1話:嘆きの奈落
暗闇と、鉄と、腐った血の匂い。
それが、エレニアが知る世界のすべてになってから、もう3年の月日が流れていた。
アヴァロン聖王国、王立神秘院の最深部
――地下大監獄「嘆きの奈落」。
陽の光が絶対に届かない石牢の床に、16歳になったエレニアは横たわっていた。
衣服はボロボロに擦り切れ、かつて父が愛してくれた艶やかな黒髪は、根元から毒々しいほど純白な銀髪へと変色してしまっている。
そして、閉じられた瞼の裏にある瞳もまた、人間の理を外れた不気味な色に変質していることを、彼女は知っていた。
(どうして、私なの……?)
何度、この問いを暗闇に投げかけただろう。
高名な賢者だった優しい父は、ある日突然、身に覚えのない「国家反逆罪」の濡れ衣を着せられて処刑された。
当時13歳だったエレニアは、何が起きたのかも分からないままこの最深部に引きずり込まれ、胸の奥に「得体の知れない異物が蠢くような、おぞましい拒絶感」を植え付けられた。
それ以来、過酷な実験と、理由なき拷問を繰り返される日々。
なぜ自分がこんな目に遭うのか、国が自分に何をしようとしているのか、何も知らされていない。
ただ、肉体と精神がすり潰されていく絶望だけが、果てしなく続いていた。
そんな地獄のような檻の中で、エレニアには唯一の心の支えがあった。
耳を澄ませば、微かな羽ばたきが鼓膜をくすぐる。
エレニアがそっと目を開けると、冷たい鉄格子の隙間から、小さな光が迷い込んできた。
地下の魔力溜まりにしか生息しないという、淡く青い光を放つ小さな虫
――「月光蛍」。
「……今日も、来てくれたのね」
掠れた声で呟き、指先を伸ばす。
仄青い小さな光が、彼女の指先に静かにとまった。
ただそれだけのことが、完全に心を閉ざしかけていたエレニアにとって、自分がまだ生きていることを確かめられる唯一の救いだった。
しかし、重厚な鉄格子が乱暴に跳ね上がる不快な金属音が、その美しい光を無残に打ち砕いた。
押し寄せた風圧に驚き、月光蛍は慌てて闇の彼方へと逃げ去ってしまう。
「おい、実験体。まだくたばっていないだろうなァ?」
下卑た笑みを浮かべ、赤黒い革の拷問用エプロンを揺らしながら歩み寄ってきたのは――ロメウス監獄長だ。
手には血の匂いが染みついた大鉈を提げている。
彼は、上層部から「その娘を死なさぬよう、決して檻から出すな」とだけ命じられていた。
王族や大貴族たちがこの娘をこれほど重要視する本当の理由は知らされていない。
だが、だからこそ、彼はエレニアを「どれだけ痛めつけても絶対に壊してはならない、最高級のおもちゃ」として、歪んだ愉悦のために扱い続けていた。
ロメウスが大鉈の平でエレニアの細い脚を乱暴に小突く。
「お前が生きているだけで、我が公爵家には莫大な予算が降りる。これほど割のいい仕事はない。……さぁ、今日もその変わった髪を毟られたいか? それとも――」
ロメウスが歪んだ笑みを浮かべ、大鉈を振り上げた、その時だった。
監獄の堅牢な石壁が、腹の底を揺るがす爆破音と共に内側から吹き飛んだ。
爆風と瓦礫が猛烈に吹き荒れる中、ロメウスが「何事だッ!?」と叫んで顔を覆う。
「――見つけた。ようやく、見つけたぞ……エラ……!」
立ち込める煙の向こうから現れたのは、黒いフードを深く被った小柄な影。
いや、それは人間と呼ぶにはあまりに歪だった。
フードの隙間から覗く肌は、まるで呪いに侵されたようにどす黒く変色し、その右腕はカラスの翼を思わせる漆黒の異形へと変貌している。
「貴様は……『簒奪の呪い』で落ちぶれた呪いの成れの果てか」
「黙れ、肉塊。エラ......エレニアからその汚い手を離せ」
男が異形の右腕を掲げると、大気にドロドロとした黒い魔力が満ちていく。
刹那、黒フードの男の放った漆黒の魔弾が、ロメウスの胸を深く抉り飛ばした。
あまりに圧倒的な一撃。
何が起きたのか分からぬまま呆然とするエレニアの元へ、異形の男が重い足音を響かせて近づいてくる。
「すまない。遅くなった」
「......あなたは、一体......?」
「......俺は……」
恐る恐る問いかけた男への返答は、背後から響いた、おぞましい肉組織の蠢く音にかき消された。
抉られたはずのロメウスの胸が、生き物のように瞬時にせり上がり、再生していく。
「アハハハハ! 痛くない、痛くないぞォ!!」
「くそっ……! なんだこの修復速度は……!」
