第90話 ロロvs火野ガク
火野ガクは、細かい話が嫌いだった。
契約書。
報告書。
権限確認。
危機評価。
発言制限。
所有権の再照合。
全部、必要なのは分かっている。
水城リョウがいなければ、七曜会はもっと雑な暴力集団になっていただろう。
金剛サクヤがいなければ、名家と制度の間に差し込むことはできなかっただろう。
月守ユエがいなければ、紫の悪夢に触れた者を安全に戻すこともできなかっただろう。
土岐ネムがいなければ、誰にも見えない場所で終わらせるべき危険を終わらせられなかっただろう。
木葉メイがいなければ、七曜会は救助組織としての体裁すら失っていたかもしれない。
日向アキラがいなければ、そもそも七曜会は七曜会ではなかった。
分かっている。
分かってはいる。
だが、火野ガクは思う。
目の前に火種があるなら、燃え広がる前に踏み潰せばいい。
誰かがさらわれた。
誰かが賭けられた。
誰かが笑いながら人を壊した。
なら、そいつを殴る。
それだけで済む話もある。
もちろん、それだけで済まない話の方が多い。
だから七曜会は七人いる。
だが、火野ガクの仕事は単純だった。
火。
七曜会の紅担当。
突破。
制圧。
討伐。
逃げる敵を追い、立ちはだかる敵を焼き、必要なら自分ごと戦場を燃やす。
火野ガクは、そのために七曜会にいる。
◇
東京湾岸の廃倉庫街は、夜になると人の気配が薄くなる。
古い物流倉庫。
封鎖された搬入口。
潮の匂い。
赤錆びたフェンス。
遠くで鳴る船の汽笛。
その中を、火野ガクは一人で歩いていた。
七曜会の正式作戦ではない。
少なくとも、日向アキラから許可された単独討伐ではなかった。
火野が持っているのは、浪華色街事件後に集められた断片的な追跡ログ。
ロロ。
紅黒。
相原ユウを誘拐した張本人。
黒瀬透真を一方的に叩き落とした異常者。
浪華色街の所属ではないが、事件の流れを決定的に歪めた災害。
管理局はロロを捕捉できていない。
七曜会も、まだ完全な所在を掴んでいなかった。
だが、火野には見えた。
いや、正確には嗅げた。
紅の残り香。
戦いを求める熱。
人が壊れる瞬間を見たいという、最悪の好奇心。
殺意とは違う。
怒りとも違う。
遊びとしての紅。
それが、廃倉庫街の一角に薄く残っていた。
「見つけたぞ」
火野は笑った。
端末に短く入力する。
【火野ガク】
【ロロらしき紅黒反応を発見】
【位置共有】
【俺が足止めする】
すぐに返信が来た。
【日向アキラ】
【単独接触は避けてください】
【合流まで待機】
火野は読んだ。
そして、端末を閉じた。
「悪いな、日向」
火野は肩を回す。
「待って逃がす方が、俺には無理だ」
別に日向を軽んじているわけではない。
火野は日向を信じている。
七曜会の中心は日向でなければならないと思っている。
だが、日向は正しすぎる。
正しいから、止まる。
確認する。
被害を測る。
必要性を定義する。
後から崩れないように線を引く。
それは必要だ。
必要だが、火は止まれない時がある。
燃え広がるものの前で、火だけは先に走らなければならない。
火野は廃倉庫の扉を蹴った。
錆びた鉄扉が、派手な音を立てて吹き飛ぶ。
中は暗い。
積み上げられた木箱。
壊れたフォークリフト。
古いコンテナ。
天井から垂れた鎖。
そして、その奥。
コンテナの上に、ロロが座っていた。
片膝を立て、頬杖をつき、楽しそうに火野を見下ろしている。
「遅かったね」
ロロは言った。
「待ってたのか?」
「うん」
「俺を?」
「誰が来るかなって。透明くんかな。黒い子かな。白い人かな。暗殺の子かな。いろいろ考えてた」
ロロは首を傾ける。
「でも、火か。いいね。分かりやすい」
火野は笑った。
「俺もお前みたいなのは好きだぜ」
「ほんと?」
「ああ」
火野の拳に紅が灯る。
空気が熱を帯びる。
倉庫の床に散った埃が、熱でふわりと舞い上がった。
「遠慮なく燃やせる」
ロロは、嬉しそうに目を細めた。
「やっぱりいいなあ、紅って」
その瞬間、火野は踏み込んだ。
床が砕ける。
距離が消える。
火野の紅は、ただの炎ではない。
燃焼という現象を借りた、突破の色だ。
紅《火線突破》。
自分の進行方向を一本の火線として定義し、その線上の障害を熱と衝撃で押し潰す。
防御を砕く。
間合いを潰す。
迷いを焼く。
一度走れば、止まりにくい。
だが、止まらないから強い。
