第一話 買い物 前編
お腹が空いて目が覚める。
奈々香を呼び付けようとして、側女はいないのだと思い直した。
ここ暫くは、何でも自分一人で遣らなければならないのだ。
弱気になる自分を叱って、天蓋の付いたベッドから起き出すと、枕元には何故か着替えと手拭いが、いつも使う順番にきちんと並べられている。
「姉さん、お早う」
「お早う、緋色」
弟が既に起きていて、割烹着を身につけている。どうやら朝餉の支度をしてくれていたらしい。
「菜々香のレシピで、出汁巻きを焼いてみたんだ。早く顔を洗って、朝食にしようよ」
爽やかな弟の笑顔を見て、これではいけないと反省する。
自分は姉なのだから、弟の面倒を見るのは、自分でなければならないのだ。
でも、それは取り敢えず明日からの話。
顔を洗って、食膳に着くと、目の前には何故かメナンドロス公主が、当然の顔をして座っている。
橘媛が首を傾げていると、弟が笑って教えてくれた。
何でも、明け方に庭先で飯盒炊飯をしていた所を、警備の者に見つかって怒られたらしい。朝の散歩で偶然通り掛かった公主に取りなして貰い、そのお礼に朝食に招いたのだと言う。
「それは、弟が大変ご迷惑をお掛けしました」
姫が頭を垂れる。
「そんなの良いのよ。警備室に連絡が徹底してなかった、こちらの不手際でもあるんだから。それよりも、煮炊きをする時には、今度からは調理場を使ってちょうだい」
公主の言葉に、緋色が頷いて言った。
「そんな訳で、調理場を使わせて頂いて、ついでに出汁巻きを作って来たんだ。さあ、冷めない内に」
◇ ◇ ◇
小さな文机を、ちゃぶ台代わりにして正座する。姉弟が手を合わせると、メナンドロスもそれに習った。
「戴きます」
そう唱和して箸を付ける。
献立は、飯盒で炊いたご飯に、麩のおみお付け、出汁巻き卵に、菜々香の漬けた香の物。ただそれだけだった。
けれど、炊き立ての飯はそれだけで旨かったし、緋色の出汁巻き卵も上々の出来映えだった。
「この卵、オムレツとは違うのね。これはこれでとても美味しいわ。緋色君って、お料理も上手なのね」
メナンドロスが緋色を誉める。けれど姉弟の方は、ご飯を夢中で口の中に詰め込んでいた。
昔の日本人は、とにかく良く米を食べた。
十四でまだ小柄の緋色でも、一食で米二合(ご飯にして約五百グラム)は食べたし、女性の橘媛でも一合半は食べる。
旺盛な食欲に驚きながらも、公主が二人に話しかける。
「この後は、買い物に出かけましょう」
「買い物、ですか?」
ご飯を食べながら橘媛が訊ねる。
姫の問いに、公主では無く弟が答えた。
「リムゲートから地球に転送ポータルを繋げるのは、最短でも半年後になるんだ。菜々香の持たせてくれた米もそうは持たないから、僕らが食べられる物を探さなきゃいけない。それに、姉さんの着替えだって必要だろ?」
橘媛が考え込む。
「そうね。それに、公主様にこれ以上お世話になる訳にもいかないから、住む所も探さないといけない」
「その事なんだけど」
緋色は食べ終わった飯茶碗を卓の上に置き、急須で茶を注ぎながら言った。
「僕はもう少し、公主様のお世話になるべきだと思うんだ。僕らはこの世界の事について、余りにも知らなさ過ぎるし、姉さんを守る為にも、もう少し情報が欲しい」
どうやら緋色はその事について、事前に公主と話し合いを持っていたようだった。
「少しと言わず、帰る迄はここにいなさい。あなた達にはぴんと来ないかも知れないけど、この世界ではファウストの遺伝子を持っているだけで重要人物なのよ。それも、オリジナルに近い二親等のDNAを持っているなんて知れたら、違法DNAのシンジケートが束になってやって来るわ。タチアナ姫も、余り緋色君を困らせちゃ駄目よ」
「タチアナでは無く、橘です!」
名前を間違えられて、橘媛が目を吊り上げる。
姫にとって、そこは譲れない間違いだった。
公主は橘媛の名を、口の中で繰り返していたが、やがて言った。
「でも、何だか呼び難いわ。ファウストはあなたの事を何て呼ぶの?」
「父は姉を美帆と呼びます」
橘媛より先に緋色が答える。
「あ、莫迦、緋色!」
橘媛は、まるで重要な秘密を告げ口されたかの様に慌て、両手を振って立ち上がった。
でも、そんな姫を気にもせず、公主は言った。
「そっちの方が良い名前じゃない。何で使わないのよ?」
「幼名なんです。美帆の名は、家族が使う仇名のような物なのです」
「要するにそれって、私達が家族のように親しくなれば良いって事ね?」
『そうではありません!』
公主に橘媛が言い募る。
「そうでは無くて、幼名で呼ばれると子供扱いされている気分になるのです」
「大丈夫。こちらでは、そんな事を気にする者はいないから」
「そうではなくて!」
公主には、別に悪気がある訳では無かった。ただ、こうした立場の者に良くあるように、人の話を良く聞かない性質だったのだ。
「分かったわ。なら変わりに、私を『ミリンダ』と呼びなさい。光栄に思って良いのよ。この呼び名は、今までファウスト以外に許した事が無いのだから。分かったわね、美帆」
橘媛はがっくりと項垂れていた。
姫は、折角成人の諱を戴いたのに、誰もそれを呼んでくれ無い事を気に病んでいたのだ。星の都に来た機会に、幼名とは決別しようと密かに目論んでいた。
余計な事を言う弟を睨み付ける。
後でたっぷりと叱って遣らねばならなかった。
でも、こんな時に限って姉弟のアイコンタクトが通じ無いらしく、弟が爽やかな笑みを返してくる。
「という訳で、買い物に行くから支度をして。その民族衣装も素敵だけど、天然のシルクを普段着にする物ではないわ。大丈夫、私が美帆にぴったりの衣装を見繕ってあげるから」
早速定着した幼名に、橘媛が溜息を吐く。
彼女の諱が定着するには、まだまだ時間が必要な様だった。
※5/31に章立てを変更。内容の変更は有りません。




