第四章 葛藤
第四章 葛藤
慶応から明治へ。
元号が変わるということは、この国の形が、根底からひっくり返るということでございました。
昨日までの武士の世は幻の如く消え去り、東京の街には洋服をまとい、サーベルを腰に下げた新政府の役人たちが、我が物顔で行き交うております。
あの十勝平原の血戦から、長い年月が流れておりました。
武四郎は奇跡的に生き延び、そして、彼が命がけで持ち帰ったあの「旅の帳面」と九千もの地名が記された地図は、新政府の最高権力者たちの目に留まることとなったのです。
「松浦武四郎殿。君の蝦夷地における知見は、我が国にとって無二の宝である」
新政府の重鎮・大久保利通は、冷徹なまでの光を宿した瞳で武四郎を見つめ、そう言い放ちました。
武四郎は新政府から「開拓判官」という破格の高級官僚の地位を与えられ、あのおぞましい松前藩に代わって、北の大地を新しく生まれ変わらせるための大役を任されたのでございます。
「松浦殿。これより我が国は、あの北の地を正式に日本国の領土とする。ついては、蝦夷地に代わる、新しい『道名』を考えてもらいたい」
大久保の言葉を聞いた瞬間、武四郎の脳裏をよぎったのは、あの嵐の夜、天塩川のほとりのチセで、古老が炉裏の煙の向こうで語ってくれた言葉。そして、己を庇って雪原に血を流した、生涯の友・コタンピの叫びでございました。
(俺たちの足は……俺たちの、カムイの大地の希望だ!)
武四郎は静かに筆を執り、一枚の白紙に、凛とした文字を書き付けました。
「『北加伊道』――これ以外に、あの地を表す名はございません」
「ほう……加伊、とな?」
「はい。
この『加伊』とは、あの地に生まれ、あの地を愛し、誇り高く生きてきた先住民たちが、互いを呼び合ってきた尊き言葉にございます。
『この国に生まれた者』という意味が込められております。
新しき日本が、彼らの誇りを包み込む国であるならば、この名こそが相応しゅうございます」
大久保はその文字をじっと見つめ、小さく「よかろう」と頷きました。
夢が叶った。あの雪原での約束が、ついに国家の頂で結実した――武四郎はそう信じ、胸を熱く熱く震わせたのでございます。
しかし、国家という巨大な怪物は、一人の探検家の純粋な情念などよりも、はるかに冷酷で、強欲でございました。
数日後、武四郎の元に届けられた太政官布告の書状を見て、彼は我が目を疑いました。
そこに記されていたのは、武四郎が魂を込めて出した「北加伊道」の文字ではございませんでした。
政府は、文字の持つ意味など一考だにせず、ただ呼びやすさと響きだけで、「加伊」の文字を勝手に「海」へと書き換えていたのです。
「……北海道……」
武四郎の手が、怒りでぶるぶると震えました。
それだけではございません。新政府が始めた「開拓」の実態は、武四郎の理想とはあまりにもかけ離れたものでございました。
「近代化」の大義名分のもと、アイヌの人々の言葉は禁じられ、鹿を狩る弓は奪われ、先祖代々の美しい土地は、内地からやってきた開拓民たちによって次々と強制的に取り上げられていく。
それは、松前藩がやっていた搾取を、今度は「国家」というもっと巨大な力で、より洗練された残酷さで行っているにすぎなかったのです。
「これでは……これでは、あの松前藩の悪党どもと、何が違うというのだ!」
武四郎はたまらず、大久保利通らが居並ぶ、新政府の厳格な執務室へと乗り込みました。
周囲の高級官僚たちが、洋服を着こなして冷ややかな目を向ける中、武四郎はただ一人、伊勢の木綿で作られた古い着物をまとい、怒髪天を突く勢いで大久保の前に立ち塞がりました。
「大久保参議! お聞きしたい! あなた方の言う『新しき日本』とは、罪なき民の誇りを踏みにじり、その血の上に築かれる国のことでございますか!」
「言葉を慎みなさい、松浦判官」
側近の役人が窘めますが、武四郎の怒りはもう誰にも止められません。これこそが、宮尾登美子の描く、不条理な権力へ真っ向から立ち向かう人間の、命の啖呵でございます。
「慎めるとお思いか! 私は、あの地で生きる人々が、どれほどの涙を流してきたかを見てきた! 彼らは家畜ではない、この国に生まれた誇り高き『カイ』の民だ! その名を『海』という都合のよい文字にすり替え、文化を奪い、土地を毟り取る……。これがあなた方の言う『文明開化』の正体か!」
大久保は、表情一つ変えずに、静かに茶をすすりました。
「松浦殿。国を動かすということは、奇麗事では済まぬのだ。ロシアの脅威が迫る今、あの地を一日も早く『日本のもの』にせねばならん。少数の民の犠牲は、国家の存亡に比べれば、小さなことだ」
「小さなこと……!」
武四郎の目から、大粒の涙が溢れ落ちました。それは悔しさと、己の無力さへの烈しい怒りでございました。
「国家のために、人の心を殺してよい道理など、この世にあってたまるものか! あなた方が、あの美しい大地をただの『領土』としか見ないというのであれば……」
武四郎は、腰に下げていた高級官僚の象徴である、煌びやかなサーベルをガチリと外しました。
そして、大久保の目の前の漆塗りの机の上へ、凄まじい音を立てて叩きつけたのです。
「こんな、友の血を吸って汚れた役人の肩書きなど、こちらから願い下げだ! 俺が愛したのは、あなた方の創る冷たい国家ではない! あの地で、誇りを持って生きる人間たちだ!」
居並ぶ官僚たちが息を呑み、静まり返る部屋の中で、武四郎は綺麗に結った髪をその手で乱暴に解き放ちました。
「さらばだ、国を売る者どもよ。俺は俺の足で、再び野に下る!」
わずか一年。手に入れたはずの富も、名誉も、最高権力者の寵愛も、武四郎は全てその場に投げ捨てました。
部屋を飛び出していく彼の背中は、官服を着たどの男たちよりも、はるかに大きく、そしてどこまでも誇り高く輝いておりました。




