番外編:氷の街のフリージア
アヴァロン聖王国の最北端――一年中吹き荒れる地吹雪が街を白く染めるバルドゥール領。
その片隅に佇む静かな離宮の庭で、十二歳の少女、フリージアは大きな獣の脇腹に背中を預けていた。
白銀の美しい鱗。
見る者を平伏させる圧倒的な威厳。
アヴァロンに現存する二頭のドラゴンのうちの一頭、若き竜『アイリス』である。
大きな鼻先がフリージアの頬に寄せられ、熱い鼻息が吹きかかる。
くすぐったい、と彼女は表情を変えずに淡々とした声で呟いた。
フリージアの家系には、代々『他人の感情を読み取る』という神秘が発現する。
二年前、十歳になった彼女に目覚めた神秘は、人間だけでなく動物、そしてこの『竜』の感情までをも対象とする、
歴代でも類を見ない上位の異能だった。
だが、フリージアがその力をアイリスに使うことはない。
七歳の時にアイリスが誕生して以来、竜の心から溢れ出ている感情は、神秘を使うまでもなく『フリージアが大好きで、ずっと一緒にいたい、指一本触れさせない』という強烈な独占欲と忠誠心で満ち満ちており、すべてが筒抜けだったからだ。
他者の悪意や欲望、剥き出しの感情が言葉を介さずに分かってしまう。
ゆえにフリージアはいつしか言葉数が少なく、他者に対して一定の距離を置く、淡白な少女になっていた。
「おい、生意気なトカゲ。俺の娘から少し離れろ」
雪煙の向こうから、重厚な毛皮を纏った大柄な男が現れた。
フリージアの父親であり、この地を治める領主バルドゥールだ。
アイリスは彼を見ると、これ見よがしにそっぽを向き、鼻先から小さな火花を散らした。
父親を煽っているのだと指摘する娘の前で、バルドゥールはまったく可愛げのないトカゲめ、と毒づきながら膝をついた。
バルドゥールは愛娘の誕生と引き換えに先立たれた妻の面影を残すその頬を、大きな手で包んだ。
彼の手からは、娘への深い溺愛の情が流れ込んできている。
彼には苦い過去があった。
五年前、アイリスが孵化した時、彼は自分が竜の契約者になるのだと信じて疑わなかった。
そして、アイリスが幼い娘を主人に選んだ瞬間、激しい憎悪を抱いた。
それは自己顕示欲からではない。
ドラゴンとの契約という重すぎる使命、そしてアヴァロン中枢との血みどろの権力争い。
本来なら親である自分が背負うべき最悪の泥沼に、当時わずか七歳だった最愛の娘が引きずり込まれることが、恐怖で、悔しくてたまらなかったからだ。
だが、それから何度も放たれた中央からの刺客を、アイリスが命懸けで排除し続けた姿を見て、バルドゥールの憎悪は消え去った。
今、彼がアイリスを疎ましく思っている理由は、娘の八歳の誕生日に悩みに悩んで買ったぬいぐるみを、嫉妬で消し炭にされたという私怨によるものだった。
そんな親子と一頭の、いつもの平穏が。
突如として、破られた。
「――バルドゥール卿。及び、王国の害悪フリージア様」
雪煙の向こうから、漆黒の法衣を纏った一団が音もなく現れる。
総勢十名。その全員が、アヴァロン中央の王族直属である一級の暗殺魔術師たちだった。
中央の中枢にとって、地位の低い辺境の娘がドラゴンを従えている事実は、喉に刺さった棘のように邪魔で仕方がない。
また中央のネズミか、とバルドゥールが猛烈な怒りの感情を滾らせ、腰の戦斧を引き抜いてフリージアの前に立ちはだかる。
しかし、暗殺者たちのリーダーは不気味な笑みを浮かべた。中央の王族方は今、焦っているのだという。
あの賢者の娘を狙い、白い死神ジークヴァルトまでもが動き出している。
王国は間もなく、完全な力を手にする。貴様ら辺境の不純物が生き残る道などない、と。
彼らの心にあるのは、手柄への執着と、フリージアへの容赦のない殺意。
暗殺者たちが一斉に、禍々しい未知の呪詛の術式を展開し、フリージアへと狙いを定める。
娘に指一本触れさせるかとバルドゥールが踏み出そうとした、その瞬間。
極北の地吹雪さえも一瞬で消し飛ばす、圧倒的な竜の咆哮が響き渡った。
アイリスが黄金の瞳を怒りに燃やし、その巨大な翼を広げる。
主であるフリージアに危害を加えようとする羽虫どもへ、竜は何の容赦もしなかった。
その巨大な顎が開かれ、原初の神秘たる白銀の激流が放たれる。
術式の構築が防壁ごと崩壊していくことに、暗殺者たちが絶叫を上げる暇すら与えなかった。
彼らが展開していた高度な魔術も、その肉体も、アイリスの放った圧倒的な『未知』の前にはただの紙切れ同然。
白銀の光が通り過ぎた後には、暗殺者たちの影すら残っていなかった。
一瞬の、文字通りの蹂躙。
「ふん。やはり、とんでもなく生意気で強いトカゲだ」
バルドゥールは戦斧を収めると、やれやれと首を振った。
アイリスは鼻を鳴らし、再びフリージアの傍へと寄り添う。
フリージアは表情を変えないまま、先ほどの暗殺者が遺した言葉を反芻していた。
中央が何万人もの命を犠牲にして犯した禁忌。
その尻拭いをさせられていたという、賢者の娘エレニアが、中央の研究所から逃げ出したのだ。
「お父様」
フリージアは、感情の起伏が見えない淡々とした声で言った。
言葉数は少なく、その声音には十二歳らしからぬ冷徹な響きがある。
「中央の焦りは、自業自得。……逃げた解呪の娘がアヴァロンの光になるか、それともすべてを壊す混沌になるか。……確かめる」
フリージアはアイリスの頭を優しく撫でた。
主の静かな、しかし昏い決意を敏感に察知したアイリスが、黄金の瞳を妖しく細めながら、その巨大な翼を微かに羽ばたかせる。
バルドゥールは、娘のどこか冷めた横顔を見つめた。他者の感情を読み切ってしまうがゆえに、常に一定の距離を置く――そんな娘の、底知れない危うさを感じながら。
エレニア。あなたに自分たちが手を貸す価値があるのか、それとも世界を乱す異分子として淘汰するべきか。
フリージアの持つ神秘が、世界が大きく動き出そうとしている予兆を、そして遠く離れた地で進む『解呪』と『簒奪』の物語の胎動を、確かに捉えていた。
その波が交わった時、彼女が救いの手を差し伸べるのか、あるいはアイリスがすべてを焼き尽くすのかは、まだ誰にも分からない。
極北の吹雪の中。
いずれ訪れるであろう、アイリスと共に大空へ飛び立つその日を予感しながら、辺境の竜の少女は、感情の消えた瞳で静かに運命のうねりを見つめていた。




