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第87話 神楽坂レイジvs日向アキラ

 神楽坂レイジは、もう英雄ではない。


 少なくとも、本人はそう思っている。


 かつては違った。


 神楽坂レイジが現場に来た。


 それだけで、人は息を吐いた。


 もう大丈夫だ。

 あの人が来たなら助かる。

 あの人が正しいと言うなら、それが正しい。


 そういう視線を、彼は長い間浴びてきた。


 そして、その視線を力に変えてきた。


 白《正義》。


 大勢に正しいと認識されている限り、神楽坂レイジは圧倒的な補正を受ける。


 それは単なる人気ではなかった。


 信頼。

 期待。

 祈り。

 逃げ道を失った人々が、最後に向ける視線。


 それらが神楽坂の身体を支え、判断を後押しし、白い光へ変わる。


 神楽坂は、その力で多くを救った。


 それは嘘ではない。


 彼が立ったことで救われた現場はある。


 彼が前に出たことで、恐慌寸前の避難者たちが動けたこともある。


 彼が正しいと言ったことで、崩れかけた作戦が最後まで持ったこともある。


 けれど同時に、多くを隠した。


 それもまた、嘘ではない。


 黒瀬澪の死後、神楽坂は隠蔽に関わった。


 自分を守るためではなかった。


 真実を出せば、探索者制度が揺らぐ。

 配信産業が壊れる。

 管理局への不信が一気に広がる。

 人々の恐怖がダンジョンへ流れ込む。


 そう判断した。


 その時の神楽坂は、正しいと思った。


 いや、正しいと思わなければ立っていられなかった。


 英雄は、迷ってはいけない。


 英雄が迷えば、後ろの人間が崩れる。


 だから神楽坂は、迷いを白い光で覆った。


 その白は、多くの人を安心させた。


 同時に、誰かの声を消した。


 澪の死を疑った者。

 管理局の報告に違和感を覚えた者。

 配信の裏側に不自然さを見た者。

 探索者制度そのものに恐怖を抱いた者。


 そういう小さな声は、神楽坂レイジという白の前で、出しづらくなった。


 彼が悪だったからではない。


 彼が正義だったからだ。


 それが、一番たちが悪かった。


 黒瀬透真に言われた。


 あなたが悪だったんじゃない。

 あなた一人に正義を背負わせた構造が間違ってる。


 あの言葉で、神楽坂は英雄を降りた。


 降りたつもりだった。


 だが、一度英雄と呼ばれた人間は、自分の意思だけで完全には降りられない。


 世間はまだ、神楽坂レイジを知っている。


 かつて正義だった男として。


 隠蔽に関わった元英雄として。


 それでも、まだ発言すれば誰かが耳を傾ける人物として。


 つまり今の神楽坂は、英雄ではない。


 だが、ただの人間にも戻れていない。


 その半端さが、七曜会にとって問題だった。


     ◇


 管理局の臨時施設から少し離れた、非公開の公聴準備室。


 そこに神楽坂は呼ばれていた。


 呼び出したのは管理局ではない。


 七曜会。


 正式な召喚状ではない。


 だが、断れば次の手続きに移ると分かる文面だった。


 神楽坂は断らなかった。


 逃げる理由がなかったからではない。


 逃げれば、相手により強い理由を与えるからだ。


 それに、日向アキラとは一度話しておく必要があると思っていた。


 七曜会の白。


 今の時代の正義。


 かつて神楽坂が背負っていたものとは、似ているようで違う白。


 それが何を見て、何を切り捨てるのか。


 神楽坂は確かめたかった。


 部屋の中には、長い机が一つ。


 録音機材。

 議事記録端末。

 七曜会の白い印が入った資料。

 壁には、外部通信制限用の薄い結界が張られている。


 神楽坂は、入室した時点でそれに気づいた。


 閉じ込めるためではない。


 発言を外へ漏らさないための結界。


 会話の前から、すでに答えの一部は出ていた。


 机の向こうに、日向アキラが座っていた。


 白い上着。


 無駄のない姿勢。


 若い顔。


 だが、目は若くない。


 現場で人を救い、人を切り分け、必要なものを必要な順番で動かしてきた者の目だった。


「神楽坂レイジさん」


 日向は立ち上がった。


「お会いできて光栄です」


「光栄と言われるほどのものじゃないよ」


「いいえ。あなたは今でも、白の歴史において重要な人物です」


「過去形に近いね」


「はい」


 日向は、躊躇なく言った。


「あなたは、旧時代の英雄です」


 神楽坂は少し笑った。


「正直だ」


「嘘をつく理由がありません」


「七曜会の人は、本当にそれが好きだね」


「必要な情報を正確に出すことは、信頼の基本です」


「信頼、か」


 神楽坂は椅子に座った。


 机の上の資料には、すでに神楽坂の名前が表示されている。


【白系色相影響評価】

【対象:神楽坂レイジ】

【現状:大衆信頼低下/一部証言者信頼残存】

【危険:発言による社会不安再燃】

【有用性:発言による不安抑止】


 神楽坂は、その文字をしばらく見ていた。


「僕も評価対象か」


「はい」


「便利な時代だ」


「必要な時代です」


「それで、旧時代の英雄に何をさせたい?」


 日向も椅子に座る。


 姿勢が崩れない。


 若いのに、まるで最初から人に見られる前提で生きているような座り方だった。


「あなたには、発言を控えていただきたい」


「どの発言を?」


「七曜会による色相危機対応への批判的証言。特に、相原ユウの保護判断、土岐ネムの独断、九条財団への介入についての見解です」


「ずいぶん具体的だ」


「具体的でなければ意味がありません」


「僕がそれを話す予定だと?」


「話す可能性がある」


「可能性で止める?」


「はい」


 日向の答えは、やはり早い。


 迷いのない返答。


 そこに悪意はない。


 だから神楽坂は、少しだけ息を吐いた。


 悪意がない相手ほど、厄介なものはない。


 悪意なら、否定できる。


 欲望なら、暴ける。


 だが、正しさは簡単には否定できない。


「浪華色街事件の後、社会はまだ事実を知りません」


 日向は続けた。


「未成熟な翠が賭けられたこと。透明鑑定士が観測対象として商品化されたこと。浪華色街の紅金領域が観客熱量を契約強度へ変換していたこと。七曜会内部で土岐ネムが独断行動を取ったこと。九条財団の代表権が一時停止されたこと」


