隣の花屋
二〇一五年十月の終わり、美紀は海坂市を出ようと決めた。
港南市内で働くつもりだった。
駅前のバスターミナルで、彼女はスーツケースを引き、改札へ向かおうとしていた。そこへ修吾が現れ、スーツケースの取っ手をつかんだ。
美紀は振り返り、彼の顔を見た。
すぐには言葉が出なかった。
二人は駅前広場の端まで歩いた。
秋の風が、頬を冷たくなでていった。
修吾はスーツケースを見下ろした。
「一人で港南へ行って、本当にやっていけるのか」
美紀はうつむいた。
「外でやってみたいの」
「遠くへ出たこともないだろ。慣れると思うか」
美紀は顔を上げた。
「じゃあ、どうすればいいの。何もしないで飢え死にしろっていうの?」
修吾はしばらく黙った。
「仕事を見つけてきた」
美紀は目を見開いた。
「仕事?」
「白川町商店街の花屋だ。ちょうど人手が足りないらしい。給料は高くないけど、この辺りなら悪くない。前のアパートに住めば、生活費も少し抑えられるし、悠奈にも会える」
美紀の表情がこわばった。
「あの花屋って、小百合のスーパーの隣でしょう?」
修吾は視線を逸らした。
「今は仕事を探すのも簡単じゃない。逃したら、次がいつになるかわからない」
少し間を置いた。
「本当は、悠奈に頼まれたんだ。お母さんが遠くへ行ったら寂しいって」
娘の名を聞いて、美紀はようやく手の力を抜いた。
うなずいた。
「わかった。あなたの言うとおりにする。私も、何かできるようにならないと」
美紀は、自分なりに覚悟したつもりだった。
花屋と小百合のスーパーは、毎日顔を合わせる距離にある。つらいに決まっている。それでも白川町に残れる。毎週土曜日、悠奈に会える。
そう思えば、少しのことは我慢できるはずだった。
だが小百合は、美紀を静かに残しておくつもりなどなかった。
花屋では生花のほか、小さな雑貨も売っていた。
美紀は棚を整理し、荷物を受け取り、花を包んだ。覚えるのは遅かったが、真面目に働いた。店主も最初は、手際はよくないが怠ける人ではないと思っていた。
小百合のスーパーは、そのすぐ隣だった。
美紀が荷物を受け取りに店先へ出るたび、小百合はスーパーの入口に立った。商店街の人に聞こえるような声で、わざとつぶやいた。
「元妻って、働く場所の選び方も上手ね」
美紀は段ボールを抱えたまま、振り返らなかった。
小百合の声は続いた。
「離婚したって言いながら、毎日前の夫の近くをうろうろして。どっちがみっともないか、みんなわかってると思うけど」
通りすがりの人たちは聞こえないふりをした。
だが、その視線は美紀に落ちた。
もっとひどいときには、小百合は客の前で言った。
「いるのよね。自分が夫をつなぎ止められなかったのに、離婚してからもまた取り戻そうとする人って。本当に迷惑」
美紀の指が、段ボールの縁に食い込んだ。
本当は、小百合が自分たちの婚姻に入り込んできた。
それなのに今、小百合は合法的な妻だった。
美紀のほうが、前夫にまとわりつく女にされていた。
その立場の逆転は、美紀の呼吸を塞いでいった。
花屋の店主が困った顔で話しかけてきたとき、美紀はもう結果を察していた。
「美紀さん、最近、店の前で揉めることが多くてね。お客さんも減っているの。本当に申し訳ないんだけど」
美紀はうなずいた。
何も言い返さなかった。
仕事を失ったあと、彼女はいくつか面接を受けたが、どれもうまくいかなかった。
やがて、小さなアパートに閉じこもるようになった。
悠奈以外の誰にも会いたくなかった。
美紀は小百合を憎んでいた。
けれど、その憎しみは深く押し込められていた。
何度も圧縮された火の塊のように。
最後の風が吹くのを、ただ待っていた。
毎週土曜日は、美紀と悠奈の面会交流の日だった。
その日、美紀は朝早くから部屋を片づけていた。娘を河川敷の公園へ連れていくつもりだった。悠奈は前から何度も、そこを散歩して、帰りにコーラを買いたいと言っていた。
午前八時を過ぎた。
八時半も過ぎた。
九時近くになって、ようやくインターホンが鳴った。
美紀が扉を開けると、悠奈が立っていた。帽子のつばを低く下げている。一目見ただけで、美紀は異変に気づいた。
彼女は手を伸ばし、娘の顔を上げさせた。
額と頬に、はっきりと腫れがあった。
美紀の胸が沈んだ。
「悠奈、顔、どうしたの」
悠奈は母の手を避けた。
「大丈夫。朝、出るときに階段で足を踏み外しただけ。お母さん、公園行こう」
美紀は動かなかった。
娘を見つめ、声を低くした。
「嘘をつかないで。誰にされたの」
悠奈は唇を噛んだ。
長いあいだ黙っていた。
やがて、涙がこぼれた。
「小百合さん」
美紀の手が宙で止まった。
悠奈はうつむき、肩を震わせた。
「今日、お母さんのところへ行こうとしたら、止められたの。宿題が終わるまで出るなって。私が行こうとしたら、抱きついて止めてきたから、腕を噛んだ。そしたら叩かれた」
美紀の胸に、何かが強くぶつかった。
悠奈は続けた。
「普段も叩かれる。お父さんがいるときは優しいふりをするの。お父さんがいないと、私のすること全部が気に入らないみたいに見る」
美紀は娘を抱きしめた。
そのとき、声を上げて泣くことも、すぐに飛び出すこともしなかった。
ただ強く抱いた。
強すぎて、悠奈が少し息苦しくなるほどだった。
小百合に罵られても耐えたこと。
仕事を失っても騒がなかったこと。
離婚の日、小百合が悠奈をちゃんと見ると言ったこと。
それらの光景が、一つずつ浮かび上がった。
最後には、同じ色に燃えた。
自分さえ退けば、少しは静かになると思っていた。
けれど退いた結果、守られるはずだった娘は守られなかった。
小百合の手は、さらに悠奈へ向かっていた。
美紀は娘の髪を撫でた。
「ごめんね、悠奈。お母さんが悪かった」
悠奈は首を振った。
美紀は立ち上がり、上着を手に取った。
「ここで少し待っていて。コーラ、買ってくるから」
悠奈は見ていなかった。
美紀がテーブルの上の果物ナイフを、上着のポケットへ入れたことを。
彼女は扉を閉め、階段を下りていった。
一歩一歩が、妙に落ち着いていた。




