5.殺されたのは彼女の子ではなかった
警察が黒川家に到着すると、美咲は廊下の奥へ行き、明人に電話をかけた。
電話口の明人は、まだどこか落ち着いていた。
「子どもはタブレットを見ている。蓮司とはどうなった」
「警察を呼ばれた」
明人の呼吸が乱れた。
「何だって?」
「もう家に警察が来てる」
「じゃあ、今すぐ子どもを返す。おまえから説明しろ。これは美咲が考えたことだって」
美咲の声が急に冷えた。
「何を説明するの?」
明人は携帯を握ったまま、しばらく言葉を失った。
「おまえの計画だろ」
「子どもを連れ出したのは兄さん。脅しのメッセージを送ったのも兄さん。文化センターには防犯カメラがある。私は午後ずっと教室にいたって証明できる。兄さん、この件が私と何の関係があるの?」
その言葉は、重い鉄の塊のように明人を打った。
彼はようやく、自分が最初から罠に入れられていたことを知った。
「美咲、おまえ……人間か」
電話の向こうで、少し沈黙があった。
「兄さんには真紀さんも、子どももいるよね。子どもをさらってお金を要求したら、ただでは済まない。警察に捕まったら、兄さんの人生は終わる」
明人は床に座る悠斗を見た。
子どもはタブレットを抱え、画面の光を顔に受けていた。まだ何も知らない。大人たちに崖の端まで連れて来られていることも知らない。
「俺はどうすればいい」
美咲の声は、耳元でささやくようだった。
「今、兄さんを助けられるのは私だけ」
十分もたたないうちに、明人は煙草を一箱吸い切った。
妻と子どもの顔が頭の中を何度もよぎった。刑務所、裁判、報道、家族に向けられる視線。それらの映像が黒い霧のように広がり、判断を少しずつ奪っていった。
そのとき、悠斗が泣き出した。
「帰りたい」
明人は動かなかった。
「家に帰りたい。パパのところに行きたい」
その声が、明人の中で最後に残っていた糸を切った。
明人は立ち上がり、悠斗をベッドへ押さえつけた。
子どもは足をばたつかせて抵抗した。声はすぐに細く、途切れ途切れになった。明人の目は赤く充血し、指は小さな首に食い込んでいた。
「恨むなら、俺じゃない」
彼は何度もつぶやいた。
「おまえの母親を恨め。全部あいつが仕組んだんだ」
数分後、部屋は静かになった。
明人は手を離し、ベッドの脇から床へ崩れ落ちた。動かない悠斗を見つめ、悪夢から急に覚めたような顔をした。
しかし、その悪夢はすでに現実になっていた。
彼は人工呼吸をした。胸も押した。何の反応もなかった。
悠斗は死んでいた。
携帯の着信音がまた鳴った。
画面に表示された美咲の名前を見て、明人の手は震えた。
「どうなったの」
美咲の声が受話口から流れてきた。
明人は目を閉じた。
「死んだ」
向こう側が一瞬、静かになった。
「なら、きれいに片づけて」
明人は目を見開いた。
「何を言ってるんだ」
「警察に誘拐がばれたら、兄さんは終わり。遺体を処分すれば、誰にもわからない」
明人はその声を聞きながら、初めて妹が恐ろしくなった。
「おまえの子どもだろ」
美咲は小さく笑った。
「ここまで来たなら、もう隠さない」
明人は声を出せなかった。
「悠斗は、私が産んだ子じゃない」
部屋の空気が、すべて抜け落ちたようだった。
「私の子は陽太。兄さんが連れていったのは、蓮司と前の奥さんの子ども」
明人の手から、携帯が落ちそうになった。
美咲の声は続いた。
「小さいころから面倒を見てきたわ。ママって呼ばれるたびに、気持ち悪かった。どうして前の女が残した子どもを、私が育てなきゃいけないの」
明人はベッドの上の悠斗を見た。
その子は、前日に
「こんにちは」
と礼儀正しく挨拶した。
一万円を渡したとき、困った顔でこちらを見上げていた。
その頭に、明人は自分の手を置いた。
そして今、彼はその子を殺した。
のちに取材でその瞬間を語ったとき、明人はもう自分ではなかったと言った。
「終わったと思いました」
彼はガラス越しに沙也香を見た。
「美咲を罵りたかった。今すぐ行って殺してやりたいとも思った。でも子どもはもう死んでいた。頭の中に残っていたのは、自分の家族まで終わらせるわけにはいかない、ということだけでした」
最後に、明人は糸で引かれる人形のように、悠斗の遺体を河川敷へ運んだ。
夜の風は冷たかった。河川敷は使われなくなって久しく、周囲に人の気配はなかった。彼はガソリンをまき、火をつけた。炎が少しずつ子どもの体をのみ込んでいくのを見ていた。
焦げたにおいが鼻の奥へ入り込んだ。
明人は暗闇の中にしゃがみ込み、立てなくなるほど吐いた。
それでも、悠斗が再び目を開けることはなかった。
捜査本部の動きは止まらなかった。
脅迫メッセージ、車の走行記録、防犯カメラの映像、携帯電話の位置情報、ガソリンの購入履歴。いくつもの線が、すぐに明人へ集まっていった。逮捕された明人は、証拠を前に犯行を認めた。
だが美咲は、殺人への関与を最後まで否認した。
拘置所で、沙也香は彼女を見つめた。
「悠斗くんが亡くなって、つらいですか」
美咲はうなずいたが、すぐには答えなかった。
「あの子もあなたをお母さんと呼んでいました。陽太くんにそう呼ばれるのと、何か違いましたか」
美咲は机を見つめた。
「あの子も、陽太と同じようにかわいそうだと思います」
沙也香は視線をそらさなかった。
美咲は顔を上げ、落ち着いた口調で言った。
「でも、私がそうしたわけではありません。殺したのは明人です」
最初から最後まで、彼女は自分を別の場所に置いていた。
傍観者のように。
被害者のように。
死んだ子どもとは、本当には関係がなかったかのように。




