第3話 森の中の社
今日も羊の番をしながら、暇つぶしと修練を兼ねて柵の周囲を飛び跳ねる。あの日、柵から落ちて天草四郎の記憶が蘇った日から続けている日課だ。始めた頃は柵の上に飛び上がることも難しかったが、鍛錬が進み背も伸びた今は軽々と飛び越えられるようになった。何なら、宙でトンボを切るのも容易である。
この軽業めいた動きは何をしているかと言うと、忍びの訓練である。俺がかつて森宗意軒から学んだ忍びの技は、一名を<不知火流忍術>という。俺の生地天草からほど近い不知火の海に現れる、幻の火をその名に冠する流派だ。
忍者はまずもって、身の軽さを身上とする。そのため幼い頃から跳躍の練習をするものだ。よく知られる鍛錬としては成長の早い麻の苗を植え、毎日その上を飛び越えるというものがある。日々高さを増す苗木の上を飛び越し続けることで、自然と驚くほどの高さが飛べるようになるのだ。
まあ、今の俺は天草四郎ではなくルルスという名の若者で、この土地も日の本とは似ても似つかない場所だ。農場の周囲には麻が自生しているということもなく、代わりにこうして柵木を飛び越えているという訳だが。
「ふむ、こんなものか」
一通り飛んだり跳ねたりして、俺は柵の上に腰掛けて囲いの中の羊の群れを眺める。この羊という生き物は日の本では見たことがなく、伝え聞く十二支の羊とその長い毛がそっくりなので、俺は羊と呼んでいる。こちらの言葉では「しいぷ」と呼ぶのだが、果たしてこやつらは本当に大和言葉で言うところの羊なのかどうか。
だが伴天連達から聞き及んだところによれば、天主の御子はしばしば羊飼いに喩えられるという。そう考えると、俺が生まれ変わって羊の世話をしているのも何やら妙な因果を感じるものだ。
羊はその毛を刈って織物にしたり、肉も皮も高額で売れる誠に役立つ家畜である。何でも毛織物や羊皮は迷宮からは産出せず、農家が飼育する羊に頼っているらしい。さすがに迷宮産の品々に比べれば安価だが、それでも農家にとっては貴重な金銭を得る手段だ。
我が家が他の百姓に比べて比較的豊かに暮らせているのはこの羊達のお陰なので、俺も小さい頃から大事に世話をしてきた。この農場は森に近く、様々な恩恵を得られる代わりに危険も多いので、しっかり見張っていないと何があるか分からないのだ。そう、例えばこの様に。
俺は囲いの向こうに鬱蒼と茂る森に異変を感じ、そちらへと素早く視線を送る。何か、大きなものが森の奥からこちらへ向かってくる。そう直感した次の瞬間、それは森の端から姿を現しこの農場めがけて駆けてきた。
猪だ。大きい。目方はおそらく、俺の倍はあるのではないか。猪は森を出て真っ直ぐ、羊の囲いめがけて疾駆してくる。いかん、あれは止まらんぞ。俺は柵から腰を浮かすと、いつでも動けるように身構えた。
猪はその勢いを殺すことなく、柵に衝突する。横木が折れる嫌な音が響いて、あの畜生は柵を突き破り囲いの中へ侵入した。突然のことに驚いて、羊達が囲いの中を逃げ惑う。
「チッ!」
俺は舌打ちすると、羊の群れの上を飛び越えて猪の正面に着地した。この畜生め、うちの羊達が怪我でもしたらどうするんだ。俺は半身の姿勢で構えると、突進してくる猪を待ち受ける。
目前に迫る猪は目が血走り、大した迫力だ。その額や首周りを覆う毛皮は厚く硬く、生半なことでは痛痒を感じまい。そしてその口元から伸びた牙は、全速力の勢いとも相まって俺の横腹など容易く切り裂き臓腑を溢れさせるだろう。
「はあっ!」
衝突の直前、俺は逆に猪に向けて半歩踏み込むと、掌を押し下げるように繰り出した。
