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第八章 6話 選んだ未来

優里ちゃんは、あのクリスマスの夜に店を出ていったきり、一度もリュミエールへ姿を見せなかった。



カラン、と扉のベルが鳴るたびに。


思わず入口へ視線を向けてしまう。


「おはようございます、シェフ」


と、さくらさんが微笑みながら入ってくるんじゃないか。


「おひさしぶりで~す」


と、優里ちゃんが、ひょっこり顔を出してくれるんじゃないか。


そんな期待をしてしまう自分がいた。


だけど。


扉の向こうに二人の姿はなかった。




 アースウオッチには、一度だけメッセージが届いていた。


――シェフ。さくらさんは無事だから安心してて。


画面に映る文字を、僕は何度も読み返した。


――私は大きなプロジェクトを遂行するようになったから、シェフのお手伝いには行けないの。


優里ちゃんらしい。


何をしているのかは教えてくれないくせに、こっちが心配しそうなことだけは先回りして伝えてくる。


――だから、しばらくは一人で頑張ってて。でも、無理は駄目よ。チュッ。


思わず苦笑いが漏れた。


最後まで優里ちゃんらしいメッセージだった。


あの夜。


「愛しています。出会ってくれて、ありがとう」


そう言い残して去っていった優里ちゃんの笑顔が、不意に脳裏へ浮かんだ。


危険な目には遭っていないだろうか。


元気でやっているのだろうか。


さくらさんは、どうなっているのか。


聞きたいことは山ほどあった。


だけど、それ以降、優里ちゃんから連絡が来ることはなかった。


まるで、冬の夜空へ溶けてしまった流れ星みたいに。


さくらさんと優里ちゃんは、僕の前から姿を消した。




 気が付けば、街は年末の慌ただしい空気に包まれていた。


一人きりで迎えた年末年始のギフト商戦。


早朝三時には厨房に立ち、焼き上がった焼き菓子が冷める間にケーキを仕上げていく。


ショーケースへ陳列が終われば、荒熱の取れた焼き菓子を包装していく。


開店すれば接客をしながらスポンジ等を焼いていく。


気付けば昼になり、気付けば夜になっていた。


息をつく暇もないまま、バレンタインがやってきて、ひな祭りが過ぎ、ホワイトデーへと季節は流れていく。


リュミエールにとって、一年で最も忙しい時期だった。


二人体制だった頃でさえ、毎日が戦場だった。


一人になった今では、なおさらだった。


深夜まで仕込みを続け、そのまま休憩室のソファで仮眠を取る。


そんな日も少なくなかった。


朝方、薄暗い店内で目を覚ますたびに、反射的に隣へ視線を向けてしまう。


だけど、そこにはさくらさんはいない。


「シェフ。珈琲淹れましたよ」


そんな声も聞こえない。


ショーケースのガラスを拭いていても。


新作のレシピを考えていても。


ふとした瞬間に、ふたりの事を思い出してしまう。


だから、僕は考える時間を作らないようにしていた。


注文書を確認し、生地を仕込み、生クリームを泡立てる。


次から次へと仕事を見つけては、手を動かしていた。


忙しさが、かえって寂しさを紛らわせてくれたからだ。


今は待つ事しかできない。


必ずまた会えると信じて。


僕はただひたすら、仕事に打ち込んでいた。



 やがて伊川谷に、少しずつ春の気配が訪れ始めた。


道端では、たんぽぽが黄色い花を咲かせている。


暖かな日差しに誘われるように、蝶々やてんとう虫たちが楽しそうに舞っていた。


そんな頃だった。


松井さまというお客様から、店中のケーキを全て買い占めたいという大量注文が入った。


嬉しい悲鳴とはまさにこのことだろう。


なんでも、上司が職場のスタッフ全員にご馳走してくれるそうだ。


世の中には部下思いの素敵な上司がいるもんだと感心しながら、


厨房に甘い香りが立ち込める中、僕は夢中で手を動かし続けた。




 気が付けば、月日はあっという間に流れていた。


伊川谷の町を彩る桜が満開を迎え、優しく風が吹き抜けている。


 定休日の午後。


久しぶりに仕事から離れた僕は、一人、近くの公園を歩いていた。


見上げた先には、大きな桜の木。


枝が揺れるたび、サワサワとやさしい音がする。


春の訪れを、桜の木も喜んでいるみたいだ。


幼い頃、父と手を繋いで見上げた桜の木。


時代は変わっていくけれど、この木は、同じ季節にちゃんと咲いてくれる。


「・・・今年も咲いてくれてありがとう」


そう小さく呟き、一人で桜を見上げていると、背中をトントンとされた。




「桜のチーズケーキは始まりましたか・・・?」


聞き覚えのある声だった。


ゆっくりと振り返る。


そこに立っていたのは――


桜の花に負けないほど美しい、さくらさんだった。


やわらかな春風が長い髪を揺らし、舞い落ちた花びらが肩にそっと降り積もる。


「今年も・・・綺麗に咲いてくれましたね」


さくらさんは、幸せそうに微笑みながら、頭上の桜を見上げている。


「何をしていたのですか・・・?」


さくらさんが首を傾げながら、にっこりと微笑む。


「・・・大好きな人を待っていました」


そう答えると、さくらさんの瞳が少しだけ揺れる。


そよ風が吹き抜けた。


桜の花びらが舞い上がり、さくらさんの髪がふわりと揺れる。


そして――。


「私も・・・大好きな人に会いに来ました」


その言葉が耳に届いた瞬間だった。


胸の奥に押し込めていた想いが一気に溢れ出した。


無事でいてくれたこと。


また会えたこと。


その全てが涙になって溢れてくる。


僕は耐え切れず、一歩踏み出した。


そして、そのまま強く抱きしめる。


胸の中に伝わる温もりが、夢じゃないと教えてくれた。


「・・・おかえり」


「・・・ただいま」


桜の花びらが、祝福するように二人の周りを舞っている。


大きな桜の木は何も語らず、ただ優しく枝を揺らしていた。


まるで、この先に待つ穏やかな未来を知っているかのように。


 

  おわり。

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