3.厨房の冗談
澪は港南町で住み込みの仕事を見つけた。
そこは宴会個室のある焼肉居酒屋で、夜遅くまで営業していた。忙しい時間帯には、ホールと厨房を合わせて数十人の従業員が働く。地方から出てきた若いスタッフも多く、正式に部屋を借りていない者は、空いている個室や従業員用の休憩室で眠ることもあった。
初めて本格的に社会へ出た澪は、慣れる間もなく多くのことを覚えなければならなかった。
注文を取ること。
料理を運ぶこと。
テーブルを片づけること。
焼き網を替え、調理器具を洗うこと。
手際はよくなかったが、澪は必死に働いた。
ただ、店の中は声が多すぎた。
若い男性従業員たちは、仕事の合間に冗談を言った。その中には、澪には理解したくもない意味を含むものが混じっていた。夜、女性従業員たちが休憩室で話すときも、昼間に聞いた下品な冗談を笑い話にすることがあった。
周囲が腹を抱えて笑う中で、澪だけが布団の端に座り、胃のあたりを固くしていた。
彼女には、そういう話を相談できる相手がいなかった。
母は早くに家を出た。父には、なおさら話せない。男女のことは、澪にとってずっと、汚く、危険で、口に出してはいけないものだった。
その恐怖をさらに深くした出来事があった。
ある午後、澪は休憩時間に向かいのコンビニへ充電ケーブルを買いに行った。細い道を渡ろうとしたとき、バイクが彼女のすぐ横で速度を落とした。
運転していた男は、下品な仕草をしてから、すぐに加速して去っていった。
澪はその場で固まった。
三十代くらいの男だった。
顔に浮かんでいた笑みが、いつまでも頭から離れなかった。
店へ戻っても、澪は誰にもそのことを言わなかった。
沙也香は尋ねた。
「店には、年の近い女の子はいませんでしたか」
澪は首を振った。
「いました。でも、入ったばかりで、まだ親しくありませんでした」
彼女の手が膝の上に置かれる。
「そういうことは、口に出せませんでした。一人で考えるしかなくて、考えているうちに、どんどん狭いところへ入り込んでいきました」
その日を境に、澪は社会の本当の姿とはこういうものなのかもしれないと思い始めた。
男の人が口にする好意も、恋愛も、優しさも、全部嘘なのだと。
最後には欲望になる。
侮辱になる。
父が自分を疑ったあの目になる。
焼肉店には、若い男性従業員が多かった。
彼らはよく動き、よく騒ぎ、仕事の疲れを冗談で紛らわせていた。無口で、小柄で、いつも表情をこわばらせている澪を、からかうようなこともあった。
彼らにとっては、ただの退屈しのぎだったのかもしれない。
けれど澪には、一言一言が試しに見えた。
ある日、澪は厨房の裏口を通りかかり、数人の男性従業員が自分の名前を出しているのを聞いた。通り過ぎるつもりだった足が、扉の横で止まった。
中では誰かが大声で笑っていた。
「望月って、あんなにきつい顔してるけど、誰かちょっかい出せる?」
「賭けようぜ。今夜、後ろから抱きつけたやつに、俺たち一人二千円ずつ出す」
「ただの金だろ。やらないほうが損じゃん」
周りから、すぐに笑い声と野次が上がった。
澪は扉の外で、手足が冷たくなるのを感じた。
彼らにとって、それは疲れた仕事の中で出た悪質な冗談にすぎなかったのかもしれない。
けれど澪の耳には、もう冗談ではなかった。
計画だった。
陰謀だった。
自分を勝手に触れていいもの、からかっていいものとして扱っている証拠だった。
その日から、井上拓真は澪にとって最も警戒すべき相手になった。
拓真はホール担当で、澪よりいくつか年上だった。よく話す男で、たしかに冗談の中心にいることも多かった。澪には、彼が本当に軽薄なのか、ただ周囲に合わせているだけなのか判断できなかった。
ただ、拓真が笑うと、周りの人間も一緒に笑う。
それだけは、彼女の中で確かなことになっていた。
しばらくして、すれ違いざまの出来事が起きた。
その日は店が忙しく、拓真はトレーを持って廊下の向こうから歩いてきた。二人がすれ違おうとしたとき、彼はトレーを持ち直すような動きをした。その動作の中で、彼の手が澪の胸元近くに触れた。
触れた感触は軽かった。
偶然だったのかもしれない。
澪は一歩下がった。
彼の手を見て、それから目を見た。
その瞬間、澪は自分が相手に機会を与えているつもりだった。
拓真が謝れば、あるいは慌てた顔をすれば、事故だったと信じられたかもしれない。
けれど拓真は、そのまま前へ歩いた。
腕を振った拍子に、もう一度、澪の体へかすった。
そして、彼は笑った。
その笑みは、澪の目の中で一瞬にして別の意味を帯びた。
普通の笑みではない。
悪意のある笑みだ。
見たか、わざとだ。お前に何ができる。
そう言われているように感じた。
澪も、拓真へ笑い返した。
それは親しみの笑みではなかった。
心の中で誰かを敵として決めたときに、彼女が浮かべる笑みだった。
沙也香はそこまで聞いて、眉を寄せた。
「そのとき、本当に故意だったと確信していたんですか」
澪は長く黙った。
「そのときは、故意じゃないと思いたかったです」
顔を上げた。
「でも二度目に触れて、笑ったんです。あれで、偶然ではないと思いました」
声が少しずつ硬くなっていく。
「私は、もう機会をあげたんです」
沙也香には、その一言が引っかかった。
澪の世界では、すべてに彼女なりの論理がある。
ただ、その論理はもう、傾き始めていた。
翌日の昼、澪は空いている個室で眠っていた。
焼肉店は昼間の営業がなく、従業員たちはよく個室で仮眠を取っていた。澪が寝ついたばかりのころ、扉が突然蹴るように開いた。数人の男性従業員が入口に立ち、笑いながら店長が呼んでいると言った。
澪は勢いよく起き上がった。
彼らの表情は軽すぎた。
言葉も本当らしくなかった。
何をするつもりなのかはわからない。
それでも、自分が追い詰められている感覚だけはあった。
その日の午後、澪は誰も予想しなかったことをした。
髪を剃ったのだ。
頭皮に沿うほど短く。
鏡の中の自分から、女の子らしさが消えていた。削られた木の棒のように細い顔を見つめているうちに、澪は少しだけ落ち着いた。
女の子に見えなければ、もうあんな目で見られない。
そう思った。
けれど翌日、冗談は形を変えただけだった。
厨房の誰かが澪を見るなり、口笛を鳴らした。
「望月が寺で修行したら、参拝客が増えるんじゃない?」
「しかも全員、男だろ」
また笑い声が上がった。
中心にいたのは、やはり拓真だった。
澪はその場に立ち、指を少しずつ握り込んだ。
自分がどう変わっても無駄なのだと、そのときわかった。
髪が長ければ見られる。
髪を剃っても笑われる。
彼らの目には、自分はいつまでも、言葉にされ、見られ、からかわれるものとして存在している。
恐怖と羞恥は、その瞬間、怒りに変わった。
その怒りの中から、一つの考えがゆっくり育っていった。
先に動かなければ。
そうしなければ、いつか自分が壊される。




