「悍ましき獣」
幟の台座には雨水が溜まっていた。陽叙は片側を持ち上げ、石畳へ水を流してから、拝殿の軒下へ寄せる。
外した幟は華夜が畳んでくれている。残る竿を倉へ運べば、今日の片付けもようやく終わりだった。
「こっちはもう大丈夫。華夜は先に中へ入っていてよ」
「一緒に持っていくよ。それ、長いし」
「でも、足元、濡れてない?」
陽叙が視線を落とすと、華夜も自分の草履を見下ろした。鼻緒の周りまで水を吸った足袋に気づき、困ったように笑う。
「さっき台座を避けようとして、水溜まりに入っちゃった」
「やっぱり。替えの足袋、奥に出してあるよ」
「じゃあ、ちょっと替えてくる」
「あっ、草履じゃなくて長靴の方がいいかもね」
「それはダメ。巫女として許されない」
華夜は笑いながら、畳んだ幟を抱えて社務所へ向かった。
その姿を見届け、陽叙は残った竿を揃え始めた。一本ずつ向きを合わせ、抱えやすいように軒下へ寄せていく。長さはあるが重くはない。先端を引っ掛けないように気をつければ、華夜が戻るまでに片付けられそうだった。
その一本を持ち上げたところで、裏参道の向こうから何かを引きずる音がした。
陽叙は振り返った。今は閉鎖された細い参道は、灯籠の明かりも届かず、杉の影に沈んでいる。下の道路を車が通り過ぎ、枝の隙間に白い光が走ったが、人影らしいものは見えなかった。
まだ誰かいるのだろうか。声を掛けようとした陽叙は、ふと胸元へ手を当てた。
――ちりん。
鈴が鳴った気がした。
拝殿を振り返っても、軒に吊られた鈴は動いていない。父がまだ奥にいるのかもしれないが、扉の向こうから聞こえたにしては近すぎた。胸元から手を離しても、かすかな響きが身体の奥に残っていた。
再び石を擦る音がして、陽叙は左側の杉へ目を向ける。根元は黒く潰れ、幹と地面の境目さえ判然としない。それでも、その陰に低く伏せたものがいて、こちらを見ていると分かった。
裏参道の入口は閉鎖されている。そこを通って境内へ入ってくる人はいないはずだった。なのに、何かが石段を上りきり、幹のすぐ後ろまで来ている。姿も見えていないのに、どこにいるかが分かってしまうことにも、陽叙は戸惑った。
社務所へ目を向けるも、華夜の姿はもうなかった。引き戸の向こうには明かりがあり、薄く人の話し声も聞こえる。声を掛ければ届く距離だったが、何と言えばいいのか迷った。
暗がりに何かがいる。そう思っただけで華夜を呼び戻すのも、大げさな気がした。猫や狸なら、物音に驚いて逃げていくはずだった。
「……誰か、いらっしゃいますか」
返事の代わりに、幹の陰から白いものが覗いた。初めは折れた枝に見えた。細長く不揃いで、先が幾つにも分かれている。それが上下へゆっくり離れ、間を濡れた舌が這ったところで、陽叙はようやく牙だと理解した。
息が喉に引っ掛かった。社務所へ向き直るより早く、黒いものが杉の根元から滑り出て、陽叙と社務所を結ぶ石畳へ長い前脚を置いた。
大きな犬だと思おうとした。四本の脚で立ち、頭があり、毛に覆われている。けれど、顔にある目の数が異常だった。肩は陽叙の腰ほどもあり、痩せた胴を支える前脚は不自然に長い。
一歩進むたびに脚が妙な角度へ折れ、爪が石を掻く。持ち上がった頭の下では、口の裂け目が顎の付け根を越え、首の方まで続いていた。
「華夜……」
一歩下がりながら呼んだ声は、息に潰れた。
無数の目を携えた獣の頭がわずかに傾く。声を聞いたのだと分かると、続きを口にすることさえ怖くなった。
陽叙は竿を両手で握り直した。社務所へ走るには、獣のすぐ脇を通らなければならない。背後にある臨時の授与所まで辿り着ければ、戸を閉めて父を呼べるかもしれない。けれど、そちらへ一歩下がると、獣も同じだけ近づいてきた。
「いや……来ないで……」
竿の先が細かく揺れた。これ以上近づけたくなくて突き出すと、その先端へ獣の口が閉じた。
歯が木へ食い込み、握っていた両手まで震えた。引き抜こうとする間もなく獣が首を振り、竿が裂ける音とともに身体を横へ持っていかれる。踏みとどまろうとした草履が濡れた石を滑り、陽叙は尻から地面へ落ちた。
折れた半分が灯籠へ当たり、乾いた音を立てて跳ねる。肩と手首に痛みが走った。
息を吸い直しながら手元を見ると、長かった竿は、握った先にささくれを残すだけの短い棒になっていた。
獣の口から木片が落ちた。口は半ば開いているのに、奥ではまだ硬いものを噛み砕く音がしている。どす黒い唾液の向こうで別の歯が動くのを見て、陽叙は顔を背け、掌で石を押した。
袴の裾が膝の下へ巻き込まれ、上手く後ろへ下がれない。抜こうともがく間に、熱い吐息が頬へ触れた。濡れた獣の臭いに、腐った肉と淀んだ酒のような臭いが混じっている。喉がひくつき、咄嗟に口を塞ぐと、その手のすぐ向こうで牙が濡れて光っていた。
食べられる。
陽叙は咄嗟に残った竿を投げつけた。
棒は獣の鼻先へ当たり、石畳へ落ちる。獣が頭を振った隙に身体を捻り、どうにか片膝を立てた。
授与所まで、あと数歩だった。痛む脚を伸ばし、無我夢中で走った。背後で爪が石を掻いたが、振り返らなかった。戸の中へ入ってしまえば、内線電話で父を呼べる。華夜だって、今の物音に気づいてくれるかもしれない。
授与所の扉へ手を伸ばしたとき、胸の奥で鈴が鳴った。
――ちりん。
踏み出そうとした足が止まり、陽叙は前へ体重を掛けた。けれど、脚は石を踏みしめたまま動かなかった。踵を浮かせようとすると、足裏がかえって強く地面を捉える。
「え……?」
背後で獣が喉を鳴らした。右の前脚が上がり、石の継ぎ目へ置かれる。口から垂れた唾液が、踵の後ろへ落ちた。
見ていないのに、その動きが分かった。
陽叙は袴の布ごと膝を掴んだ。手で引き上げれば足を離せるはずだと腕へ力を込める。しかし、布が張り爪が掌へ食い込んでも、膝は上がらなかった。引こうとするほど脚の奥が硬く締まり、身体のどこへ力を込めれば逃げられるのか、分からなくなっていった。
「動いて……お願い……!」
声を絞り出すと、胸の奥がかっと熱くなった。
牙が突き立てられたと思った。陽叙は震える片手を膝から離し、胸元を押さえた。濡れた感触がある。しかし、白衣は白いままだった。雨を吸って冷たいまま、その下だけが熱い。掌を当てても届かない深さで何かが一度、強く脈打ち、息を吸いかけた口から細い音が漏れた。
熱いものが腹の底へ落ち、踏ん張った両脚の内側を走り抜ける。足の指が草履の上で縮こまり、肩が震えた。胸元を押さえる指先まで痺れが届き、陽叙は手を離そうとした。
けれど、指は白衣を掴んだままだった。握っている感触はあるのに、自分で握りしめた覚えがない。力を抜こうとしても緩まないその手を、陽叙は見下ろした。
「なに、これ……」
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