黒フードの男が焦りに歯噛みし、即座に追撃の魔弾を放つ。
他人の力を無理やり奪い、自らの肉体を呪いで削りながら手に入れた、禁忌の魔法。
だが、ロメウスもまた、囚人たちの魔核を貪り喰らい、「痛覚遮断」と「無限再生」の呪いを肉体に宿した化物だった。
黒い魔弾を放つ代償か、異形の彼の左目からも血が流れ落ちる。
この3年間、エレニアを救い出すためだけに呪いに身をやつしてきたが、彼の肉体はすでに限界を迎えていた。
ロメウスが勝ち誇り、黒フードの頭上へ大鉈を振り下ろそうとした――その瞬間。
鋭く大気を切り裂く音が響き、放たれた一本の矢が、ロメウスの大鉈の刃を正確に弾き飛ばした。
「そこまでだよ、おデブのおじさん!」
崩れた壁の向こうから、大きな弓を携えて軽快に飛び込んできたのは、ポニーテールを揺らす少女だった。
「ステラ!? なぜついてきた、来るなと言ったはずだ!」
「来るなって言われて大人しく残るわけないじゃん! 昔、瀕死の私を助けてくれたのはどこの誰よ、クロウ!」
ステラと呼ばれた少女は、黒いフードを被った異形の男――クロウに加勢する形で矢継ぎ早に矢を放ち、ロメウスの目を眩ませる。
「ガァァァッ! チョロチョロと鬱陶しい羽虫どもがァッ!!」
激昂したロメウスが、無限の再生力に任せて2人を肥大した身体でまとめて圧殺しようと突撃する。
クロウの魔力は底を突き、ステラの物理の矢では怪物の再生を止められない。
誰もが、この呪いまみれの怪物に押し潰される未来を予感した。
――その時。
「……根源回帰。調律開始......」
鈴を転がすような、だが、世界の芯を捉えるような少女の声が、戦場に響いた。
檻の奥で、エレニアが静かに立ち上がっていた。
その両目が、爛々と輝く**『金色』**へと染まっている。
ロメウスの肉体――そこに絡み合う、幾十もの他人の魔力。
それらが互いに拒絶反応を起こし、ドス黒い呪いとなって無理やり結合している歪な回路。
「見つけた。あなたの、壊れている場所」
エレニアが、細い指先をロメウスへと向けた。
「――術式、凍結。根源に還れ」
『神秘看破』
ガラスが割れるような鋭い硬質音が響き、世界が凍りついた。
次の瞬間、ロメウスの動きがピタリと止まった。いや、動きだけではない。
彼の肉体を包んでいた不気味な魔力の脈動が、一瞬にして完全に停止されたのだ。
「あ……? が、あ……?」
ロメウスの目が、恐怖に大きく見開かれる。
痛覚遮断が解けた。だが、制御を失った『無限再生』は止まらない。
膨張し、破裂し、また再生する肉体。
これまで彼が貪り喰らってきた囚人たちの『死の苦悶』が、一気に彼の神経へと逆流し始めた。
「ギャァァァァァァッ!? 痛い、痛い痛い痛いィィィッ!!」
膨張した身体を、狂ったようにのたうち回る監獄長。
「2人とも! ――今です!」
エレニアが叫ぶ。
「おおおおおっ!」
「これで、仕留めるーー!!」
クロウの残ったすべての魔力を込めた黒い一撃と、ステラが放った渾身の矢が、防御を失ったロメウスの魔核を正確に貫いた。
凄まじい衝撃波とともに、ゲス監獄長は絶叫を上げながら塵へと還っていく。
「はぁ、はぁ……」
金の瞳が元に戻ると同時に、エレニアは激しく喀血し、その場に崩れ落ちそうになる。
それを、クロウが異形の腕で優しく、壊れ物を扱うように抱きとめた。
「エレニア、もう大丈夫だ。あんたを、ここから連れ出す」
「……あなた、は……? なぜ、私の名前を……」
「俺の名はクロウ。……あんたの父親に、少しばかり恩があってね。安心しろ、俺はあんたの味方だ」
クロウはフードを深く被り直した。
その様子を、弓を引いた姿勢のまま呆然と見ていたステラが、慌てて駆け寄ってくる。
「ちょっとクロウ! その可愛い女の子が、君が命がけで探してた『エレニア』ちゃん!? すっごい綺麗な目……じゃなくて、早くここから逃げよ! 追っ手が来ちゃう!」
「あぁ……行くぞ、ステラ」
崩壊する神秘院を背に、クロウはエレニアを背負い、ステラと共に夜の闇へと駆け出した。
冷たい檻に迷い込んでいた「月光蛍」のように、暗闇の奥で見つけた小さな光を、今度こそ絶対に離さないと誓いながら。
こうして、神秘を宿した瞳を持つ少女と、彼女のために全てを捨てた正体不明の異形の男、そして彼を慕う天真爛漫な少女による、世界を揺るがす「国境越えの逃亡劇」が幕を開けた。