「ブギュウッ!」
猪は奇妙な鳴き声を上げ、鼻面を地面にめり込ませるように止まっていた。俺の掌打で勢いを下向きに変えられ、地面に頭から突っ込んだのだ。俺に打たれた脳天は頭骨が割れ、衝突の勢いで首の骨も折れているだろう。俺は残心の構えを取りながら、一歩引いて痙攣を続ける猪の巨体から距離を取る。
しばらくして猪に起き上がる気配がないことを確認すると、俺は構えを解いて止めていた息をゆっくりと吐き出す。その時、俺の耳に呼び声が届いた。
「ルルス!どうした、何があった?!無事か?!」
物音に気づいたからだろう、兄のクラウスがこちらへ駆け寄りながら声を張り上げている。俺はそちらへ向けて、大声を返した。
「森から猪が出てきた。柵を突き破られてしまったよ」
「ルルス、大丈夫か?怪我はないか?」
遠くの畑から騒ぎを聞きつけて、父もやって来たようだ。俺は眼の前に転がっている猪を見ながら、咄嗟に嘘をつく。
「地面の穴か何かに足を取られたみたいで、猪が勝手に転んで首の骨を折ったみたいだ。僕には怪我はないよ。それより羊が心配だ。ちゃんと揃っているか確かめよう」
父と兄は地面に倒れている猪の大きさに目を剥いていたが、俺に促されて囲いの中の羊を数え始めた。やがて三人で数を突き合わせると、今年生まれた子羊が一匹足りないことが分かる。慌てて辺りを見渡してみるが、見える範囲に子羊の姿は見つけられなかった。となれば、考えられるのは一つしかない。囲いの破れ目から逃げて、森の中に入ったのだ。
「僕が森に入って探してくる。二人は囲いの修繕を」
俺の言葉に、父が首を振りながら答える。
「今はまだ明るいが、夕暮れが近い。夜の森を歩き回るのは危険過ぎる。残念だが、諦めよう」
「大丈夫。僕の身の軽さは知っているでしょう?」
「しかし」
「親父」
何か言いかけた父を、兄が遮って言った。
「ルルスが大丈夫と言っているんだ。信じよう」
父はそれでも言葉を募ろうとしていたが、やがて大きく溜息をついた。
「絶対に、日暮れまでには戻って来い。羊が逃げたのは痛手だが、お前に何かあったら目も当てられないからな」
「約束するよ」
俺は二人に向かって手を振ると、囲いを出て森に向かって歩いていく。背中に「気をつけろよ」という兄の声を聞きながら。
人の手の入っていない森は、昼でもなお暗い。下生えは濃く、蔓草も伸び放題なのでただ歩くだけでも一苦労だ。
ただそれは同時に、獣の痕跡を見つけることも容易なことを意味する。俺は先程倒した猪がつけたのであろう疾走の跡と、それより遥かに小さな四足の生き物が通った跡を発見した。おそらくこれが、うちの羊がつけた足跡だろう。
普通に追っていたのでは時を浪費してしまうので、跳び上がって頭上の枝を掴む。そのまま猿のように枝から枝へと飛び移り、時折子羊の痕跡を確認しながら追跡していくと……居た。森の奥、そこだけぽかりと空が覗く空き地の中で、目当ての子羊が不安がって鳴いている。
俺は勢いをつけて一際高く飛び上がると、音を殺して羊の後ろに着地した。そのまま素早く抱え上げ、驚いてもがく子羊の頭を撫でつける。生まれた時から世話をしてきた仔だ、すぐに大人しくなったので横抱きに抱え直した。そこで改めて、今自分がいる場所を見渡す。
幅十間(三十メートル)ほどだろうか。円形に広がる空き地には木々は生えておらず、一面の草地だった。その広場の中央に、ぽつんと人の背丈ほどもある大石が座している。地面から突き出たそれは草原の中から突如として聳えた山のようで、表面は苔で覆われている。
