4.先にやらなければ
事件前夜、澪は一人で焼肉店の個室に隠れていた。
外は静かだった。
個室の明かりは消えていた。廊下の奥から、わずかな光だけが差し込んでいる。彼女は隅に座り、膝を抱えていた。耳の奥では、昼間の笑い声が何度も響いていた。
誰かが自分を呼ぶ。
誰かがはやし立てる。
誰かが賭けの話をする。
拓真の笑顔が、何度も浮かび上がった。
現実の光景と想像の光景が絡まり合い、澪の中で一つの網になっていった。全員がもう話し合っている。拓真が中心にいて、他の人たちはそれを面白がって待っている。
彼女には、そう見えていた。
もう待てない。
八歳のとき、街灯のない県道を歩いた夜が、ふいに目の前へ戻ってきた。
あのときは目を閉じて、車が来るのを待っていた。
けれど今の澪は、誰かが自分へ突っ込んでくるのを、ただ待っていたくなかった。
澪は隅から立ち上がった。
店内にあった修理用の工具を手に取った。冷たい感触が、呼吸を浅くした。拓真が男性従業員用の広い休憩室ではなく、小さな個室で一人で寝ることを、澪は知っていた。
彼女は早くから、その個室に隠れていた。
時間が少しずつ過ぎていく。
やがて拓真が入ってきた。
彼は隅にいる澪に気づかなかった。ソファに倒れ込むように横になり、ほどなく重い寝息を立て始めた。
澪は暗がりに立ったまま、眠っている男を見ていた。
そのとき、頭の中にあった言葉は一つだけだった。
私は、もう機会をあげた。
そして彼女は近づき、手にしたものを振り上げた。
午前五時、悲鳴が焼肉店全体を起こした。
従業員たちが個室へ駆け込んだときには、すべてが終わっていた。
澪は部屋の中に立っていた。
目を大きく開き、入口の人々を見ている。どうして自分がそんな目で見られているのか、理解できていないようだった。
誰かが彼女の名を呼んだ。
誰かが手にしていた工具を取り上げた。
澪は抵抗しなかった。
ただ、低くつぶやいた。
「あの人が先に始めたんです」
しかし、その言葉を本当の意味で理解できる者はいなかった。
現実の中で、澪を殺そうとしている人間はいなかった。
目の前で刃物を振り上げている人間もいなかった。
死んだ男は、軽薄だったかもしれない。
悪ふざけが過ぎたのかもしれない。
澪を辱め、怖がらせるようなことをしたのかもしれない。
けれど、それでも彼は殺されるべき人間ではなかった。
澪が殺したのは、井上拓真だけではない。
現実と自分だけの世界をつなぐ、最後の細い糸でもあった。
事件当時、澪は十八歳に達していなかった。
そのため、事件はまず海坂家庭裁判所へ送られた。
家庭裁判所は、彼女の成育歴、非行歴、心理状態、事件に至る経緯を調査した。父の誠司も事情を聞かれた。調査室に座った彼は、急に何年も年を取ったように見えた。
その後、事件は検察官送致となった。
海坂地方検察庁は、望月澪を殺人罪で起訴した。
法廷で検察官は、澪が事前に個室へ隠れ、被害者が眠るのを待ってから攻撃を加え、拓真を死亡させたと指摘した。未成年であったとしても、結果は極めて重大であり、刑事責任は免れないと主張した。
一方、弁護人は、澪が父の暴力的な教育と母親の不在の中で育ち、中学時代から暴力で反応する傾向を示していたことを述べた。社会に出てからは、わいせつな行為、下品な冗談、職場での孤立を経験し、心理状態は悪化していった。事件当時、彼女は強い被害感と偏った恐怖に深く入り込んでいた。
法廷は、澪の成育環境を否定しなかった。
職場で不適切な冗談や、不快な接触があった可能性も否定しなかった。
それでも、それらは人の命を奪う理由にはならない。
海坂地方裁判所は、望月澪に殺人罪で懲役十五年を言い渡した。
判決が読み上げられている間、澪は顔を上げなかった。
誠司は傍聴席で、ずっと両手を握りしめていた。
裁判官が最後の言葉を読み終えると、彼はゆっくり腰を折った。
何かに押し潰されたようだった。
判決のあと、沙也香はもう一度、澪に会った。
澪は最初に会ったときよりも静かだった。矯正教育の中で読書を続け、心理面接も受けている。読書発表会で扱った『狂人日記』も、その時期に準備したものだった。
沙也香はノートを机に置いた。
「今、拓真さんのことを思い出すと、何を考えますか」
澪の目は、すぐに赤くなった。
「ごめんなさい、と思います」
彼女はうつむいた。
「あの人が何をしたとしても、死ぬほどのことではありませんでした。私は命を奪いました。ご両親にも、友人にも、あの人を知っていたすべての人にも、取り返しのつかないことをしました」
声が少しずつ低くなっていく。
「私の罪は、一生かけても償いきれません」
沙也香は澪を見た。
「あなたの人生は、まだ続きます。でも、まず覚えなければいけないことがあります」
澪が顔を上げた。
沙也香の声は静かだった。
「暴力では何も解決しません。誰かを傷つけることで自分を守ろうとしてはいけません。自分の世界から出てこなければいけないんです」
澪の目から涙が落ちた。
両手で顔を覆い、肩を小さく震わせた。
「私だって、そうしたくないんです」
声は指の隙間から漏れた。
「でも、止められないんです。本当に、自分で止められないんです」
沙也香は、それ以上何も言わなかった。
面会室には、少女の押し殺した泣き声だけが残った。
澪が後悔していることは伝わってきた。
けれど、その後悔がまだ、自分を制御する力にまではなっていないこともわかった。
母の不在。
暴力的な教育の中で育った恐怖。
異性への偏った警戒。
それらは澪を、いつでも鋭い棘を立てる人間にしてしまった。彼女はその棘で自分を守れると思っていた。だが最後に、その棘は他人の命を貫き、自分の人生まで突き刺した。
『狂人日記』の怖さは、狂人に論理がないことではない。
自分の論理を、あまりにも強く信じていることだ。
澪も同じだった。
父の疑い。
同級生からの攻撃。
見知らぬ男のわいせつな振る舞い。
同僚たちの冗談。
拓真の笑顔。
それらを、彼女は一本の線でつないだ。
その線は澪の中で日ごとに濃くなり、固く締まり、最後には理性を縛る縄になった。
彼女は償いたいと言った。
けれど本当の償いは、謝罪の言葉だけでは足りない。
涙の奥に隠れて、自分は止められなかったと繰り返すことでもない。
立ち止まることを覚えなければならない。
自分の判断を疑うことを覚えなければならない。
怒りや恐怖が胸の中で膨らんだとき、もう二度と暴力へ手を伸ばさないことを覚えなければならない。
人生には、一度失うと取り戻すのが難しいものがある。
冷静な頭。
自分を律する力。
他人を信じ、自分自身も信じる力。
そして、希望。
人が本当に自分の運命のハンドルを握るのは、誰かを傷つけられるようになったときではない。
心の闇に引きずられそうになったとき、それでも自分を止められるようになったときなのだ。




