7話:獣族の領域
「……ガルム」
ステラの声が、微かに強張る。
巨大な獣人――ガルムは、三人を取り囲む戦士たちを背に、残酷な嘲笑を投げかけた。
それは、ステラがずっと胸の奥にしまい込んできた、最大の劣等感を容赦なく抉る言葉だった。
「相変わらず魔核に刻印が一欠片もねぇな。所詮は拾われた中途半端な人間。部族の誇りである『獣化』すらできねぇ無能が、何の用だ?」
幼なじみだった男からの、容赦のない拒絶。
魔核に神秘の記述を持たないステラは、この里で誰よりも「牙」を求めていた。
悔しさに奥歯を噛み締め、弓を握る手が怒りで小さく震える。
言葉を返そうとした瞬間、大気を凍らせるような漆黒の魔力が周囲に吹き荒れた。
ルシアンが、ステラの前に一歩踏み出していた。
カラスの異形の右腕を剥き出しにし、ガルムを射殺さんばかりの鋭い眼光で睨みつける。
その氷のように冷徹な声が、夜の森に響いた。
彼らがここへ来たのは戦うためではなく、部族の長に願い出る儀があるため。
そして何より、アヴァロン聖王国との無用な全面戦争を避けるための提案があるということ。
「ジークヴァルト」
その名がルシアンの口から告げられた瞬間、獣人たちの空気が一変した。
そこにあるのは、隠しきれない本能的な恐怖と、激しい憎悪。
かつて単身でこの領域へと侵入し、前線部隊を蹂躙し尽くした、アヴァロン聖王国最強の死神の影が彼らの脳裏をよぎる。
ハッタリを疑うガルムに対し、ルシアンは淡々と事実を突きつけた。
追っ手から逃れるため、この領域の最奥から通じる道を借りて決して追ってこられない場所へと消える。
それなれば獣人たちも、聖王国と無駄な血を流し合う必要はなくなる、と。
ガルムは激しく葛藤した。
ルシアンの放つ不気味な簒奪の魔力がただ者ではないこと、およびジークヴァルトの脅威が現実であることは、彼の野生の勘が本物だと告げていた。
「……ステラ、お前の処遇も含めて族長が決める。人間のガキども、ついて来い」
ガルムは悔しげに武器を収め、踵を返した。
連行される形で、夜の森の奥へと歩みを進める三人。
松明の火が揺れる中、ステラは一歩一歩踏みしめるたびに、この森に捨てられたあの日からの記憶が、泥のように足元から這い上がってくるのを感じていた。
魔核に刻印を持たず、神秘を現せない、ただの人間。
どれだけ弓を引いても、幼なじみのガルムのように『獣化』して強大な牙を誇ることはできなかった。
ーー3年前。
アヴァロンの強硬派による奇襲計画を知ったステラは、誰にも言わず里を飛び出した。
『ただの人間の戦災孤児』になりすまし、敵の陣営に潜入するために。
弓一本で敵の隠蔽結界を暴き無力化を企てて、自滅に追い込んだ。
だが、彼女が払った代償はあまりにも大きく、戦いの果てに力尽きた彼女は、本物の『戦災孤児』としてアヴァロンの施設に収容された。
毎日、飢えと病で孤児が死んでいく薄暗い施設での暮らしを強要され自分を拾ってくれた獣人の里へ帰ることもできず、ただ朽ち果てるのを待つだけの地獄だった。
やっとの思いで施設の目を掻い潜って逃げ出したが、アヴァロンの冷たい裏路地で行き倒れたてしまった。
命が尽きる寸前のところでカラスの異形ーークロウ(ルシアン)に救って貰ったのだった。
木の根に足を取られそうになり、ステラは我に返った。
隣を歩くルシアンの横顔を見る。
自分がただの人間だから、また足手まといになるのではないか。
消え入りそうな声で呟いたステラに、ルシアンは前を向いたまま、ぶっきらぼうに言葉を返す。
「何を言っている。お前の放つ矢は、そこらの獣人より遥かに鋭い。俺が認めた『牙』だ、他人のくだらない物差しで自分を測るな」
「そうだよ! ステラは凄くカッコよくて、私の自慢のお姉ちゃんだよ!」
エレニアも横から無邪気に笑いかける。
ステラは一瞬目を見開いた後、みるみるうちに耳まで真っ赤に染め上げ、ツンとそっぽを向いた。
小さな絆の熱を灯しながら、やがて辿り着いたのは、巨木の根が複雑に絡み合う、原始的でありながら強固に守られた獣人の隠れ里だった。
その最奥、大樹の空洞に作られた荘厳な玉座の間。
三人の前に、圧倒的な威厳を纏った獣人族長
――バザルが姿を現した。
その身体から放たれているのは、静かだが底知れない、世界の理を歪めるほどの魔力。
ルシアンはバザルに対し、この領域を通り、抜け道を使わせてほしいと冷静に願い出た。
だが、老族長は冷徹に首を振る。
