ほらね。。。
「やっと静かになったか……」
真新しい台拭きを水に濡らしてから、溜息とともに強く引き絞る。
両親はもとより仕事で不在のため、一階に人の気配は無い。
妹の唯は「ちょっと外出てくるね」と朗らかな笑顔で出かけていったけれど、きっと煩かったんだろうな。気を遣わせて悪いことしちまったな。
ったく、あの二人はもう少し仲良く出来ないものなのか。まあ、ニコが暴走するのはいつものことだとはいえ、由香子がなんであれだけニコに対して感情的になるのかが分からない。あいつは基本的に誰とでも上手くやれる奴だと思っていたんだが……。
俺と蛍以外の相手に、あれだけ感情をむき出しにする由香子は珍しい気がする。
普通、後輩相手に「死ねえ」とか叫ばないだろ。先程の光景を思い出して吹き出しそうになり、そんな自分に驚いてしまう。
いやいや、俺は何を呑気に笑ってるんだ? エロ本を勝手に漁られ、部屋をビショビショにされ、どう考えてもいい迷惑。一番の被害者だろうが。
それなのに気付くと口元が緩みそうになっている。
「あーあ、俺もとうとうおかしくなったかな」
あえて口にだしておどけてみせるも、本当は分かってもいる。
ニコにつきまとわれて、振り回されて、いつも俺だけが被害を被って。俺の好きな平穏な日常ってやつとはかけ離れているのに、それをどこか楽しみ始めている自分がいる。
例えば、早苗の悩みを解決した時。
例えば、蛍に押し付けようとしたニコが戻って来た時。
心のどこかでちょっとだけ喜んでいる自分がいた。平穏な日常とは違う、刺激的な日々ってのを――望んでいる自分が。
……ま、まあ人間ってのは刺激には慣れるように出来ているらしいからな、感覚がマヒしてきているだけ、と言われれば何も言い返せないんだけどな。
帰れと口にしながら本気で追い返しもせず、こうして雑巾と一緒に新しいドリンクとお菓子まで用意してやってるんだから……実はそうとうな末期症状なのかもしれない。
そんなことを独り言ちながら、グラスの乗ったトレイを片手に階段を上っていく。
先程までドタバタと煩かった物音が今はもう聞こえない。さすがに反省したのか? と考えるもすぐに被りを振る。アイツらに限ってそれは無い。
溜息を吐きながら自室の扉の前に立ち、念のためノックをしようと、空いている手を上げる。その時、扉の向こうから微かな話し声が聞こえて来た。
「――ちょっと! それは駄目だって。もう読むの止めなさいよ」
「えへへー、いいじゃないですか。もうちょっとだけ―――」
そんな声が途切れ途切れに聞こえてくる。
ほうら、やっぱりな。反省なんかしているわけがない。どうせまたエロ本でも見つけ出して読んでいるんだろう。
俺はノックのために上げた手でドアノブを握ると、そのままガチャリと扉を開けた。
「ゴルァ! お前たちは何やってんだよ!」
若干盛った怒り声に、ニコと由香子がビクリと身体を強張らせた。
はてさて、いったい何を見つけられたのか。アレか? それともアッチか? ……さすがにアレは……ちょっとまずい気もするな―――。
そんなことを考えながら、ニコの手に握られたものを見て、
――息を飲んだ。
それはエロ本なんかではなく、プリント用紙を何百枚も重ねた紙の束。
恐らくは俺が忘れ、何年もの長い間ベッドの下に放置されていたもの。全体が埃にまみれ、所々変色さえしている。
長い間存在さえ忘れていたにも関わらず、そこに何が書かれているのか、俺にはすぐに分かった。
「それ……読んだのか?」
いきなり登場した俺に驚いていたニコも、口元をにんまりと曲げて笑う。
「せんぱいせんぱい、ほらやっぱり私の思ったとおりじゃないですか! 先輩がラノベを嫌いなんてウソ――」
「読んだのかって聞いてんだよっ!!」
声帯がビリビリと痺れるほどの怒号に、室内が重く静まり返る。
ニコの顔に浮かぶのは、なんで急に怒られたのか分からない、と困惑したような表情。
「……はい、読みました。まだ序盤ですけど」
喰いしばった歯の奥でギシリと音が鳴った。
「あ、でもでも、恥ずかしがることなんかないですよ? 文章に粗削りさはありますけど、ちゃんと押さえるところは押さえてあるというか、素直な文体がむしろ読み易くて好感が持てるというか―――」
また何かを勘違いしたらしいニコが、フォローめいたことを口にする。そして、そのまま一通りの寸評を述べた後、頬を上気させ、興奮した面持ちで―――ニコは言った。
「――とても面白い、ライトノベル作品だと思います!」
そのひとことに俺が返したのは、薄く漏れ出すような笑い声。
そして、無言でニコに歩み寄ると、紙の束を強引に奪いとった。
「な、何をするんですか! まだ読み終わってないのに!」
いつも通りの頬を膨らませる不満顔。だが、それもすぐに上機嫌な笑顔へと変わり、
「それ、せんぱいが書いたんですよね?」
「……由香子が教えたのか?」
俺の問いに由香子は青い顔でぶんぶんと首を振る。
「聞かなくても分かりますよ。せんぱいの文章のくせとか、キャラクターの個性とか、ほとんど今と変わっていませんし」
