3話:追追走
燃え盛る研究所の炎。
父親の悲痛な叫び。
すべてが暗黒に染まっていく絶望の中で、かつて自分に笑いかけてくれた少年の声だけが、優しく響いていた。
『病気が治ったら、俺が外へ連れ出してやる。この森の奥には、星を溶かしたみたいに綺麗な「月光蛍」が飛ぶんだ。……いつか、一緒に見に行こう』
『うん、約束だよ。……ルシアン』
「……ん……っ」
幸せで、そして残酷な夢の記憶から引き剥がされるように、エレニアは目を開けた。
視界に映ったのは、見知らぬ廃屋の、埃っぽい木目の天井。
身体は鉛のように重く、胸の奥の『神秘』がどろりとうめき声を上げているが、先ほど飲まされた苦い薬のおかげか、呼吸だけは劇的に楽になっていた。
「あ……」
エレニアは、ベッドの脇に座り込んでいた「それ」に気づき、息を呑んだ。
彼は、自分のためにすり潰した薬草の汚れを、人間のままの左手で拭い取っているところだった。
カラスの黒羽に覆われた異形の右腕は、限界を迎えているのだろう。古い包帯の上からでもわかるほどドロドロとした黒い魔力を放ち、ぴくぴくと痙攣している。
(この人が……私をあの地獄から救ってくれた、カラスの……)
エレニアは、吸い寄せられるようにゆっくりと身体を起こした。
そして、疲労のあまりか、浅い眠りに落ちて壁に寄りかかっている彼のフードの中を、恐る恐る覗き込んだ。
――胸が、凍りつく。
エレニアは、危うく悲鳴を上げそうになる唇を、両手で必死に押さえた。
フードの奥に隠されていた横顔。それは人間のそれとはかけ離れた、おぞましき『異形の怪物』そのものだった。
顔の右半分は、右腕と同じく漆黒のカラスの羽でびっしりと覆われ、光を吸い込むような黒一色に染まっている。
そして左半分の顔は――人間の肌を硬質な鱗が侵食し、額からは魔物のような小さな角が突き出、うっすらと開いた口元からは、獣のような鋭い牙が覗いていた。
普通の少女であれば、恐怖のあまり狂い叫んで逃げ出すような、呪いの成れの果て。
しかし、激しい困惑と同時に、切ない予感がエレニアの胸を強く打ち鳴らした。
その時、衣が擦れる微かな音に反応し、異形の男の目が鋭く見開かれた。
その瞳もまた、右はカラスの濁った赤、左は魔獣の金色へと変貌している。
「起きたか」
クロウはエレニアが自分の顔を見ていることに気づくと、ハッとしたように、大慌てでフードを深く被り直した。
その動きには、化け物になった醜い姿を、彼女にだけは見られたくないという、痛々しいほどの拒絶と羞恥が滲んでいた。
「……気分はどうだ。動けるか」
わざと冷たく、突き放すような掠れた声で問いかけてくるクロウ。
エレニアは戸惑いながらも、精一杯の笑みを浮かべた。
「うん……大丈夫。助けてくれて、ありがとう……カラスのお兄さん」
クロウはフードの奥で小さく息を吐き、「ならいい」とだけ短く答えて立ち上がる。
しかし、二人の沈黙を切り裂くように、廃屋の外から、地を這うようなおぞましい遠吠えが響き渡った。
「――チッ。もう来やがったか!」
部屋の隅で弓の手入れをしていたステラが、野生の獣のような身のこなしで跳び起きる。
黒い森の闇を切り裂き、無数の猟犬の猛る声と、地面を揺らす重装聖騎士団の足音が、確実にこの隠れ家を包囲しつつあった。
「エレニア、下がってろ。ステラ、入り口を」
「あいよ!」
突入してきた聖騎士の先遣隊を、クロウの簒奪の右腕による神速の連撃と、ステラの至近距離からの正確無比な射撃が瞬く間に圧倒する。
生々しい血飛沫が飛び散り、先遣隊が次々と物言わぬ肉塊へと変わっていく。
しかし、本当の絶望は、その直後に訪れた。
凄まじい衝撃波とともに、廃屋の頑丈な壁が、まるで内側から爆発したかのように粉砕された。
舞い上がる砂煙と木片の向こうから、ゆっくりと歩み寄る一つの巨大な影。
身の丈を超えるほどに分厚く、禍々しい黒の大剣を背負った男。
アヴァロン聖王国が誇る落魄の英雄
――「白銀の死神」
ジークヴァルト・フォン・アイゼンハルト。
彼は国に力を簒奪され、その能力の大半を制限されているはずだった。それにもかかわらず、彼が踏みしめる大地はミシミシと不気味に爆ぜ、周囲の空気を歪めるほどの凄まじい威圧感が放たれている。
前戦で戦った監獄長ロメウスなどとは、戦士としての格が違いすぎた。
「見つけたぞ、逆賊どもめ」
ジークヴァルトの地鳴りのような声に、ステラが本能的な恐怖に顔を強張らせながら、渾身の力で火矢を放った。
空気を切り裂く必殺の一撃。
しかし、ジークヴァルトは背中の大剣を抜くことすらしない。
ただ歩きながら、煩わしい羽虫を払うように、人間の左手を軽く一閃した。
烈風の刃。
ただの手払いが引き起こした凄まじい風圧(剣気)だけで、ステラの放った矢は木端微塵に粉砕され、虚しく散った。
「1割か。……今の俺にはこの程度が限界だが、お前たちを屠るには、これで十分すぎる」
ジークヴァルトが、ゆっくりと背中の黒い大剣に手をかける。
引き抜かれる鉄の擦れる音が、まるで死神の足音のように廃屋に響き渡る。
「ステラ! エレニアを連れて下がれ!」
クロウが前に飛び出した。
カラスの黒羽に覆われた異形の腕から、ドロドロとした最悪の漆黒の魔力が爆発する。
自分の命を、寿命を前借りするように魂の回路を繋ぎ、クロウは神速の踏み込みでジークヴァルトの首筋へと刃を奔らせた。
「ほう」
ジークヴァルトの目が、わずかに細められる。
男の手の中で、禍々しい大剣が初めて漆黒の魔力を纏って迎え撃った。
黒い大剣と、漆黒の簒奪の腕。二つの圧倒的な破壊の力が、正面から激突する。
衝撃の余波だけで廃屋が完全に吹き飛び、周囲の巨木がドミノ倒しのように薙ぎ倒された。夜の森に、激しい火花と、鼓膜を裂くような金属の衝突音が轟き渡る。
ただの一撃。
それだけでクロウの全身の骨が悲鳴を上げ、圧倒的な『質量』の差に、その視界が激しく歪んだ。