火野の拳が、コンテナごとロロを叩き潰す軌道を走った。
轟音。
コンテナが爆ぜる。
鉄板が内側からめくれ、赤熱した破片が倉庫中へ飛び散る。
普通なら、そこで終わる。
少なくとも、ロロがそこにいれば骨すら残らない。
だが、火野は笑ったまま振り返った。
「避けたな」
背後の鉄骨に、ロロが逆さまにぶら下がっていた。
細い指で梁を掴み、足を揺らしている。
「速いね」
「お前もな」
「でも、真っ直ぐ」
「よく言われる」
「褒めてるよ」
「だろうな」
火野は二撃目を放つ。
今度は拳ではない。
足元の火線を三本に分ける。
正面。
左。
右。
逃げ道を潰す。
火野は豪快だが、雑ではない。
七曜会の紅担当が、ただ突っ込むだけの馬鹿で務まるはずがない。
彼は戦場を読む。
相手の逃走経路を焼き、足場を奪い、退路を火で区切る。
紅は衝動の色。
だが、火野ガクの紅は、衝動を戦術に落とし込む紅だった。
ロロの逃げ場が消える。
天井の梁が燃え落ちる。
左右のコンテナが赤熱し、空気が歪む。
火野は確信した。
捕まえた。
「そこだ」
火野の拳が、ロロの胸へ入る。
入った、はずだった。
だが、拳が触れる直前、ロロの殺意が消えた。
いや、消えたように感じた。
火野の本能が、一瞬だけ判断を間違える。
敵が攻撃を捨てた。
回避に移った。
なら、追撃。
その一瞬。
ロロの体が、火野の拳の内側へ滑り込んだ。
黒。
殺意の位置がズレる。
紅。
攻撃の軌道だけが遅れて燃える。
火野の目が見開かれた。
ロロの指が、火野の首元をかすめた。
薄い切り傷。
火野は後ろへ跳んだ。
首を押さえる。
血が流れる。
「……やるじゃねえか」
火野は笑った。
笑える程度の傷だった。
そう思った。
だが、ロロは首を傾けた。
「今ので終わらなかったんだ。すごい」
「そりゃどうも」
「でも、分かった」
「何がだ」
「君の紅の癖」
火野の笑みが、少しだけ変わった。
ロロは指についた血を見て、嬉しそうに言う。
「君、正面から来るんじゃない。正面を作ってから来るんだね」
火野は返事をしなかった。
「火線を作る。逃げ道を焼く。相手に避ける場所を選ばせる。その選んだ先へ、先に熱を置いておく。すごく上手い」
ロロは本当に楽しそうだった。
「でも、一回見た」
火野は、そこで初めて理解した。
ロロは避けたのではない。
受けていた。
火野の火線の作り方を。
退路の消し方を。
追撃に移る時の呼吸を。
一度で読んだ。
火野は笑った。
「いいねえ」
血が首筋を流れる。
それでも火野は笑う。
「そういう化け物なら、燃やし甲斐がある」
火野の紅が膨れ上がる。
倉庫全体が震える。
天井の鉄骨が軋む。
火野は、ここで終わらせるつもりだった。
捕獲ではない。
討伐。
日向なら止めたかもしれない。
水城なら条件不足と言ったかもしれない。
木葉なら周囲の被害を気にしたかもしれない。
だが、火野は火だ。
この相手を逃がせば、また誰かが壊される。
なら、焼く。
「ロロ」
火野は言った。
「お前、ここで終わりだ」
「うん」
ロロは笑った。
「そういう顔、好き」
火野が踏み込む。
これまでで一番速い。
火線を作らない。
退路も焼かない。
読まれた癖を捨て、純粋な速度と火力で押す。
ロロの目が細くなる。
火野の拳が、ロロの頭部へ向かう。
当たれば終わる。
倉庫ごと吹き飛ぶ。
ロロは動かない。
火野の拳が届く。
その直前。
ロロの黒が、火野の背後に立った。
殺意だけが、背後へズレる。
火野の本能が反応する。
背後。
そこに敵がいる。
だが、目の前にはロロの体がある。
殺意と体が一致しない。
攻撃と気配が一致しない。
紅黒。
攻撃軌道と殺意の位置をズラす。
見える相手ほど、読む相手ほど、強く引っかかる。
火野は一瞬、判断を割られた。
その一瞬で十分だった。
ロロの手が、火野の首へ伸びる。
黒で殺意をズラし。
紅で速度を跳ね上げ。
細い指が、刃のように走った。
火野の視界が、横にズレた。
何が起きたのか、すぐには分からなかった。
天井が見える。
燃える鉄骨。
赤い火の粉。
ロロの笑顔。
そして、自分の体が、まだ前へ走ろうとしているのが見えた。
首を取られたのだと、少し遅れて理解した。
火野ガクは、それでも笑った。
声は出ない。
喉がない。
それでも、口元だけが笑った。
参った。
そう言いたかった。
強いな。
そう言いたかった。
日向、悪い。
待てなかった。
そこまで思って、火野ガクの意識は消えた。
