序幕
最初に伏した神職は、光を見た直後に胃の内容物を吐き散らした。
喉を押さえる暇も無かった。
小雨で濡れる石畳へ額を押しつける鈍い音と共に、参道の奥から足音が響く。
丸いものが浮かんでいた。そうとしか言えなかった。
輪の縁は光にほどけ、そこから幾筋もの輝きが夜を貫いている。参道に並ぶ灯籠の明かりは、その役の意味をなさなくなっていた。
その眩しさに目を細めると、見えているはずの杉の幹が数えられなくなった。
年嵩の神職が、傍らの巫女の頭を押さえつける。
「見るな……」
その声は震えていた。
巫女は、手にした神楽鈴を胸元へ引き寄せた。
「光を追ってはいけない」
その指示に従い目を伏せる。瞼の裏にも輪が残り、視線を動かすたび頭蓋の内側で形容しがたい音が鳴り響いた。
足音が近づいてくる。強烈な血の臭いに顔が歪む。
巫女は、ほんの少しだけ視線を浮かせ見た。白と緋が、その目に映り込んだ。
巫女――いや、違う。
緋の袴は、膝の下を白い脚絆のような物が絞っている。厚手の織地は錦にも似ていたが、その艶は巫女の知るどの織物とも違っていた。まるで、血の通っていると思わせるような生々しい質感。
左胸から腕にかけては、同じ緋色の射籠手が覆っていた。弓を引く者。どことなく、流鏑馬の射手を思わせる装束。背には幾枚もの長い白布が垂れ、地面すれすれまで達している。
頭には頭部をすっぽりと覆う、大きな白い綿帽子。その後ろに円環が浮かんでいる。輪郭のほどけた光からは、幾筋もの輝きが放射状に伸びていた。
綿帽子の下に顔がある。鼻も口も白布に包まれ、露出した目元は白粉を重ねたように白かった。円環に照らされているせいなのか、肌そのものが白いのかは分からない。ただ、目尻から伸びる緋の隈だけが、鋭く鮮やかに見えた。
その奥に、金色の光を宿す目があった。巫女がそれを認めた瞬間、声が落ちた。
「誰が視線を向けることを許した」
巫女の顔が、雨に濡れた石畳へ叩きつけられ、手を離れた神楽鈴が短く鳴った。痛みを感じるより先に、両手が正しい位置へ揃えられる。膝も、背も、首の角度までもが何者かの定めた形へと。
参道脇に並ぶ他の神職や巫女も、同じようにひれ伏していた。
巫女は、自分が悲鳴を上げなかったことを不思議に思った。息はあるし、舌も動く。それでも、声を出すことは許されなかった。
その状況でも、視界の端に黒いものが揺れているのが見えた。獣の首――いや、そう呼んでいいのかすら分からない生首。頭頂から突き出た角が、緋色の弽で包まれた手に掴まれ、膝ほどの高さで揺れていた。
巫女の前を、生首を持つ存在が通り過ぎていく。その足元に、光の紋が咲いた。歩みの後には、白く乾いた石が現れる。血も、砂も、杉の枯れ葉も、汚れの一つさえ残らない。
神。
その言葉が浮かぶと、巫女として聞いてきた幾つもの教えが、急に遠くなった。日々の感謝。祭りの支度。願いを書いた絵馬。誰かの無事を祈って結んだ白い紙。
それらを捧げていた存在が、自分の前を通り過ぎていく。血の滴る首を提げ、伏した者たちへ一瞥もくれずに。
足音が傍らを過ぎると、指先がわずかに動いた。石畳に押しつけられていた手から力が抜けていく。巫女は息を吸い直し、わずかに視線を上げる。その視界に、背から垂れる白い長布が流れて来るのが見えた。地へ擦れそうになった端を、彼女は支えようとした。
祭具を汚してはならない。それは、巫女として身についた所作だった。恐怖の中でも、その動きだけは考えるより早かった。
その瞬間、足音が止む。
「人の分際で触れようとするとは――」
再び上から声が降りた。先ほどは、意味を受け止めるだけで精一杯だった。その声を今、すぐ近くで聞いて巫女は息を詰めた。
その声の主を知っている。毎日のように言葉を交わしてきた――彼女の声。けれど、その口から、こんな残酷な言葉など一度も聞いたことがなかった。
「弁えよ。死しても贖える程度の罪と思うな」
巫女の額が、先ほどよりも強く石畳に強く打ち付けられ、鈍い音を響かせた。血が一筋、頬へと流れていく。それでも、彼女は自らの意思で更に深く額を押しつけた。
命を奪われるかもしれないという恐怖からではない。今この瞬間、どのように扱われても抗えないという理解が深く沈んだ。
足音が再び遠ざかる。
その額を上げることが許されたのは、ずっと後だった。
*
ひれ伏す神職や巫女たちを抜けた先、拝殿前には宮司が一人立っていた。笏を胸元に持ち、深く頭を垂れている。白い祭服、胸には神紋が透かしで縫い込まれている。その紋は、綿帽子の奥で輝く額飾りと同じもの。
拝殿の前に、神が立つ。
宮司の伏せた視線の先へ、緋の左腕が入った。射籠手の織地は手首で途切れず、弽へと続いている。纏っているのか、肌に張り付いているのか。それ自体が身体の一部なのかすら、判然としない。
宮司が笏を下げる。
「御帰還を心より――」
「なぜ我が前に立つ。退け」
宮司の身体が、石段を離れた。跳ね飛ばされたような勢いはない。立つ場所だけを取り上げられたように、身体が横へ移る。一拍遅れて祭服の裾が引かれ、段の脇へ体が崩れ落ちた。膝と掌が石に打ちつけられ、笏が乾いた音を立てて転がっていく。
直後、緋の左腕が振られ、獣の首が宮司の前へ落ちた。角が折れ、顎が砕け、牙の一本が石を滑る。首は重く転がり、伏した宮司の鼻先で止まった。開いた口から血と唾液が溢れ、祭服が赤黒く染まっていく。
神は、一瞥もくれず石段を登る。
本殿へと続く拝殿の御扉の内側で、閂が外れ、重い木の軋む音が響く。暗い拝殿の奥へ光が差し込み、床板の節や継ぎ目を伝って広がった。触れてもいないのに御簾が持ち上がり、奥に掛かった鈴が一度鳴る。
「迎えの作法も知らぬか。その無礼、汝らの寿命で贖わせよう」
そう言い残し、神は拝殿の奥へと消えた。御扉が閉じ、円環から放たれていた光が途絶えると、境内は以前より暗く落ちた。
宮司の前で、獣の首が静かに血を流している。その赤い筋は拝殿へ向かって伸び、白く乾いた足跡に届いたところで横へ曲がった。
御扉の向こうは、静かだった。
――ちりん。
鈴の音が一度、境内に鳴り響いく。そして、神の御言葉が降りた。
「待っていろ。次が来る」
巫女は石畳を見つめ、その声を聞いていた。そして、誰にも聞こえない小さな声で呟いた。
「戻ってきて……」
*




