2.家へ戻った日
美紀はできるだけ音を立てずに玄関を開けた。
修吾に得意げな顔をされたくなかった。戻ってきた時点で、もう十分に惨めだった。これ以上、彼に笑われたくなかった。
だが一歩入ったところで、足が止まった。
寝室の奥から、女の笑い声が聞こえた。
軽い笑い声だった。
けれど美紀の耳には、針のように刺さった。
彼女はゆっくりと寝室の前まで歩き、扉に耳を寄せた。中からは、途切れ途切れの話し声が聞こえる。隠す気のない親しさがあった。
修吾の声。
そして、もう一人の女の声。
美紀はその声を知っていた。
階下にある小さな食品スーパーの店主、三浦小百合だった。
美紀は勢いよく扉を開けた。
寝室の二人が同時に固まった。
修吾はベッドの端に座り、服は乱れていた。小百合は彼のそばに寄り添い、長い髪を肩に流している。顔には、少しの動揺もなかった。
美紀の視界が暗くなった。
「修吾、私が家を空けて何日だと思ってるの」
彼女は小百合へ目を向けた。
胸が大きく上下していた。
「あなた、私の家で何をしてるの」
小百合はゆっくり立ち上がった。
謝らなかった。
むしろ、薄く笑った。
「自分で出ていったんでしょう?」
その一言は、目の前の光景よりも深く美紀を傷つけた。
美紀は小百合へ飛びかかろうとした。修吾が二人の間に入って止めようとしたが、動きはひどくぎこちなかった。小百合は逃げるどころか、美紀を押し返した。
「修吾はもう、あなたとは暮らしたくないのよ。今さら戻ってきて騒がないで」
美紀は完全に我を失った。
二人の女はすぐにもみ合いになった。
修吾は止めようとしたが、どちらも引き離せなかった。混乱の中で、美紀は小百合に頬を打たれ、よろめいた。
頬が熱く痛んだ。
彼女は顔を押さえたまま、修吾を見た。
「私がこの人にやられてるのを、ただ見てるの?」
修吾は美紀を見て、小百合を見て、最後には頭を抱えてしゃがみ込んだ。
何も言わなかった。
その瞬間、美紀の胸に刺さった痛みは、頬の痛みよりはっきりしていた。
自分はもう、この家で唯一の妻ではない。
それどころか、守られる側ですらない。
美紀は壁に手をつき、立ち上がった。
「わかった。場所を空けてあげる」
修吾が顔を上げた。
追いかけようとしたようにも見えた。
けれど小百合が彼の腕をつかんだ。彼女はその肩へ頭を寄せた。まるで勝者のような姿だった。
修吾の腕はわずかに動いた。
だが、最後まで振りほどかれなかった。
美紀は、また家を出た。
このとき、彼女はまだ知らなかった。
もう二度と、妻としてこの家に戻ることはできないのだと。
数日後、修吾は美紀の妹に連絡を入れるようになった。
美紀を家へ連れ戻すためではなかった。
離婚の話をするためだった。
その話し合いは、白川町のファミリーレストランにある半個室で行われた。修吾、小百合、美紀、美紀の妹、そして悠奈が同じテーブルについた。
小百合は修吾の隣に座っていた。
まるで、すでにこの家の女主人になっているかのようだった。
店員が水を置いて出ていくと、半個室には苦しい沈黙が残った。
最初にグラスを持ち上げたのは小百合だった。
「こうして話し合えるだけでも、よかったと思います」
美紀は冷たい目で彼女を見た。
「用があるなら、はっきり言って」
美紀の妹も我慢できなかった。
「うちの話し合いに、どうしてあなたが座っているんですか」
悠奈は父を見た。
十四歳の彼女には、大人の沈黙の意味がもうわかっていた。
「お父さん、どうしてこの人もいるの?」
修吾はうつむき、答えなかった。
小百合はグラスを置き、修吾のほうを向いた。
「修吾が話したいことがあるの」
