「名を持たぬ祭神」
昭和五十一年。
神依神社は、町の外れ、杉林を背にした小高い丘にあった。
神が立ち寄り、神が宿る場所。
その名にまつわる言い伝えを頼りに、遠方から足を運ぶ者もいれば、買い物帰りに鳥居をくぐる近隣の住人もいた。
石段こそ長いものの、晴れた日の境内には人の姿が絶えず、祭事ともなれば参道の下まで賑わった。
その神社を代々守ってきたのが、依代家だった。
一人娘の陽叙も、学校の授業が終われば白衣と緋袴に着替え、休日には朝から社務所に立つ。
依代陽叙。初対面ではたいてい読み方を尋ねられる名前も、この町では「神依さんの陽ちゃん」で通っていた。
その日は学校も休みで、陽叙は朝から巫女として境内を駆け回っていた。
参拝客の姿がまばらになった頃、鳥居の向こうでは夕日が沈みかけていた。陽叙は一礼してから頭を上げ、石段へ向かう老婦人に声を掛けた。
「真ん中あたり、まだ濡れてますから。手すりのある方を通ってくださいね」
老婦人が振り返り、小さく手を上げる。
陽叙はその足取りを見守り、姿が石段の下へ隠れてから踵を返した。
午後に降った雨のせいで、境内の掃除が遅れている。祭事の片付けも半分ほど残っていて、拝殿の脇には運び込むはずの箱が積まれたままだった。
社務所の前では、別の巫女が折り畳んだ長机を抱え、持ち直そうとしていた。
「そっち持つよ」
陽叙が駆け寄ると、佐竹華夜はほっとした顔で机の端を下げた。
「助かる。もう腕が上がらなくて」
「だったら呼んでくれればいいのに」
「さっきまで神楽の片付けしてたでしょ。これくらいなら一人でいけると思ったんだけど」
二人で端を持ち、倉まで運ぶ。戸口を抜けるときに華夜が少し後ろへ傾き、陽叙は慌てて机を支えた。
「ほら、やっぱり無理してた」
「最後の一台だったの。惜しかったなあ」
机を壁際へ立てかけると、華夜は両腕を伸ばしながら笑った。
陽叙と同じ歳の華夜は、中学を卒業してから神依神社で巫女として奉職している。高校生でもある陽叙が学校から戻ると、たいてい華夜が迎えてくれた。
巫女としては先輩にあたるため、慣れない所作を教わることも多かったが、二人の間に遠慮はなく、片付けの合間には学校の話や互いの失敗を持ち出して笑い合っていた。
「陽ちゃん、今日は部活ある日だよね。弓の稽古は?」
「さすがに休んだよ。片付け、間に合いそうになかったし」
「そっか。今日の舞、すごく綺麗だった。弓を引く姿も、あんな感じなの?」
「全然。離れを急ぐって、いつも言われてる」
「舞のときは、あんなに落ち着いてるのに」
「落ち着いて見せるのは、上手になったでしょ」
陽叙は笑って、拝殿の脇に置いていた箱を抱え上げた。中では、布に包んだ神楽鈴がかすかな音を立てた。
舞でも弓でも、落ち着いて見せようとするほど身体に力が入る。今日も途中から右の肩が強張り、鈴を振る腕が重くなっていた。華夜が褒めてくれたことは嬉しかったが、自分では、もう少しうまくできたはずだという思いが残っている。
社務所へ戻り、祭具棚へ箱を収めたところで、戸口から声がした。
「あの、すみません」
若い参拝客が御朱印帳を手に立っていた。掲示されている由緒書きと陽叙を見比べ、申し訳なさそうに会釈する。
「もうおしまいでしたか」
「いえ、大丈夫ですよ」
「こちらの御祭神って、何という神様なんでしょう」
陽叙は答えかけ、口を閉じた。
由緒書きのどこに何が書かれているかは知っている。古い地名も、創建にまつわる伝承も、参拝客に尋ねられれば説明できた。けれど、祭神の名を示すはずの箇所には、ただ「御前」とあるだけだった。
普段は、それを不思議とも思わない。家でも境内でも、誰もが御前さまと呼んでいた。
「少々お待ちください。確認してまいります」
奥で片付けをしていた父へ取り次ぐと、父は手を止め、参拝者の前へ出た。
古くからこの土地を鎮める神であり、御前さまとお呼びしていること。詳しい名を伝える記録は失われているものの、祭祀は代々受け継がれてきたこと。宮司である父の説明は淀みなく、参拝者もそれ以上は尋ねなかった。
礼を言って帰っていく背を見送ってから、陽叙は父を振り返った。
「本当に、分からないの」
「何がだ」
「神様の名前。古い帳面とかにも書いてないの?」
父はすぐには答えなかった。閉門前の点検へ向かうところだったらしく、手には鍵の束があった。
「お前も御前さまと呼んでいるだろう」
「それは、みんなそう呼んでるから」
「ならば、それでよい」
鍵を持ち直し、父は戸口へ向かった。
陽叙もその後について境内へ出る。
いつもなら、それで話を終えていた。けれど、参拝客に尋ねられて答えられなかったことが、今になって引っ掛かっていた。
毎日挨拶をし、頭を下げ、今日もその前で舞を奉じた。これほど身近にありながら、自分は相手の名前さえ知らない。
「名前が分からなくても、誰を祀ってるかは分かるんでしょ」
父は拝殿へ向かいながら、陽叙を見ずに答えた。
「名を知ることだけが、お仕えすることではない」
それ以上尋ねても、答えは返ってこない気がした。
陽叙が黙ると、砂利を踏む二人の足音だけが続いた。
拝殿の前で、父が足を止める。
「今夜は片付けが済み次第、奥へ下がりなさい」
「まだ参道に幟が残ってるから。それを運んだら」
「それだけにしておくように」
父は御扉の前に据えられた円鏡へ近づき、脇に畳んであった白布を広げた。陽叙も端を持とうとしたが、その前に布は鏡へ掛けられた。父は左右の端を整え、鏡面が残らず隠れたことを確かめてから振り向いた。
「夜、奥で鈴が鳴っても、扉を開けてはならないぞ」
「……うん」
「何かあれば、私を呼びなさい。自分で確かめようとするな」
幼い頃から、何度も聞かされてきた決まりだった。
祭事の後には鏡へ布を掛ける。夜に奥から音がしても、様子を見に行ってはいけない。
理由を尋ねても、そういうものだとしか教えられなかったし、大きくなってからは尋ねることもなくなっていた。それでも今夜は、父の念を押す声が耳に残った。
陽叙が頷くのを見届けると、父は拝殿の奥へ入っていった。戸口で一度だけこちらを振り返り、それから姿が見えなくなった。
残された陽叙は、白布の掛かった円鏡を眺めた。布越しには丸い輪郭しか分からず、磨かれた鏡面はすっかり隠されていた。
――御前さま。
いつもの呼び名を頭の中で繰り返してみたが、先ほど抱いた疑問は消えなかった。名前を知らなくても、祈りは届くのだろうか。届いているとして、こちらのことを何だと思っているのだろう。
「陽ちゃーん。幟、外していい?」
参道から華夜の声がして、陽叙は顔を上げた。
「うん。今行くー」
考えていても、片付けは終わらない。自分がここに立っている間にも、華夜は残った仕事を進めてくれている。
陽叙は円鏡へ軽く頭を下げ、拝殿を離れた。
参道へ向かう頃には、空の青がすっかり深くなっていた。
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