第五章 一畳敷の宇宙から、カムイの空へ
本作を執筆するにあたり、私は松浦武四郎という男が晩年に遺した、
わずか畳一畳の書斎「一畳敷」に深く心を寄せました。
全国から集められた古い木片で組まれたその極小の空間は、彼がその足で駆け抜けた日本の縮図であり、何よりも北の大地で虐げられた友への、生涯変わらぬ思慕の証でもありました。
歴史は大いなる国家の勝利や近代化の光ばかりを語りたがりますが、その影には必ず、名前を奪われ、土地を追われた小さき者たちの涙が存在します。
武四郎が命をかけて書き留めた九千ものアイヌ語地名は、彼らが確かにそこに生きていたという「命の証明書」でした。
国家という理不尽な怪物に裏切られながらも、魂の約束だけは決して売らなかった武四郎の意地と情念が、現代を生きる皆様の胸にも、一筋の熱い風となって吹き抜けることを願ってやみません。
令和の世に、すべての誇り高き「カイ」の民へ捧げます。
第五章 一畳敷の宇宙から、カムイの空へ
役人の身分を捨て、東京の片隅で野に下った武四郎の生き様は、世間の目から見れば、いささか奇妙な、風変わりな老後のように映ったことでございましょう。
官職を辞したのちも、武四郎の足が止まることはございませんでした。
彼は再び全国の山々を巡り、とりわけ伊勢と紀伊の国境にそびえる、深く美しい「大台ヶ原」の自然をこよなく愛し、何度もその峻険な峰へと登っていきました。
そして、武四郎が七十歳を迎えようとする頃、東京の神田五軒町の自宅に、まことに風変わりな部屋を造り始めたのでございます。
「武四郎さん、一体何を企んでいるんだい。そんなちっぽけな部屋を造って……」
近所の者たちが覗き込んで呆れるその部屋は、広さわずか畳一畳分。大人が一人、ようやく座って本を読めるほどの、極小の書斎でございました。
しかし、その一畳の空間を形作っているのは、ただの木切れではございません。
武四郎がこれまでの人生で巡ってきた、全国の由緒ある神社仏閣、そして何よりも、北海道のコタン(集落)の友人たちが「武四郎のためなら」と、わざわざ東京まで送り届けてくれた、大切な古い木片の数々でございました。
武四郎はその一畳の宇宙に座り、壁に触れ、柱に触れるたびに、かつて自分がその足で踏みしめた大地の息遣いを聞いていたのです。
柱の一本からは天塩川のせせらぎが聞こえ、天井の板からは、十勝の地吹雪の音が響いてくるよう。
国にどれほど「北海道」という冷たい名に変えられようとも、この一畳の空間の中だけは、あの日コタンピと誓い合った、アイヌの誇りが満ちる真の「北加伊道」そのものでございました。
ある、うららかな春の午後のことでございます。
一畳敷の書斎で静かに筆を走らせていた武四郎の元に、一通の書状が届けられました。
差出人の名を見た瞬間、老いた武四郎の手が、激しく震えました。
それは、遠く北の大地から、何人もの人の手を経て、ようやく届いた奇跡の便りでございました。
そこには、たどたどしいカタカナの文字で、こう記されていたのです。
『イダテン、俺は生きている。あの時の傷は、カムイが癒してくれた。
今も天塩の森で、先祖の言葉を守り、誇り高く生きている。お前が俺たちの名を国に伝えてくれたこと、コタンの誰もが忘れてはいない。
お前は今も、我らの誇り高きシサーム(良き和人)だ』
書状の端には、かつて武四郎が彼に贈った、あの旅の帳面の一節が、血の滲んだ跡とともに優しくなぞられておりました。
「……コタンピ……生きて、生きていてくれたか……」
武四郎の目から、堰を切ったように涙が溢れ出しました。
明治政府に裏切られ、自分のしてきたことは無駄だったのではないかと、心のどこかでずっと自分を責め続けていた老探検家の魂が、この一通の手紙によって、一瞬にして救われたのでございます。
国家がどれほど彼らを虐げようとも、武四郎とアイヌの民が結んだ「魂の約束」は、誰にも引き裂かれることなく、今も北の大地で力強く生き続けていたのです。
明治二十一年、二月。
松浦武四郎は、東京の自宅にて、静かにその波乱に満ちた生涯を閉じました。享年七十一。
臨終の床にあっても、彼の足は、まるでどこか遠い大地を駆け抜けているかのように、布団の中でかすかに動いていたと言います。
彼の遺言は、まことに見事なものでございました。
「我が亡き骸は東京に埋めるも、我が遺髪だけは、あの愛した大台ヶ原の激しい大滝のそばに埋めてくれ」
葬儀ののち、遺言通りに彼の遺髪は、紀伊の深い山の、轟々と水飛沫をあげる大滝のほとりに、静かに埋葬されました。
その場所は、年中、激しい風が吹き抜ける場所でございます。
滝から立ち上る真っ白な霧は、まるでかつての韋駄天が、再び草鞋を履き替えて走り出したかのように、勢いよく天へと駆け上っていきます。
その風は、山並みを越え、海を渡り、やがて遥か北の、あの美しくも凍てつく大地へと吹き抜けていく。
そこには、今も白髪となったコタンピが立ち、空を見上げて、「シサーム(良き和人)が帰ってきた」と、優しく微笑んでいることでございましょう。
国が名付けた「北海道」という文字の底には、今も、一人の男が命をかけて守り抜いた、誇り高き「加伊」の民の魂が、静かに、そして永遠に息づいているのでございます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「本書(本作品)はフィクションです。作中に登場する人物、団体、名称、地名、事件などはすべて架空のものであり、実在するいかなる対象とも一切関係ありません。また、特定の思想・信条・宗教を支援または誹謗中傷する意図はございません。」