「全部、事実だね」


「はい」


「なら、話してはいけない理由にはならない」


「事実だからこそです」


 日向の声は静かだった。


「事実は、出す順番と形を間違えれば、人を殺します」


 神楽坂は黙った。


 その言葉自体は、間違っていない。


 神楽坂自身も、かつて同じような理由で真実を伏せた。


 だから、すぐには否定できない。


 日向は、その沈黙を見逃さなかった。


「あなたなら分かるはずです」


「そうだね」


「黒瀬澪の件で、あなたは真実を伏せた」


「うん」


「それは、社会的混乱を抑えるためだった」


「そうだ」


「なら、今回も同じです」


「違う」


 神楽坂は、静かに言った。


 日向の目が少し動く。


「何が違うのですか」


「僕は、あの時の判断を正しかったと言い切れない」


「間違っていたと?」


「それも言い切れない」


「では、曖昧なままですか」


「曖昧なまま残すしかないこともある」


 日向の白が、わずかに強くなった。


 その白は、神楽坂の知っている白と違う。


 大衆の信頼が一斉に集まる眩しい白ではない。


 もっと冷静で、整っていて、制度に近い白。


 神楽坂は、それを見て理解した。


 日向アキラの白は、個人の人気に依存していない。


 七曜会という非公式でありながら現実に人を救ってきた組織。


 国家が表で扱えない危機に、先に踏み込む力。


 その積み重ねが、日向の白を支えている。


 英雄個人の白ではない。


 危機対応の正統性としての白。


 だから、今の神楽坂より強い。


「あなたの白は、旧時代の英雄の白です」


 日向は言った。


「大衆に信じられることで成立する白。強く、分かりやすく、しかし脆い」


「否定はしないよ」


「私の白は違います」


「制度の白?」


「近いです」


 日向は、少しだけ目を伏せた。


「個人の人気ではなく、危機対応の実績と組織の判断に支えられる白です」


「組織が間違えたら?」


「修正します」


「誰が?」


「私たちが」


「その私たちが間違えたら?」


「責任を取ります」


 神楽坂は、薄く笑った。


「その言葉を、僕も昔使った気がする」


 日向は黙る。


「責任を取る。便利な言葉だよね」


「逃げるための言葉ではありません」


「分かっている」


 神楽坂は机の上の資料に視線を落とした。


「でも、責任を取ると言っても、戻らないものは戻らない。黒瀬澪は戻らない。隠した時間も戻らない。疑問を飲み込んだ人の沈黙も戻らない」


 日向は答えなかった。


「日向くん。君たちは速い。強い。必要なことを先にやる。それで救える人はいるだろう」


「はい」


「でも、君たちが必要だと判断した瞬間、本人の迷いが置き去りになる」


「迷っている間に失われるものもあります」


「ある」


「なら、なぜ止めるのですか」


「止めたいんじゃない。止まれる形を残したいんだ」


 神楽坂の足元に、細い白が灯る。


 白《証言者の光》。


 それは昔のように強くない。


 大衆の声が一気に集まることはない。


 今の神楽坂を信じる人間は、多くない。


 むしろ、彼を疑う人間の方が多いかもしれない。


 それでも、完全に消えてはいない。


 神楽坂が何を隠したのか。


 何を悔いたのか。


 何を証言しようとしているのか。


 それを知る少数の人間がいる。


 佐伯ユズル。

 黒瀬透真。

