「神変」
袴の腰紐が、ひとりでに締まった。
陽叙は咄嗟に右手を結び目へ伸ばした。紐を緩めようと指を差し込んだ途端、その下の皮膚が引き攣れ、鋭い痛みが腰の両側から背中へ走る。
布が食い込んでいるのではない。もっと深い、指では触れられない場所を締め上げられていた。
「痛っ……何、これ……!」
じじじっ、と何かが細かく焼ける音がした。白衣の合わせ目から煙が漏れ、陽叙は結び目から右手を離して胸を叩いた。触れた布は冷たい。それなのに、その奥から煙が湧き、細かな光を散らしながら顎の下へ流れてくる。
合わせ目を開こうとしたところで、今度は胸の内側に強い痛みが走る。
身体を折ろうとしても腰が動かず、腹の奥から何かを押し上げられて、背だけが不自然に反った。口を開いても空気は入らず、喉から掠れた音が漏れる。胸骨の裏を走った熱が腹の内側へ達すると、強烈な吐き気が突き上げた。
「お、え……っ」
腹の内側で、臓器が引かれ位置を変えている。吐こうとしても何も出ず、溢れた唾液だけが顎を伝って白衣へ落ちた。
すぐ前で獣が唸っている。逃げなければならないのに、袴の裾が脚へ巻きつき膝下を締め上げてくる。白煙が足元を覆い、その内側で草履の鼻緒が千切れる感触があった。続いて、爪先から脛までを何かが隙間なく包み込んだ。
足裏には、濡れた石の冷たさも、表面のざらつきも伝わってくる。何かに覆われているはずの場所まで、自分の感覚が続いていた。その違和感を確かめようと震える手を伸ばしたところで、左胸が――焼けた。
「ぎゃあぁっ!」
肩口で光が噴き、白衣の左袖が裂け散った。陽叙は右手でそこを押さえたが、触れたものは肌ではない。厚い織地が指の腹へ引っ掛かり、腕を動かすと、その皺が自分の皮膚として引かれた。
目を落としたときには、胸から腕までが緋色に変わっていた。皮膚に走った細い裂け目を糸のような筋が渡り、その隙間を埋めている。肩には厚く重なる縁ができ、前腕には金色の硬い筋が浮かび上がった。
射籠手を思わせる形だった。
陽叙は目を見開き、息を詰めた。震えながらその腕を見つめる間にも緋は手首へ達し、左の指を意思に逆らって押し開いていく。
「待って……私の手……!」
親指が膨らみ、爪が縦に割れた。血は出ず、割れ目ごと硬い革へ変わって先端に厚い丸みが生まれる。気づけば人差し指と中指も同じように厚みを増し、薬指と小指だけが元の肌を残して、変わり果てた三本の隣で震えていた。
陽叙は左手を顔の前へ持ち上げた。指を曲げると革が軋み、その形が何なのか、ようやく分かった。
弓道で手にはめる、弽だった。
稽古のたびに指を差し込み、終われば外していたものが、今は自分の手になっている。胸から続く緋の織地は手首で革へ変わり、指先まで途切れずにつながっていた。
「いや……やだ、外して……!」
陽叙は右手で指先を掴み、力いっぱいに引いた。厚い革が伸び、左腕の奥へ鋭い痛みが通る。それでも引き続けると、肘から胸まで引かれ、悲鳴とともに指を放した。
「助けて……誰か、助けてぇっ!」
声を張り上げた胸の奥で、心臓とは別のものが脈を打った。
肺から空気が押し出され、陽叙は口を開けたまま固まった。心臓はまだ激しく打っている。そのすぐ傍らで生まれた拍は、ずっと遅く、重い。一度収縮するたびに腕や腹へ熱を送り、締めつけられていた両脚まで、同じ間隔で疼かせた。
ようやく一息だけ空気が入り、陽叙は濡れた顔へ右手をやった。こちらの手も黄褐色の革に覆われている。確かめようとした途端、目の周りを熱い線が走り、顔を背けた。
授与所の窓に、白い顔が映っていた。
涙が伝っても白さは落ちず、目尻には緋の隈が鋭く伸びている。陽叙が頬へ手を当てると、映った顔も同じように動いた。指が触れた場所へ、確かに感覚が返ってきた。
「私……こんな……嘘でしょ……」
震える唇の上へ、白いものが触れた。
後頭部を引かれ、陽叙は髪へ手を伸ばす。指の間にあったのは毛束ではなく、厚い織地だった。窓の中では残った黒髪が白く変わり、束ごとに絡み合っている。頭へ巻きつくものも、頬へ回るものも、背後に垂れ下がるものも、同時に形を変えていた。
掴んで止めようとしたが、頭皮まで引かれて手が緩んだ。その間にこめかみが覆われ、額に生まれた硬い飾りの左右へ、布が厚く重なってくる。
