4.娘のために握った刃
美紀が小百合のスーパーへ入ったとき、店内に客はほとんどいなかった。
小百合はレジ横に立ち、小さな鏡を見ながら化粧を直していた。自動ドアの音に顔を上げ、美紀を見ると、すぐに不機嫌そうな表情を浮かべた。
「何しに来たの」
美紀は棚の間に立っていた。
片手は上着のポケットに入っている。
「悠奈を叩いたでしょう」
小百合は鏡を置いた。
「あの子が言うことを聞かないからよ。しつけただけ」
美紀は一歩近づいた。
「どうして私の娘を叩くの」
小百合は鼻で笑った。
「あなたの娘?今、一緒に暮らしているのは私よ。あなたはもう離婚したんだから、昔の立場で口を出さないで」
美紀の息が重くなった。
小百合は気づいていないのか、気づいていても気にしていないのか、そのまま続けた。
「修吾はもうあなたを選ばなかったの。まだこの辺りをうろうろして、みっともないと思わない?」
その瞬間、美紀の頭の中で、何かが切れた。
花屋の前で向けられた視線。
ファミリーレストランで、修吾に離婚を言わせた小百合の顔。
離婚の日、修吾の腕に絡みながら、悠奈を世話すると言った声。
最後に見えたのは、娘の顔の腫れだった。
「あなたは私の夫を奪った。家も奪った。今度は子どもにまで手を上げた」
小百合は眉を寄せた。
「またおかしくなったの?」
美紀はポケットからナイフを取り出した。
小百合の顔色が、初めて変わった。
最初の悲鳴が外へ漏れたとき、向かいの店の人たちは一斉に顔を上げた。近所の人たちがスーパーへ駆け込んだときには、もう取り返しがつかなかった。
棚は倒れ、商品が床に散らばっていた。
小百合はレジのそばに倒れていた。
美紀は床に座っていた。
逃げなかった。
手にしていた刃物を取り上げられても、抵抗しなかった。
警察が来るまで、彼女は床を見たまま、同じ言葉を繰り返していた。
「悠奈を叩いたの」
それは説明のようでもあった。
自分に言い聞かせるための言い訳のようでもあった。
けれど、何度繰り返しても、小百合が立ち上がることはなかった。
美紀は、娘のために刃を握ったつもりだった。
だが本当に娘へ残したものは、もう一つの逃げ場のない傷だった。
取調べの中で、美紀は事件の経緯を認めた。
ナイフを持って下りたこと。
小百合のスーパーへ入ったこと。
言い争いの中で我を失ったこと。
殺害の事実は否定しなかった。ただ、娘の顔の傷に話が及ぶと、表情だけが急に激しく揺れた。
沙也香が彼女に会ったころ、美紀は逮捕直後よりずっと落ち着いていた。
けれど、その落ち着きは楽になった人間のものではなかった。
力を使い果たした人間の静けさに近かった。
沙也香はペンを置いた。
「どうして、あそこまでしてしまったんですか」
美紀はゆっくり顔を上げた。
「今になって思い出しても、あのときの自分がどうなっていたのか、よくわかりません」
机の下で指が絡まっていた。
「ただ、悠奈の顔だけが浮かんでいました。それと、小百合が『しつけただけ』って言ったこと」
面会室は静かだった。
美紀はうつむいた。
「ずっと、あの人に家を奪われたと思っていました。でも本当に私をおかしくしたのは、自分が悠奈さえ守れないとわかったことでした」
沙也香はすぐには言葉を返せなかった。
その答えは、母親の愛のようにも聞こえる。
けれど、事実は変わらない。
美紀は人を殺した。
小百合がどれほどひどい言葉を投げたとしても、悠奈に手を上げていたとしても、美紀に刃物で命を奪う権利はなかった。




