第二章 信頼の地平線
第二章 信頼の地平線
蝦夷地の夜明けというものは、まことに神々しく、また恐ろしいものでございます。
地平の果てから差し込む薄桃色の光が、見渡す限りの原生林を、まるで濡れた絹のように妖しく染め上げていく。
鳥の囀さえもが、和人の住まう本州(内地)のそれとは異なり、どこか遠い神代の響きを帯びて聞こえるのでございました。
武四郎とコタンピの二人が、天塩川の激流に沿って、さらに深く、水源の山々へと足を進めてから、すでに十日の月日が流れておりました。
この旅は、並大抵の覚悟でできるものではございません。
道なき道といえば聞こえは良いですが、実際には熊笹が背丈を越えて生い茂り、一歩足を踏み外せば底なしの湿原に呑まれるか、牙を剥く岩肌の谷底へと真っ逆さまに落ちていく、まさに命がけの行軍でございました。
「おい、韋駄天。本当にこの先へ行くつもりか」
先頭を歩くコタンピが、腰に差した山刀で遮る茨を払いながら、振り返りました。その額には大粒の汗が光っています。
「ここから先は、我らアイヌとて滅多に立ち入らぬ、山の神の御領域だ。和人のひ弱な足では、たちまち山に魂を喰われてしまうぞ」
皮肉を交えたコタンピの言葉に、武四郎は背負った大きな荷物を揺らしながら、快活な笑声を返しました。
「ははは、案ずるなコタンピ。俺の足は、伊勢の神宮の風を吸って育った韋駄天だ。山の神様も、このお節介な男の足の速さには、呆れて道を譲ってくださるさ」
そう言って笑う武四郎の足元を見れば、すでに三足目の草鞋がボロボロに擦り切れ、親指からはじんわりと血が滲んでおります。しかし、その歩みは少しも衰えることがございません。
コタンピは、ふんと鼻を鳴らしながらも、その目には確かな驚嘆の色が浮かんでおりました。
これまでの和人といえば、馬に乗り、アイヌを荷物持ちとして酷使し、己の手足を汚すことなど決してしなかった。
それなのに、この松浦武四郎という男は、アイヌと同じように地を這い、同じように泥にまみれ、夜になればコタンピが差し出す乾いた鮭の塩引きを、「美味い、美味い」と涙を流して貪り食う。
その奇妙なひたむきさが、コタンピの頑なな心を、北国の春の雪解けのように、少しずつ、しかし確実に溶かしていったのでございます。
旅の途中、武四郎がすることは、やはり「記録」でございました。
川の曲がり角、奇妙な形をした巨岩、アイヌの集落の跡を見つけるたびに、彼は立ち止まり、懐から墨と筆を取り出しては、熱に浮かされたように帳面へ文字を書き連ねていく。
「ピパ・オ・イ(烏貝の多い川)……。ふむ、ここを和人は『比布』と呼ぶのか。
いや、違う。それではこの土地が持つ、本来の命の匂いが消えてしまう」
武四郎はぶつぶつと呟きながら、コタンピから聞き取ったアイヌ語の地名を、その意味とともに一文字ずつ、まるで宝物を箱に収めるかのように、丁寧にカタカナで帳面へ書き込んでいきました。
「コタンピよ。お前たちの言葉は、まことに美しいな。大地の一木一草にまで、すべて魂が宿っているような、温かみがある」
武四郎のその言葉に、コタンピは遠い目をして、静かに語り始めました。
「俺たちの言葉には、文字がない。だから、地名に、物語に、すべての記憶を込めて、親から子へと歌のように伝えていくのだ。地名を忘れるということは、俺たちがここで生きてきた、その命の血筋を失うということだ。和人は、それを力ずくで書き換えようとするがな……」
その声の寂しさに、武四郎は胸を突かれる思いがいたしました。
人間の情念とは、まさにこのような、理不尽な歴史のうねりに抗おうとする、小さき者たちの無言の叫びの中にこそ宿るものでございます。
武四郎は、ぎゅっと筆を握り締め、「決して、忘れさせはしない」と、己の魂に深く誓うのでございました。
――その夜、二人は天塩川のほとりにある、古いアイヌの古老が一人で暮らす小さな茅葺きの小屋に身を寄せました。
外は、にわかに降り出した激しい嵐となり、冷たい雨がチセの屋根を激しく叩いております。
炉裏の赤い火が、三人の顔を怪しく、また温かく照らし出しておりました。
老婆のように深い皺を顔に刻んだエカシは、武四郎が差し出した旅の帳面を、不自由な手でそっとなぞり、やがて満足そうに深く頷きました。
「良き和人よ。お前がしていることは、この大地の神々(カムイ)が見守っておられる。お前のその清き心に、我が祖先から伝わる、もっとも古い言葉を授けよう」
武四郎は、姿勢を正し、息を呑んで老人の言葉を待ちました。
エカシは、炉裏の煙の向こうを見つめながら、静かに、しかし地響きのような重みを持った声で囁いたのです。
「我らは、己の国を指して、またこの大地に生まれた誇り高き民を指して、古くからこう呼んできた。――
『カイノー』とな」
「カイノー……」
武四郎は、その響きを口の中で繰り返しました。
「そうだ。『カイ』とは、この大地に生まれた者。『ノー』とは、人という意味だ。
和人は我らを『蝦夷』と呼び、未開の蛮族として蔑むが、我らはただの蝦夷ではない。
この北の大地に、誇りを持って生を享けた『カイ』の民なのだ」
――カイ。
その二文字が武四郎の脳裏に響いた瞬間、彼の目の前に、これまで歩んできた何百里もの北の山河が、ひとつの巨大な、光り輝く道として繋がったような衝撃が走りました。
和人が支配し、名付けた「蝦夷地」という、冷酷で歪んだ境界線ではない。この地に生きる人々が、自らの誇りをかけて呼び合ってきた、真の名前。
「加伊……。北の、加伊の民が生きる、道……」
武四郎は震える手で、帳面の真新しい頁に、大きく「北加伊道」と書き記しました。
それは、嵐の吹き荒れる極寒の小屋の中で、一人の和人の探検家と、虐げられたアイヌの民との間に結ばれた、国境をも越える、目に見えぬ「魂の約束」でございました。
炉裏の火が爆ぜて、赤き火の粉が闇に舞い上がります。
コタンピは、その武四郎の横顔をじっと見つめながら、初めて、身内に対するような深い信頼の微笑みを浮かべておりました。
しかし、この美しい約束のすぐ後ろには、利権に目が眩んだ松前藩の冷徹な刃が、すでに闇に紛れて迫っていることを、まだ二人は知る由もございませんでした。