◇
ロロは、床に落ちた火野の首を覗き込んだ。
火はまだ消えていない。
首を失った体が、膝をついてから倒れるまで、倉庫の床には紅い熱が残っていた。
「すごいなあ」
ロロは感心したように言う。
「最後まで燃えてる」
倉庫の中には、焦げた鉄の匂いと血の匂いが混じっていた。
ロロは火野の死体を雑に扱わなかった。
蹴ることもしない。
笑いものにすることもしない。
ただ、楽しそうに見つめていた。
「君、たぶん強かったんだね」
言い方が、少しだけおかしかった。
強かった相手を倒した感想ではない。
面白いものを見終えた子どもの声だった。
「でも、真っ赤すぎる」
ロロは自分の指についた血を舐めた。
「紅だけだと、見えちゃうよ」
彼は、倉庫の天井を見上げた。
遠くでサイレンが鳴る。
七曜会が来る。
日向アキラが来るかもしれない。
土岐ネムかもしれない。
水城リョウかもしれない。
それとも、透明くんが無理して見に来るかもしれない。
ロロは笑う。
「次は誰かな」
その時、ロロの端末ではない何かが光った。
倉庫の隅に設置された監視用の小型端末。
火野が突入前に置いていたものだ。
映像は途切れかけている。
熱で半分壊れている。
だが、最後の数秒だけは送られていた。
火野ガクの接敵。
火野ガクの攻撃。
ロロの接近。
そして、火野ガクの死。
ロロはそれに気づくと、楽しそうに手を振った。
「見てる?」
誰に向けてか分からない挨拶。
だが、向こう側には確かに誰かがいた。
◇
日向アキラは、映像を見ていた。
白い会議室。
七曜会の危機対応端末。
水城リョウが隣でログを確認している。
金剛サクヤは別回線で情報を追っている。
木葉メイは医療班の準備を始めていた。
月守ユエは、ただ黙って画面を見ていた。
土岐ネムの姿はない。
映像は荒い。
熱で乱れ、音も割れている。
それでも分かった。
火野ガクが死んだ。
七曜会の火が、ロロに殺された。
あまりにも早かった。
あまりにも簡単だった。
もちろん、火野は弱くない。
七曜会の紅担当だ。
現場突破能力だけなら、国内でも上位に入る。
対多数戦。
拠点制圧。
魔物の群れ。
違法探索者組織の殲滅。
火野ガクは、何度も勝ってきた。
七曜会が救えた人間の中には、火野が火線を開いたから逃げられた者が何人もいる。
その火野が、殺された。
一瞬で。
ロロは、火野の紅を一度で読んだ。
黒で殺意をズラし、紅で首を取った。
日向は画面を見つめたまま、動かなかった。
誰も声をかけない。
水城でさえ、すぐには何も言わなかった。
七曜会は強い。
だからこそ、強さを前提に動いてきた。
被害者を救う。
危険を分類する。
対象を管理する。
必要なら先に動く。
それができるのは、自分たちが間に合うと思っていたからだ。
正しく判断すれば、止められると思っていたからだ。
だが、火野ガクは死んだ。
正しさが間に合う前に。
強さが機能する前に。
必要な対応を組む前に。
日向の白が、静かに揺れた。
白は、人を安心させる。
白は、正しさを支える。
白は、迷いを消す。
そのはずだった。
だが今、日向の白の奥に、黒い揺らぎが混じった。
怒り。
後悔。
判断の遅れ。
単独接触を止められなかった責任。
火野なら足止めできるという、無意識の信頼。
七曜会なら対応できるという、慢心。
それらが、白の中に沈んでいく。
水城が低く言った。
「日向」
日向は答えない。
画面の中で、ロロが手を振っている。
見てる?
そう言っているように見える。
日向アキラは、拳を握った。
白い光が、会議室の床に広がる。
だが、その白はいつものように澄んでいなかった。
ほんのわずかに、黒く揺れていた。
七曜会の正しさが、初めて割れた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
火野ガクは七曜会の紅担当です。
豪快で、強い人物として登場しました。
けれど、ロロはその紅を一度で読みました。
火野の紅は強い。
ただし、強く真っ直ぐな紅だからこそ、ロロの紅黒にズラされる。
黒で殺意をずらし、紅で首を取る。
ロロの危険性が、ここで七曜会にも直接突き刺さります。
そして火野の死によって、七曜会の「正しさ」は初めて割れました。
次回、火野の死を受けて七曜会内部が揺れます。日向、水城、木葉、サクヤ、ネム、それぞれの正しさが食い違い始めます。