「やだ……顔は、やめて……!」
顎へ伸びた布を両手で押さえた。それでも白布は唇へ重なり、鼻まで包み込んだ。引き下げようとしても端が見つからず、力を込めると頬の奥まで痛みが通る。呻いて手を緩めたときには、髪だったものが白布となり、頭を隙間なく包んでいた。
窓には、目元だけを露出させた姿があった。自分の顔を探そうと見つめても、険しい隈取と厚く重なる白布しか見えない。
背後で爪が石を擦った。
陽叙は獣の存在を思い出し、身体を捻った。
獣から逃げようとしていたのだ。父を呼び、戸を閉め、助けを待たなければならない。今なら脚が動く。そう思って踏み出しかけたところで、後頭部から光が弾けた。
窓が白く明るみ、頭の後ろに円い輪が浮かんだ。振り返ろうとしても直接見ることはできず、その光に応じて、胸も腕も、袴の内側まで一斉に輝いた。
胸の内側で、重い拍が鳴る。
右の掌から光の粒子が散り、細い光が上下へ伸びていく。その表面には木目が浮かび、握りが形を得ると、指は自然にその周りへ曲がった。上へ長く、下へ短く伸びた弓の幹を、両端から張られた細い光の弦が結んだ。
紋様の明滅に合わせて、右腕の奥へ張りが伝わってくる。持っているだけなのに、弓の先端まで感覚が続いているようだった。
「……なに、これ」
声は、厚い覆面を通したとは思えないほど明瞭だった。
頭巾と覆面で顔を隠し、袴は膝下で絞られている。その先を白い脚絆が包み、足袋状に変わった足が、草履も履かず石畳を踏んでいた。忍者みたいだと思ったが、隠れるための装いにしては、あまりに鮮やかだった。
白い織地にも緋の袴にも神紋が続き、頭の後ろの光が、その細部まで浮かび上がらせている。弽へ続く左腕は射籠手の形を取り、肩を動かすたびに金の筋が輝いた。見慣れた巫女装束の色だけが残っていることさえ、不気味に思えた。
陽叙は左手を頬へ近づけた。
元へ戻したかった。けれど、また布を引けば痛むと分かり、指が止まった。そのまま下ろしてしまえば、身体は何も抵抗してこない。どうすればよいか分からず立ち尽くすうちに、強張っていた肩が少しずつ緩んできた。
痛みが消えていた。
いつからか、息もしていない。気づいて慌てて吸おうとしたが、それまで苦しくなかったことの方が恐ろしかった。胸の奥では重い拍が続き、呼吸とは関係なく全身へ力を送り続けていた。
左手を胸元へ置くと、触れた感覚が両方から返ってきた。
弽が織地を押し、織地が弽に押されている。そのどちらも自分の感覚だった。指を滑らせれば、その距離まで重なって伝わる。袖のひだや袴の糸にも、同じように感覚が通っているのが分かった。
手を離しても、垂れた白布の先が風に動くのを感じた。見なくても分かる。布も装具も、もはや身につけているものではなかった。
陽叙は窓へ目を戻した。
映った姿は、少しも弱く見えなかった。重い弓を持つ腕は震えず、濡れた石を踏む脚も揺るがない。さっきまで逃げることしか考えられなかった自分が、今はまっすぐ立っている。
凜々しい、と思ってしまった。
陽叙はその感想を否定しようとした。こんな姿になりたかったわけではない。手も顔も、何一つ望んで変わったのではなかった。それでも右の指は握りを確かめるように締まり、応じてくる力へ意識が向いた。
引けば、どうなるのだろう。
弦を取ろうと左手を動かしかけ、陽叙は止まった。外そうと必死に引いたばかりの指を、自分から使おうとしていた。
今、自分は何を試そうとしたのだろうか。
窓の中では、円環が変わらず輝いていた。その光には、顔を上げてはいけないものを仰ぐような畏れがある。自分の姿だと認めるのは恐ろしい。けれど、戻りたいと願っている間にも、身体は痛みも不自由もなく陽叙を支え続けていた。
陽叙が最も恐ろしかったのは、姿が変わったことではなかった。ようやく変わり終えたのだと、身体の方が先に受け入れてしまったことだった。
背後では、獣が足を止めていた。振り返らなくても、こちらを窺い、踏み出すことをためらっているのが分かる。先ほどまで自分を追い詰めていたものが、今はこの姿を恐れている。
その恐怖さえ、自分の感覚として伝わってきた。
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