途切れ途切れの足音が続くはずがない。
あの夜、部屋の中には第三者がいたのかもしれない。
供述を終えたあと、佐伯は花音を玄関まで送った。
外の空は低く曇っており、また雨になりそうだった。
花音は病院へ検査結果を取りに行くと言った。佐伯はちょうど通り道だったため、彼女を病院の前まで送った。赤信号で車を止めている間も、佐伯の頭には足音のことが残っていた。青に変わっても気づかず、後ろの車にクラクションを鳴らされてようやく我に返った。
アクセルを踏もうとしたとき、横断歩道を一人の女性が急いで渡っていった。
佐伯は、その背中に見覚えがあると思った。
よく見ると、神谷一依だった。
なぜ、ここにいるのか。
佐伯はすぐには追わなかった。
花音のマンションへ向かい、捜査員たちと二度目の現場確認を行った。だが新しい発見はなかった。さらに厄介なことに、事件当夜は雨と電力の不安定さが重なり、マンション管理会社の防犯カメラに不具合が起きていた。
線はそこで途切れた。
一つ目の事件の重要参考人が死んだ。
二つ目の事件は、雨水に洗い流されたように、ほとんど何も残していなかった。
佐伯は悠真の司法解剖報告書を、何度も読み返した。
二人の死に方は似ている。
だが細部は違っていた。
悠斗の手首には押さえつけられた痕があった。犯人が抵抗を防ぐために、両手を制御したのだろう。だが悠真には、そのような痕がなかった。その代わり、報告書には、背部に軽い擦過傷があると記されていた。
衣服と皮膚が、もがく中で擦れたような痕だった。
佐伯は少しずつ理解していった。
悠真は、うつ伏せの状態で襲われたのではない。
仰向けの状態で犯人に押さえ込まれ、窒息させられた。そのあと犯人は、遺体を悠斗と似た姿勢に置き直したのではないか。
もしそうなら、悠真はもがきながら犯人の顔を見たはずだ。
だから死の直前に、あの手の形を残した。
二本の人差し指。
二つの「一」。
神谷一依。
佐伯の目は、その名前で止まった。




