2話:廃屋の夜
アヴァロン聖王国の王都を囲む、鬱蒼とした黒い森。
その最奥にひっそりと佇む枯れ木の廃屋に、三つの影が滑り込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
激しい呼吸と共に、クロウは背負っていたエレニアを、埃っぽい古びたベッドへとゆっくりと横たえた。
その瞬間、エレニアの小さな身体が大きく跳ね、激しく咳き込む。
白いシーツの上に、どす黒い血が飛び散った。
監獄(嘆きの奈落)で見せた金の瞳は消え失せ、今の彼女の瞳は深い闇に沈んでいる。根元から純白に染まった銀髪が、青白い頬に痛々しく張り付いていた。
「エレニア……っ! すまない、すぐに楽にする!」
クロウの顔から余裕が消え失せる。
フードを跳ね除け、干し草や乾燥した魔獣の肝をすり鉢で猛烈な勢いで叩き潰し始めた。焦りで手が震え、すりこぎが何度も器の縁を打つ。
「クロウ、落ち着いて! ほら、水!」
すかさずステラが、川から汲んできたばかりの水筒を差し出す。
クロウは異形と化したカラスの右腕を庇いながら、人間の左手で薬草の泥を水に溶かし、意識を失いかけているエレニアの唇へと少しずつ流し込んだ。
喉がごくりと鳴り、やがて彼女の荒い呼吸が、静かな寝息へと変わっていく。
「……ふぅ。これで、峠は越えたはずだ」
ベッドの脇にへたり込み、大きく息を吐き出したクロウの額から、油のような冷や汗が流れ落ちる。
「クロウ……あんたの腕も、もう限界でしょ」
ステラが心配そうに覗き込む。
カラスの黒羽に覆われた彼の右腕は、ドロドロとした黒い魔力を放ちながら、ぴくぴくと痙攣していた。
「構うな。他人の魔核を奪う『簒奪の呪い』の代償だ。使うたびに肉体が削れるのは分かっていたことさ」
クロウは自嘲気味に笑い、痛む腕を古い包帯で手際よく巻き直していく。
その様子をじっと見つめていたステラは、膝を抱え、胸の奥に燻っていた疑問をぽつりと言葉にした。
「……ねえ、クロウ。なんでその女の子のために、そこまで命を懸けられるの? あんた、私を助けてくれた3年前からずっと、その子を探してたよね。自分の身体に呪いを宿して……」
月明かりだけが差し込む静かな廃屋。
ステラの瞳には、純粋な心配と、自分の知らない「クロウの過去」に対する切ないモヤモヤが滲んでいた。
クロウは眠るエレニアの白銀の髪を優しく撫で、重い口を開いた。
「……エレニアの父親は、世界最高の解呪師だった。だが、呪いを解き明かす研究の副産物として、他人の魔力を我が物にする――禁忌の『簒奪の術式』を作り出してしまったんだ」
ステラが息を呑む。
王国の貴族たちが独占しているあの禁忌の力が、まさか彼女の父親の手によるものだったとは思いもしなかった。
「強欲な王族どもはその技術を奪うために、あの人を国家反逆罪にハメて殺した。……さっきの監獄長ロメウスは、あの夜に不完全な研究メモを盗み出したただの泥棒だ。奴は囚人の魔力を無計画に貪り喰らい続けたから、あんな醜い化け物になった。だが、俺は違う」
クロウはカラスのフードの奥で、誇りを持つように目を細めた。
「俺はあの人の『正式な助手』だった。正しい術式の手順と、呪いの抑え込み方を直に学んでいたから、正気を保っていられる。……研究所にいた頃のエレニアは、いつも親父さんの後ろにくっついているような、ただの人見知りの女の子だったよ」
懐かしむように見つめるクロウの横顔に、深い影が落ちる。
どれだけ正しい手順を知っていようとも、人間の身で異界の魔力を宿せば、命が削られていくことに変わりはない。
自分の命がもう長くはないことを、クロウは静かに自覚していた。
「国が本当に欲しかったのは、父親の技術だけじゃない。エレニアの胸の奥に封印された『原初の神秘』――世界を滅ぼすほどの古代の破壊兵器だ。軍事利用を焦った奴らは実験に失敗し、制御不能になった呪いを、すべてエレニアの肉体に押し付けた」
クロウの拳から、ミリと骨の鳴る音がした。
「1度簒奪された魔核は、他人に再簒奪されないという世界の絶対ルールがある。奴らはそれを利用して、エレニアを『他国に奪われない地限爆弾』に仕立て上げたんだ。16歳の少女の人生を、ただの兵器として檻に閉じ込めてな」
エレニアが胸を押さえて苦しんでいた理由。
黒かった髪が、毒々しい純白へと変貌してしまった理由。
すべては、国の都合で呪いの器にされた結果だった。
「ひどい……そんなの、あんまりだよ……!」
ステラはボロボロと涙をこぼした。
クロウへの小さな嫉妬なんて一瞬で吹き飛んでいた。同世代の女の子が、国のエゴだけで3年間も地獄を味わわされていたなんて、許せるはずがなかった。
「……よし、決めた!」
ステラは乱暴に涙を拭うと、野生児のような満面の笑みで、クロウの背中をバンと叩いた。
「私も手伝う! そのクソみたいな国から、エレニアちゃんを絶対に守り抜いてみせる! 今日から私が、この子の頼れるお姉ちゃんだ!」
「……フン。お前までお尋ね者になるんだぞ。足手まといになるなよ」
クロウは呆れたように首を振ったが、その口元は少しだけ緩んでいた。
――だが、若者たちが決意を新たにしたその瞬間、遠く王都の方向から、地鳴りのような地響きが届いた。
崩落した監獄「嘆きの奈落」の地上。
無数のたいまつの光に照らされ、何十人もの重装聖騎士団が整列していた。
その先頭に立つのは、身の丈を優に超える禍々しい大剣を背負った、圧倒的な体躯の男。国に忠誠を誓い、力のほとんどを簒奪された王国の英雄
――ジークヴァルト・フォン・アイゼンハルトだった。
彼は、監獄長だったロメウスの塵を見つめ、静かに呟く。
「……哀れな賢者の娘。そして、呪いに身をやつしたカラスの賊か」
ジークヴァルトが大剣の柄に手をかけると、周囲の空気を歪めるほどの凄まじい威圧感が放たれた。
「――全軍、追跡を開始せよ。神秘を宿した娘が完全に覚醒する前に」
夜の森の奥へと、無数の猟犬と聖騎士たちが一斉に解き放たれる。
迫り来る世界最強の追っ手との激突まで、残された時間は残り僅かだった。




