【二本の人差し指】雨の夜、妻は夫と彼の恋人を殺した 1.火災の前に死んでいた男
雨の日になるたび、佐伯航平はあの二つの遺体を思い出す。
最初の遺体が見つかったのは、2016年7月25日の朝だった。海坂市白川団地にある古い分譲マンションの一室から、窓の外へ煙が漏れていた。異変に最初に気づいたのは隣人で、朝、ベランダで洗濯物を取り込もうとしたとき、隣の寝室の窓から灰黒い煙が上がっているのを見て、すぐに119番通報した。
消防隊が到着すると、火はすぐに消し止められた。
火元は寝室の窓際だった。窓台には古新聞と段ボール箱が積まれていて、そのそばに燃え残った蚊取り線香があった。火の勢いは弱く、寝室全体に燃え広がる前に収まっていた。
だが、ベッドの上の男はすでに死んでいた。
男はうつ伏せで、顔を枕に埋め、背中を上に向けたまま動かなくなっていた。
眠っている姿勢には見えなかった。火事に気づいて逃げようとした姿にも見えなかった。そもそも火は大きくなく、水を一杯かければ消せる程度だった。意識のある大人が、何もせずそのまま死を待つとは考えにくい。
死亡していたのは、神谷悠斗。
二十七歳だった。
悠斗は海坂市役所の総務課で事務職員として働いていた。普段は妻の一依と息子の陽太と一緒に、この部屋で暮らしていた。一週間前、一依は陽太を連れて奥沢町霧原地区の実家へ帰っており、家には悠斗一人だけが残っていた。
知らせを受けた一依は、急いで海坂へ戻ってきた。
廊下で夫の遺体を見た瞬間、彼女は体の力が抜けたように崩れた。少し落ち着いたあと、司法解剖の同意書に署名し、海坂中央署刑事課は悠斗の死について本格的な捜査を始めた。
法医学の結果は、すぐに出た。
悠斗の鼻腔と気道からは、燃焼物を吸い込んだ痕跡が検出されなかった。
つまり彼は、火が出る前にすでに死んでいた。
佐伯航平は、この捜査本部の責任者だった。
長年事件を見てきた佐伯は、目立たない違和感を先に見る癖があった。表面だけ見れば、酔ったあとの事故死が、窓際の小さな火事に隠されたようにも見える。だが、現場の空気はそれだけでは説明できなかった。
さらに司法解剖で、悠斗の死因は窒息と確認された。
口と鼻の周辺からは綿の繊維が見つかった。血液と胃の内容物からはアルコールも検出された。死亡推定時刻は、前日の夜九時から十時ごろだった。
ここまでなら、こう考えることもできる。
悠斗は酒を飲み、酔ったままベッドに倒れ込んだ。顔を枕に埋めたまま眠り、酒の影響で目を覚ますことができず、窒息した。
だが、佐伯はすぐに結論を出さなかった。
台所にはビールの箱がいくつも積まれていた。悠斗が普段から酒を飲む人間だったことは明らかだった。酒に極端に弱いわけではない。食卓には、使われた食器とグラスが二人分あり、その横には空のビール缶が七本並んでいた。
あの夜、悠斗は一人で飲んでいたわけではない。
さらに重要なのは、悠斗の両手首に残っていた浅い痕だった。
強くはないが、指で押さえつけられた輪郭が見えた。
佐伯は寝室の入口に立ち、運び出されたベッドのあった場所を見た。
その夜の光景が、ほとんど想像できた。
悠斗は酒で意識が鈍くなり、枕に顔を押しつけたまま呼吸が苦しくなった。寝返りを打とうとした。もがこうとした。だが、背後から誰かが彼の手を押さえつけ、動けないようにした。
そして彼は、その姿勢のまま少しずつ呼吸を失った。
ただし、犯人は慎重だった。
現場には指紋も、決定的なDNAも残されていなかった。
もう一人分の食器を使った人物が、最初の手がかりになった。
隣人は警察に、事件当日の夜、悠斗の部屋から言い争う声が聞こえたと話した。
声は五分も続かなかった。
すぐに静かになった。
警察はグラスに残された指紋と悠斗のLINE記録から、その夜、一緒に食事をして酒を飲んでいた人物を突き止めた。
青柳悠真。
悠真は悠斗より二歳下で、大学時代の後輩だった。二人は六年前からの知り合いで、周囲には仲のいい友人として見られていた。悠真は整った顔立ちで、服装も洗練されていたが、佐伯の前に座ったときには、指の置き場にも困るほど緊張していた。
佐伯は調書を開いた。
「事件当夜、神谷さんと何をしていましたか」
悠真の視線が揺れた。
「食事をして、酒を飲みました」
「神谷さんの死は事故ではありません。あなたは、生前最後に会った人物の一人です。何か知っていることがあるはずです」
悠真はすぐに首を振った。
「本当に知りません。あの夜、酒を飲んだあと帰りました。シェアしている部屋の同居人も家にいました。証言してくれます」
「出たのは何時ですか」
「九時ごろです」
「隣人が、あなたたちの口論を聞いています」
悠真の喉が動いた。
「長い付き合いなので、ちょっとした言い合いはあります。そのときも少し腹が立って、そのまま帰りました」
「なぜ言い争ったんですか」
悠真はうつむいた。
「覚えていません」
佐伯は黙って彼を見た。
その沈黙が、悠真をさらに追い詰めた。
「酒に弱いんです。ビール一本でもすぐ顔に出ます。その日はけっこう飲んでいて、本当に覚えていません」
佐伯は調書を閉じた。
「覚えていないのに、帰宅時間は覚えているんですね」
悠真は慌てて顔を上げた。
「帰ってから悠斗にLINEを送りました。履歴は九時半です。ここから家までは近いので、タクシーで三十分くらいでした」
警察は白川団地の入口と、周辺の複数の防犯カメラを確認した。
映像には、悠真が午後八時五十分に白川団地を出る姿が映っていた。外は小雨で、彼は傘を差さず、道路脇のタクシーに乗った。九時二十六分、そのタクシーは悠真の住むマンション付近で停車した。その後、悠真は敷地内に入り、翌朝まで外へ出ていなかった。
時間だけ見れば、彼にはアリバイがある。
だが、佐伯は気を抜かなかった。
悠斗が死亡したのは、悠真が出てから一時間も経たないうちだった。もし犯人が悠真でないなら、その人物は悠真がいつ出るのかをかなり正確に知っていたことになる。しかも、悠真と鉢合わせしないように、悠斗の部屋へ入らなければならない。
玄関の鍵にこじ開けられた形跡はなかった。
顔見知りの犯行である可能性は高い。
佐伯はもう一度、悠真が残したLINEの記録を見た。
九時半。
悠真は悠斗にメッセージを送っている。
返事はなかった。
その時点で、悠斗はすでに眠り込んでいたか、何かが起きていたのだろう。