我が部族とアヴァロン聖王国の間には、互いの領域への不可侵を定めた停戦協定がある。
領域内に外部の者を立ち入らせぬという約定がある以上、王国の最重要お尋ね者を通せば、再び全面戦争になる。
人間のために同胞の血を流すわけにはいかない。
大人しく引き返せ、という非情な宣告だった。周囲の戦士たちが、一斉に武器を構えて三人を追い出そうと色めき立つ。
その時、一歩前に踏み出したのはステラだった。
「……バザル様。あんたたちが3年前に結んだその停戦協定、誰のおかげでアヴァロンが首を縦に振ったと思ってんだよ!」
ステラは悔しさに唇を噛み締めながら、玉座を見据えた。
「アタシだよ。『人間』のフリをして奴らの陣営に紛れ込んで、アヴァロンの隠遁結界の神秘を暴いて自滅させてやった。アタシは部族を裏切って逃げたんじゃない! 泥をすすってアヴァロンの裏路地を這いずり回って、それでもこの里の平和を守りきったんだよ!!」
玉座の間に、息を呑む音が響いた。
幼なじみだったガルムら戦士は、驚愕に目を見開く。
自分たちが享受していた平和の裏に、見捨てたはずの「人間の少女」の、あまりにも泥臭く凄惨な戦果があったことを、初めて知ったのだった。
どよめく空間の中、ルシアンが冷静に、族長にとって最もリスクの低い選択肢を突きつけた。
今すぐ自分たちを、その『魔境への抜け道』へ通せ、と。
最初に呆けた声を漏らしたのはステラだった。エレニアは恐怖に目を見開き、ガルムら戦士たちさえもが、耳を疑ったようにルシアンを凝視する。
玉座の間の空気が、一瞬で凍りついた。
ーー魔境。
そこは、人間の知性や論理が1ミリも通用しない、純度100%の『理不尽』が渦巻く禁忌の深淵。
人智を超えた不条理な神秘がそのまま息づく巣窟であり、どれほど名を馳せた大魔術師であっても、その理不尽な法則に抗えず、例外なく誰一人として帰ってこられない絶対の死地だった。
ガルムの顔から嘲笑が消え、戦慄が取って代わる。
全員の顔に、自殺志願者を見るような底知れない不安と驚愕が広がっていた。
しかし、ルシアンだけは平然と、バザルを見据えて言葉を続ける。
ジークヴァルトが追ってきたとしても、自分たちがすでに魔境へと足を踏み入れた後なら、獣人側は「ネズミどもはただ通過し、誰も帰れぬ魔境へと消えた」と主張できる。
ジークヴァルトとて、すでに死んだも同然の逃亡者のために、獣人たちの持つ強大な『未知』と無意味な全面戦争を起こすリスクは冒さない。
それこそが、彼らが一番血を流さずに、ステラが守った協定を維持する唯一の方法として提示できるものであった。
巨大なアヴァロン聖王国に属しながらも、この領域が独自の文化を築き独立を許されているのは、彼らが有する大いなる神秘――『先祖返り』の強大さ故であった。
全員に発動させるがゆえに一見すれば秘匿性が低く見えるが、その術式の構築手順を族長一人だけが理解し発現できる。そのため実はアヴァロンのドラゴンの神秘に次ぐほどの「神秘性」を維持している究極のバフだった。
アヴァロンの人間たちがどれほど彼らの肉体を解剖しても、なぜ獣の力を引き出せるのか、その構築手順を1ミリも論理化できなかった理由もここにある。
その絶対的な力を持つバザルですら、ルシアンの底知れない黒い眼光に、微かに気圧されていた。
人間でありながら、人間の論理をとうに踏み越えて狂ってしまった「未知」が、目の前にいる。
沈黙の末、バザルはゆっくりと玉座から立ち上がり、ステラを見つめた。
「ステラ。お前に獣の血は流れておらぬ。だが、3年前に結ばれた協定の裏に、お前の流した血があったのだな。……お前は獣化はできぬ。だが、間違いなく我が部族の『血なき牙』だ。……そして人間の化け物どもよ。その狂気に免じ、魔境への通行を許可する。さっさと消え失せろ」
ガルムの案内で、不気味な瘴気が渦巻く『魔境』の入り口へと辿り着いた三人。
「本当に……本当に行くんだね? あそこは誰も帰ってこれない場所なんだよ……っ」
ステラが、ついにその強気を失った声でルシアンの服の袖を掴んだ。
ルシアンは異形の右腕を包帯越しになでながら、人間の知性を拒絶する昏い森の奥を見つめる。
「死神に首を差し出すよりはマシさ。それに目的がある。行くぞ、エラ、ステラ」
背後の森からは、協定などお構いなしに領域へと侵入を開始したジークヴァルトの、冷徹な足音がすぐ近くまで迫っていた。




