【奪われた家】娘の顔の傷を見た母は、包丁を握った 1.小さなスーパーの血痕
二〇一六年六月二十五日、午前九時過ぎ。
海坂市白川町商店街は、ようやく一日のざわめきを帯び始めていた。
通りの角に近い小さな食品スーパーで、三浦小百合がレジ横に倒れていた。棚から落ちた調味料が床に散らばり、割れた瓶の中身が血と混ざって広がっている。海坂中央署刑事課が到着したとき、彼女はすでに息をしていなかった。
店内には、一人の女が座っていた。
もう何も握ってはいなかった。ただ棚の下に寄りかかり、焦点の合わない目で床を見ている。警察官が近づいても逃げず、抵抗もしなかった。
口の中で、同じ言葉だけを繰り返していた。
声は、夢の中から漏れてくるように低かった。
「悠奈を叩いたの」
女の名は、高梨美紀。
三十七歳。
被害者の三浦小百合は、美紀の元夫、高梨修吾の再婚相手だった。
刑事たちは美紀を海坂中央署へ連行し、すぐに取調べを始めた。服にはまだ血がつき、髪は乱れている。けれど表情だけは、異様なほど虚ろだった。
椅子に座ると、美紀はゆっくり顔を上げた。
向かいの刑事を見た。
「なぜここに連れてこられたか、わかっていますか」
「わかっています」
唇が小さく動いた。
「人を殺しました」
「誰を殺したんですか」
「修吾の今の奥さんです」
刑事が調書を開いた。
「高梨修吾さんとは、どういう関係ですか」
美紀は少し黙った。
「昔は夫婦でした」
指がこわばり、白くなっていた。
「そのあと離婚して、あの人は小百合と暮らすようになりました」
三人の関係は、一見すると複雑ではない。
元妻。
元夫。
再婚相手。
けれど、この事件の下には、とうにほどけなくなった婚姻の結び目が沈んでいた。
その結び目は一年前から少しずつ締まり、最後には白川町の小さなスーパーへ、すべての人間を引きずり込んだ。
前田沙也香が美紀に会ったのは、事件が裁判に移ったあとだった。
美紀は拘置所の服を着て、面会室へ連れてこられた。ずっと頭を下げていて、沙也香が机の上の録音機を調整しても、すぐには顔を上げなかった。
沙也香は静かに彼女を見た。
「修吾さんと離婚する前は、よく喧嘩をしていたんですか」
美紀の視線は、机の上に落ちたままだった。
「よくしていました。何度も離婚するって言っていました」
少し間があった。
「あの人、酒を飲んで帰ってくると手を上げることもありました。でも、そのあとで心配してくれるんです。そういうことが続くうちに、少しずつ心の中にしこりができていきました」
面会室は静かだった。
沙也香は急かさなかった。
美紀はようやく、昔のことを置ける場所を見つけたように、少しずつ声を落としていった。
「私も、昔はわがままでした。今思えば、自分で少しずつ、あの場所まで押していったんだと思います」
二〇一五年の春、美紀と修吾は結婚して十年以上が経っていた。
修吾は長距離トラックの運転手だった。物流会社の下請けとして各地を走り、家計のほとんどを支えていた。美紀は白川町に残り、娘の悠奈の世話をしながら、家の細かなことをしていた。
裕福ではない。
けれど、暮らしてはいけた。
ただ、二人とも満たされてはいなかった。
修吾は長く家を空けることが多く、帰ってくると疲れと酒の匂いをまとっていた。美紀は、自分だけが家に取り残されているように感じていた。話す相手もなく、気にかけてくれる人もいない。
彼女が息をつける場所は、商店街の裏手にある雀荘だけだった。
店の入口には「健康麻雀」と書かれた看板が掛かっていた。
けれど常連たちは、内々で小さな金をやり取りしていた。
美紀も、それがよくないことはわかっていた。
それでも牌卓の前に座ると、自分が誰の妻で、誰の母親なのかを一瞬だけ忘れられた。目の前の牌だけを見ていればいい。牌と牌が触れ合う乾いた音を聞いていれば、胸のざわつきが少しだけ消えた。