彼女はそっと彼の腕に触れた。
修吾は崖の縁へ押し出されたように、喉を動かした。
「美紀、俺たち、離婚しよう」
小百合の口元が、かすかに上がった。
美紀は、逆に静かになった。
修吾を見つめ、低い声で言った。
「私たち、何年一緒にいたと思ってるの。悠奈だって、もうこんなに大きいのよ。本当にこの家を壊すの?」
修吾はすぐには答えなかった。
先に口を開いたのは小百合だった。
「もう放してあげたらどうですか。修吾は決めています。今ここで受け入れてくれたら、私たちもできる限りのことはします」
悠奈が勢いよく立ち上がった。
「どうしてあなたが、お母さんを追い出すの?」
小百合は悠奈を見た。
顔には、まだ笑みが残っていた。
「悠奈ちゃん、これからは私たちと一緒に暮らすのよ。だったら、もう少しちゃんと話せるようにならないと」
その一言が、美紀と妹に火をつけた。
二人はほとんど同時に小百合へ向かっていった。小百合は一瞬で座席の端へ追い込まれた。修吾は慌てて間に入ったが、混乱は止められなかった。
小百合は修吾の名を甲高く叫び続けた。
その声が、ますます場を荒らしていった。
修吾がついに怒鳴った。
「もうやめろ!」
その叫びで、半個室の空気が一瞬止まった。
修吾は赤い目で美紀を見た。
「この離婚は決めた。美紀、もう一日だって一緒には暮らせない」
その日から、親戚や知人が何を言っても、修吾は揺らがなかった。
三か月後、二人は家庭裁判所の調停で離婚した。
悠奈はまだ、それまで通っていた中学校に在籍していた。生活圏も白川町にあった。修吾には固定の住まいがあり、安定した収入もある。一方、美紀は家を出たばかりで仕事がなく、住まいも完全には落ち着いていなかった。
調停の中で、双方は最終的に、修吾を親権者とすることに同意した。
悠奈はそのまま、元の学区で暮らすことになった。
美紀には、面会交流の取り決めが残された。
毎週土曜日、悠奈は美紀のところで一日を過ごせる。
書類に署名したとき、美紀の指先は冷たかった。
彼女は夫を失った。
そして、毎日娘と暮らす権利も失った。
離婚手続きが終わった日、小百合も来ていた。
彼女は修吾の隣に立ち、親しげに腕を絡めていた。美紀が出てくると、わざわざ近づいてきた。
「美紀さん、安心してください。悠奈ちゃんのことは、私がちゃんと見ますから」
美紀には、もう言い争う力が残っていなかった。
彼女は修吾だけを見た。
「少し、二人で話したい」
修吾は小百合の腕から自分の腕を抜いた。
「少し待っててくれ」
小百合の顔がわずかに変わった。
美紀は見なかった。
少し離れた場所で、美紀は低く切り出した。
「この何年か、私もわがままだった。こうなったのは、私にも悪いところがある」
修吾の目が暗くなった。
「もういい。家を壊したのは俺だ」
美紀は首を振った。
「今さら、どっちが悪いなんて言っても仕方ない。悠奈だけが心配なの。あの子には、ちゃんとしてあげて」
修吾は鞄から封筒を出し、美紀の手に押し込んだ。
「お前、仕事もまだ安定してないだろ。しばらくはこれを使え。困ったら連絡してくれ」
美紀は返そうとしたが、修吾はその手を押さえた。
そのとき、小百合が近づいてきた。
顔には笑みがあった。
「そうですね。困ったことがあれば言ってください。でも、離婚も済んで、手続きも終わったんですから、いつまでも曖昧な関係を続けるのはやめたほうがいいと思います。変な噂が立ったら、困るでしょう?」
美紀は封筒を握りしめた。
指先に力が入っていく。
そのころの彼女は、まだこの家への未練を捨てきれていなかった。
けれど、その家にはもう自分の居場所がなかった。




