8話:星の墓標と、血塗られた竜
生ぬるい風が吹くたびに、見たこともない色彩の苔や結晶が不気味に呼吸するように明滅する。
獣人の里の強固な石門が背後で閉ざされ、三人はいよいよ全人類の拒絶地帯
――『魔境』
の第一層へと足を踏み入れていた。
天を突くほどの巨木が陽の光を完全に遮り、頭上を覆う禍々しい紫の霧が、ここが人間界の理の外側であることを無言で告げている。
大気中に満ちる魔力があまりにも濃すぎるのだ。普通に呼吸をするだけで、肺の奥が微かにピリピリと焼けるように痛む。
「……本当に、空気がおかしいよ。ここから先は、アタシたちの知ってる自然じゃない」
ステラが野生の勘を限界まで尖らせ、いつでも矢を放てるように弓を握り締めながら呟く。
その隣で、エレニアも自身の胸に手を当て、不安げに周囲を見回していた。
「ルシアン……。私たちはこの恐ろしい魔境を抜けて、一体どこへ向かうの?」
先行して歩いていたルシアンは、フードの奥の黒い瞳を、さらにその先にある人類未踏の最奥へと向けた。
そこには人類の歴史が始まるよりも遥か昔に天空から墜ちたとされる超古代の遺物
――『星の墓標』
が眠っているという。
エレニアの宿す『神秘看破』は凄まじいが、同時にあまりにも危うい力だった。
アヴァロン王家が数百年かけて秘匿し、彼女の心臓に定着させた『ドラゴンの神秘』は、あまりに巨大で複雑すぎる。
今のエレニアが無理にすべてを解呪すれば、術式の崩壊エネルギーに肉体が耐えきれず、内側から消滅して死ぬ。
それは、ルシアンの右腕にある『簒奪』の呪いも同様だった。
肉体を維持したまま、身に宿る呪いを完全に制御するには、現在の魔法体系が誕生する前の、純粋な原初の未知が眠るあの墓標の祭壇へ行くしかなかった。
逃げるのではない。自分たちが真の『人間』に戻るための旅。
明確なゴールを示されたエレニアは、小さく、だが力強く頷いた。
道中、不気味な魔獣の遠吠えが遠くで響く中、ステラが疑問を口にする。
アヴァロンの権力者どもが、そこまでドラゴンや古代の力に固執する理由が分からなかった。
すでに世界最強の国であるはずなのに、なぜエレニアをそんな目に遭わせてまで、さらなる力を求めるのか。
ルシアンは歩みを止めず、淡々と世界の裏の歴史を語り出した。
建国神話では、正義の英雄が邪悪な竜を討ってアヴァロンを興したとされているが、異なる真実がある。
かつてドラゴンの卵を手に入れ、奇跡的に孵化させて育てた人間がいた。
国はその人間を英雄として祭り上げ、ドラゴンを国の守護神――『原初の神秘』に据えることで急速に繁栄した。
それがアヴァロンの始まりである。
王家はその絶対的な体制を維持するため、ドラゴンの卵を一族だけで独占し始めた。
強大な竜の魔力に耐えうる魔核を持った血族だけを王族に迎え、何世代にもわたって卵に魔力を与え続ける。
そうして何百年目かに魔力が満ちて誕生したドラゴンと、その代の王族が契約を結ぶ。
それこそが、アヴァロン王家の絶対的な権力のシステムだった。
現在、国が有しているドラゴンは二頭。
一つは、何世代も前の王が契約したが、契約者が先立ち、『国を守る』という概念的な約定だけが残ったはぐれ古竜
――『アンキセス』。
ジークヴァルトが引き出している圧倒的な障壁は、このアンキセスの神秘の一部だった。
そしてもう一つは五年前、辺境の領地で孵化したばかりの若いドラゴン
――『アイリス』。
その契約者は、辺境を治める領主バルドゥールの娘であり、王位継承権の極めて低い少女
――『フリージア』。
中央の王族たちにとって、地位の低い辺境の娘がドラゴンの契約者になった事実は、邪魔で、疎ましくて仕方がなかった。
何度も暗殺を試みたものの、バルドゥール領主の固い守りとアイリスの力によってすべて失敗に終わっている。
そこで焦った他の一族の王族たちは、最悪の禁忌を犯した。
卵を強制的に孵化させ、自分たちの手駒となるドラゴンを作るため、王族以外の人間――何万人もの無辜の民の命を捧げ、その魔核を卵に無作為に取り込んだのだ。