その日の午後、美紀は調子よく打っていた。
卓を囲む一人が笑って彼女を急かしたとき、背後から伸びた手が、重く肩を押さえた。
美紀が振り向くと、顔色が一瞬で変わった。
「修吾?今日は帰ってこないって言ってたじゃない」
修吾は彼女の後ろに立っていた。
顔は青ざめるほど怒っていた。
「またここで打ってたのか」
周りにいた数人はすぐに金箱を片づけ、何も見ていなかったような顔をした。
美紀は慌てて彼を止めようとした。
「ここで騒がないで。もう少しで終わるから」
修吾は卓の上の牌を見て、怒りを抑えきれなくなった。
「俺が外で走ってる間に、ここで金を使ってたのか。何回やめるって言ったんだ」
常連たちは、一人ずつ立ち上がった。
「家の用事があるから、先に帰るわ」
「俺もそろそろ」
美紀は去っていく背中を見て、思わず足を踏み鳴らした。
「ちょっと、帰らないでよ。やっと取り戻せそうだったのに」
修吾が美紀の手首をつかんだ。
「まだ金の話か」
美紀は彼の手を振り払った。
「もう少しで戻せたの。全部あなたが邪魔したからでしょう」
修吾は怒りのまま、スマートフォンを壁へ投げつけた。
壊れる音がして、雀荘は完全に静まり返った。
その日、二人は人前でひどく言い争った。
美紀は恥をかかされたと思い、修吾はもう限界だと思った。
けれど、こんな争いは二人の結婚生活で初めてではなかった。
喧嘩が大きくなるたび、美紀は荷物をまとめて実家へ帰った。
彼女は子どものころから両親に甘やかされて育った。少しでもつらいことがあると、逃げ場所があるほうへ走ってしまう。修吾は最初のころ迎えに行ったが、やがてそれにも疲れていった。
二人は同じ家に立っていた。
けれど間には、日ごとに広がる亀裂があった。
また別の日の喧嘩のあと、美紀はスーツケースを開き、服を一枚ずつ押し込んでいた。
修吾は寝室の入口に立ち、険しい顔をしていた。
「またそれか。喧嘩するたびに実家へ帰って、楽しいのか」
美紀は手に持っていた服をベッドへ叩きつけた。
「あなたの家で大事にされてるなら、私だって出ていかないわよ。少しくらい逃げたっていいでしょ」
修吾は声を低くした。
「俺は外で長距離を走って、一円ずつ家に入れてる。お前は毎日雀荘か。こっちがどれだけきついかわかってるのか」
美紀は振り返った。
目が赤くなっていた。
「じゃあ、あなたは何をしてくれたの? この何年かで、私に何か買ってくれた? 家のことだって、結局ほとんど私任せじゃない」
修吾は扉の前を塞いだまま動かなかった。
美紀は彼を押しのけ、スーツケースを引いて玄関へ向かった。
「出ていったら戻ってくるなよ。今度は絶対に迎えに行かない」
防犯ドアが閉まる音は、廊下に重く響いた。
修吾はその場に立ったまま、壁を何度も殴った。
美紀は実家に数日泊まった。
母は彼女に戻るよう説得した。美紀は口では嫌だと言ったが、心のどこかでは、このままずっと逃げ続けるわけにはいかないとわかっていた。
悠奈はもう中学生だ。
母親が何かあるたび実家へ戻れば、いつか子どもまで肩身の狭い思いをする。
母は美紀の荷物を持ち、彼女の住むマンションの下まで付き添った。
「もうやめなさい。長く一緒にやってきた夫婦でしょう。いつまでもこんなことをしていたら駄目よ」
美紀はスーツケースを押しながら、唇を噛んだ。
「どうしていつも私が先に折れなきゃいけないの」
母はため息をついた。
「その性格は、私たちが甘やかしたせいでもあるわ。戻ったら、ちゃんと話しなさい。もうお父さんとお母さんを心配させないで」
美紀はうなずいた。
そのときの彼女は知らなかった。
本当に顔を上げられなくなる出来事は、家の中で彼女を待っていた。




