魔境の第二層
昏い地割れの底。
そこは、第一層の瘴気すら生ぬくく思えるほど狂った領域【魔境第二層】だった。
立っているだけで魔核が異常共鳴を起こし、肉体を内側から焼き焦がすような過負荷がルシアンの動きを確実に鈍らせていく。
二人の前に現れたのは、第二層の主たる怪異。
人類が魔境を踏破できない要因の1つである最凶の魔物の名は
――『貌なき夜』。
空間の光を歪める漆黒の霧を纏ったそれは、顔があるべき場所にぽっかりと虚無の穴を空けていた。
ステラが放った必殺の一矢が、魔物の脊椎の中心と思しき部位を完全に捉える。
だが、魔物はその破壊という因果そのものを無視し、何事もなかったかのように突進を続けた。
物理的な法則が、この魔物には通用しない。
さらに、魔物は距離の概念すら超越した。
遥か先にいたはずの巨体が、次の瞬間にはルシアンの死角へと肉薄していた。
瘴気による摩耗、そして空間の短縮。
ほんの一瞬、対応が遅れたルシアンの右脚を、魔物の漆黒の爪が容赦なく引き裂いた。
骨を削るような激痛。
機動力を奪い、確実に蹂躙せんとする魔物の冷酷なやり口だった。
体勢を崩したルシアンへ、さらに追撃の爪が振り下ろされる。
その刹那――
「ルシアンッ!」
割り込んだのは、瘴気の影響を受けないステラだった。
ルシアンの身体を突き飛ばして窮地を救ったものの、身代わりに放たれた魔物の爪は、ステラの脇腹を深く切り裂いた。
鮮血が昏い大地に飛び散る。
しかし、ステラは痛みに顔を歪めながらも不敵に笑い、弾丸のように跳躍した。
負傷した身体のまま正面へ次々と矢を撃ち込み、魔物の注意を完全に自分へと引きつける。
ステラが命懸けで稼いだ、わずか一瞬の死角。
ルシアンの右腕に、すべての術式が歪んで混ざり合った漆黒の暴力――「黒い魔弾」が収束する。
空間の光すら吸い込む圧倒的な質量が、魔物の不条理な再生能力すら置き去りにし、その存在を一瞬で虚空へと霧散させた。
静寂が戻ると同時に、ステラが糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
「ステラ! おい、しっかりしろ……!」
ルシアンは脚の負傷を引きずりながら彼女のもとへ這い寄り、その身体を抱き起こした。意識を失い、息を荒くするステラの服が、みるみるうちに赤く染まっていく。
彼女を救うため、ルシアンは必死に自身の魔核へ意識を向けた。
かつて、エレニアの痛みを和らげた、あの温かい『治癒』の光を。
だが、彼の右腕から溢れ出たのは、周囲の草木を瞬時に腐食させる、禍々しい「黒い呪い」だけだった。
かつて、彼の魔核に宿っていたのは、ありふれた優しい『治癒の神秘』だった。
しかし、3年前のあの日、復讐のために埋め込まれた『簒奪』の法が全てを狂わせた。
力を得るために他人の魔核を貪り、神秘を簒奪し続けた結果、無数の刻印は複雑に絡み合い、歪んで変質してしまった。
その果てに、一時期持っていた多彩な能力はすべて形を失い、ただ目の前の存在を圧殺するためだけの「黒い魔弾」へと収束してしまったのだ。
どんな怪異をも消し去る、最強の破壊力。
だが、その引き換えに、他者を生かすはずだった『治癒』の能力は、綺麗さっぱり消滅してしまっていた。
今のルシアンの右腕は、触れるもの全てを「奪う」ことしかできない。
目の前で自分を庇って死にかけている少女を、癒すことすらできない。
「クソッ……なぜだ……っ!」
自らの異形の腕を呪い、無力感に歯を食いしばる。
脚を負傷し、ステラは虫の息。
二人の視線の先、第二層の最奥には【第三層】への入り口が口を開けていたが、完全なチェックメイトだった。
その時、瘴気の霧の向こうから、信じられない気配が湧き上がった。
一つ、二つ、三つ――。
たった今、命を削る思いで打ち倒したはずの『貌なき夜』と同等の、あるいはそれ以上の禍々しい不条理の影が、暗闇の中から次々と這い出てきたのだ。
複数体の魔物による、完全なる包囲。
絶望に目を見開くルシアンの耳に、その怪異の群れを引き連れるようにして、規則正しい足音が響いてきた。
魔物を従え、暗闇からゆっくりと姿を現したのは、フードを深く被った謎の人物だった。
アヴァロンの新たな追撃の刺客か、あるいは魔境そのものの意思か。
「……そこまでに、しておきなさい。黒い異形の人間」
その冷徹な声と共に、周囲の魔物たちが一斉に牙を剥く。
完全に退路を断たれたルシアンは、ステラを庇うように抱き締め、朦朧とする意識の中で、死線を見据えて鋭く目を剥いた。