結果、ドラゴンの卵は本来のものとは違う凄まじい変貌を遂げ、最悪の『呪いの卵』へと成り果てた。
その最悪の尻拭いのために、技術者として無理やり連れてこられたのが、魔核の刻印解明と解呪に長けた賢者――エレニアの父親だった。
彼らは父親の技術を利用して呪われた魔核を制御し、兵器としてコントロールしようとした。
エレニアがあの研究所に幽閉され、心臓にその核の残骸を埋め込まれたのも、すべてはその狂ったアヴァロンの中枢の歪みが原因だった。
沈黙が、魔境の重い空気とともに三人にのしかかる。自分がどれほど歪んだ歴史の被害者であったのかを、エレニアは完全に理解した。
だが、彼女の黄金の瞳から光は消えなかった。
「……私は、絶対に負けない。王族の身勝手な都合で、何万人もの命を呪うようなやり方……そんなの、絶対に間違ってる。私のこの瞳で、彼らの欺瞞も、その呪われた核も、全部暴いて壊してみせるわ」
その毅然とした言葉に、ステラは感心したように笑い、ルシアンもフードの奥で小さく口元を緩めた。
三人は歴史と目的地を共有し、その絆をより強固なものにしながら、昏い森の奥へと足を進めていった。
しかし、巨木の根が複雑に絡み合う奇妙な開けた場所に差し掛かった時――ルシアンとステラが同時に足を止めた。
「誰だ……っ!」
ステラが瞬時に弓を構える。
三人の視線の先、ねじくれた大樹の根の上に、一人の男が腰掛けていた。
仕立ての良い上質な衣服を纏っているが、その顔は不気味な白い仮面で完全に覆われている。
死地に似つかわしくない、あまりにも異質な存在だった。
仮面の男は、ステラの矢を向けられても慌てる風もなく、ゆっくりと立ち上がると、優雅に一礼した。
魔境の案内人のようなものだと名乗るその男の声は、非常に丁寧で、礼儀正しい。
ルシアンが異形の右腕を構えて低く威嚇するが、仮面の男はその視線をまっすぐにエレニアへと向けた。
「目的など、一つしかありませんよ。――エレニア様。貴女がここに訪れることを、私たちは『あの方』よりずっと前から聞き及んでおりました。さあ、お迎えに参りました。こちらへどうぞ」
なぜ自分の名前を知っているのか。
なぜ自分がここに来ることを予期していたのか。
エレニアが息を呑んだ、その瞬間だった。
地響きと共に、背後の森から大気を引き裂くような凄まじい衝撃波が押し寄せた。
三人が通り抜けてきたばかりの獣人の結界、そして強固な岩盤が、まるで紙切れのように一瞬で粉砕される。
爆煙を切り裂いて現れたのは
白銀の鎧を血で汚したジークヴァルトだった。
彼の周囲を展開する古竜『アンキセス』の不可視の障壁が、魔境の濃密な瘴気を平然と弾き飛ばしている。
「そこまでだ、ネズミども。……王命により、エレニア様を回収する」
「チッ、もう来ちゃったか……!」
ステラが歯噛みする。
アヴァロン聖王国最強の死神の登場に、その場の空気が一瞬で凍りつく。
しかし、最も厄介なタイミングで現れた宿敵を前に、仮面の男は「やれやれ」と大袈裟に肩をすくめて溜息をついた。自分の持つ神秘は戦闘向きではないと嘯きながら、男はエレニアを振り返った。
「少々手荒にいかせていただきますよ」
男が合図を送るように指を鳴らした瞬間、エレニアの足元から眩い黄金の魔方陣が浮かび上がった。
「嫌、ルシアン、ステラ……っ!」
ルシアンが咄嗟に手を伸ばしたが、異形の指先が彼女の服の袖をかすめた瞬間、エレニアの身体は光の粒子に包まれ、一瞬でその場から完全に消失した。
ルシアンの『簒奪』の腕が男の胸を貫こうと突き出されたが、それよりも早く、仮面の男の身体もまた煙のように掻き消えてしまった。
あとに残されたのは、深い霧が立ち込める魔境の森。
そして――『神秘看破』という唯一の切り札を失い、ジークヴァルトの無敵の障壁を破る術を無くしたルシアンとステラ。二人の前に、白銀の死神が冷徹な瞳で見下ろしていた。
「……あの娘をどこへ隠した? ……まぁいい、貴様らの四肢をすべて叩き折れば、吐く言葉も変わるだろう」
ジークヴァルトの障壁が、轟音と共に膨れ上がる。
エレニア不在という、最悪の絶望の戦いが、幕を開けようとしていた。