どこか得意げにそう語るニコを、俺は冷めた想いで見下ろした。
変わっていない。そのひとことがズシリと心に重くのしかかる。
それが文章のことを指しているのだと理解はしていても、どうしても心のどこかでこう受け取ってしまう。
――お前はあの頃から何も変わっていない。一人で空回りしていたあの頃から。身勝手な正義感で周りを傷つけてしまった幼稚で無知な―――あの頃から。
そうだ。そうだった。
俺に取ってこの作品は、昏く濁った過去の象徴みたいなもの。無力な自分と、不相応な日常を望んでしまった身の程しらずな自分を象徴するもの。
ついさっき「こんな非日常も悪くない」的なことを考えていた自分が酷く滑稽に思えた。
マヒしていたのは感覚だけではない、記憶も、決意すらも。当時の苦い記憶すら置き去りにして、俺は何を楽し気に、また同じ過ちを繰り返そうとしていたのか。
――俺なんかには平凡で平穏な日常ぐらいがお似合いだってのに。
意図せず漏れる自嘲的な笑い。
何も知らない目の前の少女は、俺の手に握られた束を指差し、嬉し気に笑う。
「うふふ、面白いですよそれ。やっぱり私の思った通り、せんぱいはラノベ好きなんじゃないですか! ミステリーよりもそっちの作風の方が合っているんじゃないですか?」
「うるせえよ」
「……へ?」
表情を硬くした相手の目の前で。俺は手にした紙の束をいくつかに分けて握ると、力任せに引き裂いた。ビリッ、という紙の裂ける音と、ニコの悲鳴が重なる。
「――な、なにをするんですか!」
「こんなものただの落書きだ」
「そんなことないです! 立派な作品ですよ!」
ビリッ――
「お前に何が分かるんだよ」
「それが素晴らしいラノベ作品だってことは分かります!」
ビリッ――
「これが? こんなくだらないものがお前の言う素晴らしいライトノベル作品なのかよ!?」
「お願いです! もうやめてください!」
ビリビリビリ――
「やめ―――」
繰り返される懇願を全て無視し、俺は機械のように同じ動作を繰り返す。
やがて最後の一片まで破り捨てられ、300枚にも及んだ紙の束は、俺の足元に積み重なる紙片の山と化した。呆然とした表情のニコが呟く。
「……それ、データは?」
「そんなもの残っているわけねえだろ」
嘲笑うかのように返したひとことに、ニコは息を飲む。そして―――
「……ひどい、です」
ニコの瞳から一筋の涙が零れた。
……なんで。なんでお前が泣く必要がある? たまたま見つけただけの、ただ読み途中だったというだけの素人作品だろうが。なんでそこまで――?
胸中に浮かんだ疑問を振り荒い、俺は声を荒げた。
「これで分かっただろ? 俺はライトノベルが嫌いなんだよ! 自分がそんなものを書いていたなんて認めたくないほどに! いっそその頃の自分に寒気すらするわ!」
「なんでですか? せんぱいが頑張って書いた作品でしょう? せんぱいが作った我が子同然のキャラクター達でしょう?」
「はあ? 何が頑張ってだ! こんなくだらない作品、俺はもう忘れたいんだよ!」
「この作品を好きな人が……この作品を読んだ読者がどんな気持ちになるか分からないんですか?」
この作品を読んだ読者―――そのひとことが胸に深く突き刺さる。
長年をかけて何重にも着込んだ鎧を易々と突き破り、内腑をえぐり血を吹き出させる。
いつも無自覚に、さしたる深い考えもないくせに、
ほんとうにコイツは―――
「うるせえって言ってんだよ!」
「せんぱい……」
「ほんとに、なんなんだよお前は! 突然目の前に現れて迷惑ばかりかけて! 俺の平穏を返せよ! 日常を返せよ! もう頼むから消えてくれ! 俺の前から消えてくれよ!」
感情のままに吐き出した言葉は、室内の空気を切り裂くように響き、霧散する。
一気に失った酸素を求め、肺が荒い呼吸を繰り返す。脳内では、たった今発した言葉が反響するようにリフレインしている。
俺の前から消えてくれ―――それが、俺が本当に言いたかったことなのか。ぐるぐるとかき混ぜられたような思考では、自らの言葉の真意すらも測ることが出来ない。
そっと伺うように見ると、視線の先で、ニコは。
―――何故か笑っていた。
「……はは、とうとう、せんぱいからも嫌われちゃいましたか」
どこか潔さすら感じられる、穏やかな笑み。
それだけに酷く寂しそうにも見えて。
だけど今更なにも告げることなど出来はしなくて。
ニコは由香子へと顔を向ける。
「ほらね? 敵になんて、なりはしなかったでしょう?」
「天津さん……」
意味の分からないやりとりの後、ニコは俺の顔をまっすぐに見つめ、言った。
「分かりました」
そしてペコリと頭を下げると、そのまま部屋の扉を開けて出ていってしまう。
去り際に―――「さようなら」―――という一言だけを残して。
足元に積もった紙片の山、その中で身動き一つ出来ずに少女を見送る。
そんな自分の姿が、あの時から一歩も動けないでいる現状を表しているようで、
なんだか無性に、泣きたくなった。