俺は思わず息を呑んだ。午後も遅い傾いた日差しに照らされたその大石には、「神さびた」としか言い様のない空気が漂っていたからだ。ここは、この場所は、神聖なる何かを祀るための土地だ。理由もなく俺はそう感じ、自然と頭が垂れる。
父から「森には入るな」と予てから言い含められていたが、忍術の訓練がてら浅いところに立ち入ったことは何度もあった。しかし、これほど森の奥まで入ったのは初めてだ。それ故、森の中にこのような場所があるとは知らなかった。家族や村の者からも聞いたことがないため、恐らくは人が通わなくなって久しいのだろう。俺、というかルルスが生まれるよりだいぶ前、両親がこの地にやって来て開拓村が出来るよりも前の時代からあったのやも知れん。
俺は内心、中心にあるあの石にこれ以上近づくのを躊躇していたが、どうもそういう訳にはいかないらしい。この空き地の周囲を駆け回る気配がしている。狼だ。群れをなして俺の腕の中の子羊と、そして俺自身を狙っている。
俺がこんな森の奥深くまでやって来る羽目になった切っ掛け、あの猪が何故羊の囲いに突っ込んできたか納得がいった。おそらくは、この狼の群れに追われていたのだ。折角の獲物を森の外に逃がしてしまった狼達は、今度こそ失敗すまいとこの空き地を取り囲んでいる。
俺は大石を背にして立つと、子羊を小脇に抱え直した。全身から力を抜き、ゆったりと構える。視界は広く、敢えて焦点を定めずに全体を見渡して襲撃の兆候に備える。
その時木立の間から、空き地の中に躍り出た影があった。遂に狼が、その姿を現したのだ。子牛ほどの体躯を誇る狼がまず一頭、真っ直ぐにこちらへ駆けてきたかと思えば二間(六メートル)ほども手前で踏み切り、宙を舞って襲い掛かって来る。
俺はその牙が届く寸前で身をかわし、すれ違いざまに狼の首元めがけ手刀を突き出した。鍛えた指先は厚い毛皮を突き破り、頚椎に達してそれを砕く。捻りを加えながら手を引き抜くと、狼は飛びかかってきた勢いのまま大石の横を通り過ぎ、そこでどうと倒れ地に伏した。俺はそれを横目で見ながら、油断なく周囲に気を配る。
次は二頭同時か、それとも三頭か。更なる血戦に備え群れの様子を探っていると、奇妙なことに気がついた。狼達は空き地の周囲を走り回るのを止め、動きを止めてこちらを窺っているようなのだ。一頭が斃されただけで怖気づくのか?まるで物盗りか野伏のようだなと思っていたが、それは違った。
その刹那、背後より壮絶な気配が生じて、背骨が引き抜かれるような悪寒が俺を襲った。周囲を取り囲む狼の群れのことも忘れて振り向くと、あの大石が斑に青白い光を放っている。その光が、先ほど仕留めた狼から飛び散った血飛沫が付着した箇所から発せられているのに、俺は漸く気がついた。
青白き光はますますその輝きを強め、やがて血痕から大石全体に広がると冷たい炎のように吹き上がった。遠くで狼達が悲鳴の如き鳴き声を上げるのが聞こえ、この場から逃げるように去っていく気配を感じたが、それは心の片隅でぼんやりと認識したに留まっていた。俺は目前の光景に圧倒され、その霊威に打たれ、我知らず膝をつく。
大石からの光はなお勢いを強め、天に届かんばかりの威容で周囲を照らしていた。やがてその光の中に人影のようなものが生じると、辺りに澄み渡るかのような女人の声が響く。
「――妾の社を訪いしは誰そ?」
忍法異界転生第3話です。もう一方のシリーズが現在2巻目の単行本作業に入っているので、次の更新はまた暫く先になります。よろしくお願いいたします。




