4.偽りの誘拐計画
2016年の初め、明人は妻の真紀を連れて久しぶりに地元へ帰った。
何年も帰っていなかったため、親戚や友人との食事会が続いた。その夜、明人が飲み会から戻ったのは、ほとんど深夜だった。布団に入って間もなく、携帯が鳴った。
静かな部屋に、着信音が鋭く響いた。
真紀を起こしたくなかった明人は、携帯を持って急いで居間へ出た。
「美咲?」
電話の向こうから、押し殺した息遣いが聞こえた。
「兄さん、蓮司がまた女のところに行った。さっき服だけ取りに帰って、何も言わずにまた出ていったの」
「まず落ち着け」
「今度こそ助けて」
明人は受話口を手で覆い、声をひそめた。
「こんな時間だ。泣くな。ゆっくり話せ」
「兄さんが助けてくれないなら、私もう生きていけない」
居間の戸が開いた。
真紀が立っていた。顔には不快感がはっきり出ていた。明人は妻を一瞥し、急いで電話を切った。
真紀は明人の横に座り、怒りを抑えた声で言った。
「名古屋にいるときから、いつも夜中に電話してくるでしょう。せっかく帰省しているのに、またこれなの?美咲さんはもう大人なんだから、あなたが毎回受け止める必要はないよ」
明人は煙草に火をつけ、しばらく黙っていた。
「妹なんだ」
「あなたは兄であって、あの人の人生の保険じゃない」
明人は言い返さなかった。
真紀の言うことが正しいのはわかっていた。けれど、母は生前ずっと言っていた。うちは美咲に悪いことをした。兄として、できるだけ面倒を見てやってほしい、と。その言葉は釘のように、明人の胸に刺さったままだった。
彼は、自分が血縁を取り戻しているのだと思っていた。
その埋め合わせが、犯罪への入口になっているとは知らなかった。
数日後、真紀は親戚に誘われて買い物へ出かけた。
彼女が家を出てまもなく、美咲が訪ねてきた。
玄関を開けた明人は一瞬驚き、慌てて中へ入れた。
「どうして来たんだ。電話では済まない話なのか?真紀がいなくてよかった。いたら、また揉める」
美咲は小さく笑った。
「いないのは知ってる」
明人の眉が動いた。
「おまえが仕組んだのか」
美咲は否定しなかった。ソファに腰を下ろし、バッグの持ち手を指で巻きながら、しばらく黙っていた。
明人は彼女の額にかかる髪を見て、不安になった。
「蓮司にまた何かされたのか」
「違う」
「じゃあ、何だ」
美咲は顔を上げた。ためらいが目に浮かんでいた。
「考え直したの。蓮司も、いつも悪いわけじゃない。前は二人で沖縄に行こうって話していたこともあるし」
明人は黙っていた。
「今回は……もう一度だけ、許してみようと思う」
明人は息をついた。
「おまえのことだ。自分で決めればいい。美咲が幸せなら、俺も母さんも安心する」
その瞬間、明人はもう終わったのだと思った。
三日後には、真紀と名古屋へ戻る予定だった。
だが、美咲の本当の計画は、そこから始まっていた。
翌日の午後、美咲から電話があった。
「兄さん、今日の四時、国道沿いの果物屋さんの前まで来てくれない?もうすぐ名古屋に帰るでしょう。真紀さんと兄さんに渡したいものがあるの」
明人の胸が少し温かくなった。
「そんな気を使わなくていい」
「兄さんだもの。私が気にしなくて、誰が気にするの」
午後四時、明人は約束の場所に着いた。
美咲はすでに待っていた。手には小さな箱がいくつかあった。木曽で買った漆塗りの箸と、お守り代わりの組紐だと言って、明人と真紀の分を差し出した。
「これからも、二人とも無事でいてね」
明人はのちにその言葉を思い出すたび、背筋が冷たくなった。
そのとき、少し離れたところから一人の男の子が走ってきた。
美咲が手招きした。
「悠斗、こっち」
男の子は彼女の隣へ駆け寄り、明人を見上げた。
美咲は子どもの肩に手を置いた。
「ご挨拶して。明人おじさんよ」
「こんにちは」
明人は美咲に子どもがいることは知っていたが、黒川家の事情までは知らなかった。目の前の礼儀正しい男の子を見て、彼女の実の子だと思い込んだ。
財布から一万円札を出し、悠斗に渡した。
悠斗は受け取るのをためらい、美咲も形だけ押し返した。最後には、彼女が子どもに受け取らせた。
明人は妹からの贈り物を持って帰った。そのとき、心はむしろ軽かった。
自分がすでに崖の縁へ追い込まれていることなど、思いもしなかった。
翌朝六時、明人の携帯がまた鳴った。
名古屋へ戻るまで、もう二十四時間も残っていなかった。
電話に出ると、美咲の声が聞こえた。
「兄さん、来て」
明人はすぐに起き上がった。
「どうした」
「駅前の金桂ビジネスホテル。303号室にいる」
彼女は少し間を置いた。
「蓮司にまた殴られた」
明人は上着をつかみ、真紀を起こすこともできないまま外へ出た。
ホテルの部屋で、美咲は額にガーゼを貼っていた。目は赤く腫れ、疲れ切った顔をしていた。
その姿を見た瞬間、明人の中に押し込めていた怒りが一気にあふれた。
「前に俺が懲らしめると言ったとき、おまえが止めた。今度は止めるな」
美咲はベッドの端に座り、明人を見上げた。
「普通に怒ったって、効かない」
明人は足を止めた。
美咲の声が低くなった。
「本当に怖い思いをさせないとだめ。家族を失う怖さを、蓮司にわからせたいの」
彼女はそこで、計画を口にした。
明人が子どもを連れ出し、誘拐されたように見せかける。蓮司に五百万円を要求する。蓮司が恐れ、取り乱し、家族の大切さに気づけば、それで終わりにする。
明人は聞き終える前に首を振った。
「だめだ。誘拐だぞ」
「少し脅かすだけ」
「美咲、これは犯罪だ」
「私が自分の子どもを傷つけると思う?」
明人は彼女の額のガーゼを見つめ、最後には押し切られた。
彼は、自分が妹のために、危険ではあるが短い芝居を手伝うだけだと思っていた。
その芝居が最初から、子どもの逃げ道をふさいでいたことに気づかなかった。
その日の夕方、明人は美咲に言われたとおり、路上で遊んでいた悠斗を車に乗せた。
悠斗は明人のことを覚えていたため、すぐに車へ乗った。明人は飲み物と菓子を買い、
彼を一時的に借りていた部屋へ連れていった。悠斗はカーペットに座ってタブレットを見ていた。ときどき顔を上げ、いつ帰れるのかと聞いた。
そのころ、美咲は家へ戻り、悠斗がいなくなったと蓮司に伝えた。
蓮司の反応は、美咲の想像より激しかった。
彼は居間を行ったり来たりし、顔色を失い、携帯を握る手まで震えていた。そのとき、計画どおり明人から身代金を要求するメッセージが届いた。
五百万円。
蓮司は画面を数秒見つめると、すぐに110番へ電話をかけた。
美咲が止めようとしたときには、もう遅かった。




