第三章 激突
第三章 激突
白と黒。それ以外の一切の色を剥ぎ取られたかのような、冬の十勝平原でございました。
吹き荒れる地吹雪は、天と地の境界をも消し去り、容赦なく人間の体温を奪っていく。
ひとたび足を止めれば、そこがそのまま白い墓標となる――そんな極限の凍てつく大地を、武四郎とコタンピは、文字通り獣のような執念で駆け抜けておりました。
しかし、二人の行く手を阻むのは、大自然の猛威だけではございません。
「いたぞ! 逃がすな! 異端の旅人と、その連れの犬を仕留めよ!」
背後の闇から響くのは、松前藩の密偵頭・高坂陣内の冷徹な号令でございました。
彼らが率いる暗殺部隊「黒鶫」は、利権の闇を暴こうとする武四郎の命を狙い、すでに数日間にわたって、影のように執拗に二人を追い詰めていたのです。
「韋駄天、左だ! 崖の陰へ飛び込め!」
コタンピの鋭い声と同時に、武四郎は雪を蹴立てて身を翻しました。
その刹那、それまで武四郎がいた場所の雪煙を裂いて、漆黒の矢が何本も突き刺さります。
もし一瞬でも判断が遅れていれば、その身は冷たい氷土に縫い付けられていたことでございましょう。
「ハァ、ハァ……。しつこい奴らだ。俺一人の命に、これほどの執念を燃やすとはな」
崖のわずかな窪みに身を潜め、武四郎は激しく上下する胸を押さえました。
その手には、これまで命をかけて書き溜めてきた、あの分厚い「旅の帳面」が握りしめられています。衣服は裂け、凍傷で手の感覚はすでにございません。
しかし、この帳面を抱く腕の力だけは、不思議なほどに衰えませんでした。
「奴らが恐れているのは、お前の命ではない。その帳面だ」
コタンピは山刀の刃を鋭く見つめながら、静かに、しかし地響きのような声で言いました。
「そこに書かれた九千もの地名と、和人の悪行の数々……。それが世に出れば、松前藩の嘘がすべて剥ぎ取られる。奴らにとって、その紙切れは、大砲よりも恐ろしい武器なのだ」
人間の情念とは、まさにこのような、権力という巨大な濁流の前に立ちはだかる、個の「意地」でございます。武四郎は、我が身の危険を顧みず、ただ帳面を愛おしそうに見つめました。
「コタンピよ。もし俺がここで倒れたら、この帳面を……」
「馬鹿なことを言うな!」
コタンピは武四郎の言葉を激しく遮りました。その瞳には、かつて和人を一括りに憎んでいた頃の冷たさはもうございません。
そこにあるのは、生死を共にした相棒への、烈しいまでの情愛でございました。
「お前はシサーム(良き和人)だ。お前の口から、日本の王(将軍)たちに、あの言葉を伝えなければ意味がない。生きるぞ、韋駄天。
お前のその『神足』は、こんな雪の中で止まるためにあるのではないはずだ!」
その言葉が、武四郎の凍えかけた魂に、再び烈火の如き熱を吹き込みました。
「……ああ、その通りだ。まだ立ち止まるわけにはいかない!」
しかし、運命の女神はどこまでも残酷でございました。
二人が崖の陰から飛び出した瞬間、地吹雪の向こうから、音もなく現れた高坂陣内が、武四郎の前に立ちはだかりました。その手には、鈍く光る長刀が握られています。
「松浦武四郎。お前の足がいくら速かろうと、この国を統べる『法』からは逃れられぬ。蝦夷地は松前藩のもの。お前のような跳ね返り者が、かき乱してよい場所ではないのだ」
「法だと? 人を家畜のように扱い、その誇りを踏みにじるのがお前たちの法か! そんなものは、ただの強欲の隠れ蓑にすぎん!」
武四郎の啖呵に、高坂は冷酷な笑みを浮かべ、刀を振り上げました。
「死ね、狂人め」
風を切り裂き、鋭い刃が武四郎の首筋へと迫ります。身をかわそうにも、深く積もった雪に足を取られ、さしもの韋駄天も間に合いません。
誰もが武四郎の死を覚悟したその瞬間――。
「ウオオオオオ!」
烈しい咆哮とともに割り込んだのは、コタンピでございました。
彼は己の身体を盾にするようにして高坂の懐へと飛び込み、その強靭な腕で刀の軌道を無理やり逸らしたのです。
肉を切り裂く鈍い音が響き、白い雪原に、鮮烈な真紅の血が飛び散りました。コタンピの脇腹から、あたたかい血が溢れ出し、雪を赤く染めていきます。
「コタンピ!」
「行け……武四郎! 走れ!」
コタンピは傷口を押さえながらも、高坂の足に必死にしがみつき、最後の力を振り絞って叫びました。
「お前の足は……俺たちの、カムイの大地の希望だ! 振り返るなッ!」
その血の叫びが、武四郎の胸を狂おしいほどに締め付けました。
友を置いて逃げるなど、武四郎の美学が許すはずもございません。しかし、ここで二人とも斃れれば、アイヌの歴史も、あの「北加伊道」の約束も、すべて永遠に闇に葬られてしまう。
「コタンピ……必ず、必ず生きて戻る! お前との約束を、俺は果たすぞ!」
武四郎は涙で視界を歪ませながらも、血を吐くような思いで身を翻しました。
そして、その「韋駄天」の足を限界を超えて爆発させたのです。一歩、また一歩と雪を蹴るたびに、親指の爪が剥がれ、劇痛が全身を襲います。しかし、背後から聞こえるコタンピの咆哮と、高坂の怒号を背に受けながら、武四郎はただひたすらに、前へ、前へと、狂ったように走り続けました。
その手には、友の血が滲んだ、あの重い帳面ががっしりと握られておりました。
これこそが、のちに明治の世に放たれる、ひとつの巨大な奇跡の弾丸となるのでございます。




