第十話
どうせだったらそのままよそに行ってくれたらなぁ、と、ぼんやり希望的観測を頭に浮かべたが、どうやらそんな幸運は俺には訪れなかったらしく、幾度目かの透明化のあと、思いっきり、憤怒と殺意にあふれた威嚇の声を、それこそ一瞬透明の幕がぶれるほどにけたたましい盛大な音量で吼え立てた。
ああ、うん、わかっていたさ。自分にキズを負わせた獲物を、このままタダで帰すわけ無いし、それこそ矮小ごときに負わされたキズの雪辱を晴らさぬまま、この場から帰るわけがない、と。そういえば昔戦ったあいつも、キズ負ったら必ず人間食ってから逃げてったしなぁ……蛇だけに執念が深いやつだった。
さあ、考えろ。状況は、また不利に逆転した。しかしまだ、環境は、俺の味方だ。何せ。ぶん投げる大木がまだまだそこらに大量にある。加えてあいつはケガを負っている。少なくとも今までのようにははしゃげない。
あとは、そうだな……今までよりは、ある程度、居場所がわかるようにもなった。だってあいつ……今、ぼたぼたと、血を垂れ流しているからな。さすがの透明も、そこまでは対応しきれない。
あのときもそうだった。あの、偶然盾でケガを負わせたときから、一気に状況が一変した。それまで防衛しかできなかった戦が、そこからは撃退、ないし撃破戦へと、傭兵たちの意識を変えていったんだ。
今なら。こうして居場所も大まかに分かり、周りにやつを貫ける武器だっていくつも転がっている今なら、もしかすれば、もしかすれば……あわよくばが起こり得るかもしれない。
久しぶりに活性化した、少年のような冒険心が、激しい戦で否が応にも熱く煮たってしまった血潮が、やってしまえ、と、耳元で、興奮気味に、熱湯のような熱く熱い大声で、一際騒がしくわめき立てる。
正直うるさい。だが、逆らえない。いや、逆らいたくないのだ、この久々の、命がけの、他人の殺気でひりひりと皮膚が焦げるようなこの感覚を、沸き立つこの思いを、手放したくない──さあ。
さあ、文字通りの大物食いを始めよう。どうせ、どちらかが殺されるまで、この場からだれも逃げられない。中途半端に逃げを打つより、徹底的に、徹頭徹尾、潰して潰して潰し尽くそう……ああ、そうだ、できる。俺なら出来る。あのときも、あいつを最期にまで後退らせたのは……他ならぬ自分なんだから。もっともそのときは、もうそいつは虫すら食えない虫の息だったが。
ふぅ、……ん、よし、切り替えた。もう逃げる、なんて弱気は吐かない。吐いても無駄だし。だったらさっさとこいつを処理して、とっくりとっぷりゆっくりじっくり服の材料を集めさせてもらうとしよう。
改めて、やつ……ではなく、奴が垂れ流している白い血の線を、目で伝っていく。この先に、いやさこの上に、あの空に溶け込んだ臆病者の大災害が鎮座している、はず。特にキズを付けたのは顔、もうちょっと言えば鼻(顔のど真ん中に当てたからきっと鼻だろう。あいつにあるのかは知らんが)の頭、位置を探るには実にちょうどいい。
だが、過信もいけない。わかるのはあくまでも大体だ。正確なそれってわけじゃない。それに……曲がりくねった白線を見るに、常にぐるぐねと動き続けている。これでは狙いなど定まらない。まあ、適当にぶん投げても、その巨体ゆえに当たるっちゃ当たるだろうが、それはあっちも気づいているだろう。その証拠に、こっちの耳にも届くほど、びゅうびゅうと風の量をあからさまに増やしている。当然、これではどうあがいても、届く前に木の矢の軌道が逸らされてしまうだろう。
つまり、風。やはり風をどうにかしない限り、まず俺の攻撃が届くことは無い。それ以外だとどうしても、今の荷物を考えると無理が生まれる。つまり通せぬ無理だ。
どうにかしなければ、どうにもできない。幸いなのは、近付けばどうとでもなる、という点。希望はその一点のみだ。
あいつは、どういったわけかは知らないが、……正直、昔退治たあいつよりは、弱い。あと体も短い。乗ったときにわかった。いや、かつてはさすがに乗り回された経験は無いから、大体の目算だが。
しかしそれならば、付け入るスキはかろうじて、ある。あいつはどうしてだか知らないが、どうやら、……あのときのやつが使っていた、穿腔砲を使えないようだし……いや、あれはひどかった、なにせ空から圧縮した魔の風を、口から雨あられと吐き出してきたからな、よく生き残れた。
なら、こちらが無防備に飛び上がっても、あいつは自分の体を使って迎撃せざるを得ない。もしくは風を瞬間的に暴走させるか。だが、それだって、近づいてくる獲物を探知出来ないうちはやってこないだろう。