 白峰リア。

 御影カナタ。

 九条セイラ。


 彼らが神楽坂を全面的に許しているわけではない。


 だからこそ、今の神楽坂の白は細く、弱く、だが嘘が少ない。


「相原ユウくんは、またどこかに連れていかれるのを怖がった」


 神楽坂は言った。


「白峰リアさんは、配信しないことを自分で選んだ。カナタくんは、死ぬための契約を選ばずに撤退した。セイラさんは、代表権を奪われても、相談者たちに選ばれた」


 日向は黙って聞いている。


「それを、危険だからといって先に整理しすぎないでほしい」


「整理しなければ、被害が広がります」


「そうだろうね」


「あなたは、優しいことを言っている。しかし、その優しさで間に合わなかった場合、誰が死ぬと思いますか」


 日向の声が少しだけ低くなる。


「相原ユウかもしれない。黒瀬透真かもしれない。白峰リアの視聴者かもしれない。九条財団に相談へ来た低ランク探索者かもしれない」


「分かっている」


「分かっていて、なお発言するのですか」


「するべき時はする」


「では、止めます」


 日向が手を上げた。


 攻撃ではない。


 命令でもない。


 しかし、部屋の壁面端末が一斉に反応した。


【白系高影響発言制限申請】

【対象:神楽坂レイジ】

【理由:色相危機事案に関する社会不安増幅リスク】

【申請者:七曜会・日向アキラ】

【処理:暫定承認】


 神楽坂は目を細めた。


「準備がいいね」


「あなたが拒む可能性は想定していました」


「僕の発言権を止めるのか」


「一時的に制限します」


「誰の権限で?」


「七曜会の危機対応権限と、白系色相影響評価に基づきます」


「管理局は?」


「事後共有します」


 神楽坂は笑った。


 薄い笑いだった。


「それが、君たちの速さか」


「はい」


「そして、危うさだ」


「承知しています」


「承知していてやる」


「はい」


 日向の白が、部屋全体を覆った。


 神楽坂は立ち上がる。


 自分の白を強めようとした。


 少数の証言者による信頼。


 自分を完全には許していない人たち。

 それでも、彼が何を隠し、何を悔い、何を証言したかを知っている人たち。


 その光を呼ぶ。


 だが、届かない。


 壁の結界が、神楽坂の白を部屋の内側へ閉じ込めている。


 端末は遮断されている。


 外部通信は止まっている。


 神楽坂の発言は、まだ誰にも届いていない。


 証言者が証言を受け取れなければ、白は広がらない。


 神楽坂の光は細いまま、日向の制度の白に押し込まれた。


 力で負けたのではない。


 戦闘で倒されたのでもない。


 発言の場を奪われた。


 証言が届く前に、社会不安定要素として封じられた。


 神楽坂は、はっきり理解した。


 敗北だ。


 今の自分の白では、日向アキラの白に届かない。


 いや、届かないように場を整えられた。


 その整え方こそが、日向の白だった。


「……強いね」


 神楽坂は言った。


 日向は答える。


「必要な強さです」


「そうだろうね」


「あなたを否定したいわけではありません」


「分かっている」


「私は、あなたを尊敬しています」


「それも分かっている」


 神楽坂は、ゆっくり息を吐いた。


「尊敬しながら封じる。君は本当に、新しい白だ」


 日向は表情を変えなかった。


 だが、その目に一瞬だけ痛みが走ったように見えた。


「発言制限は一時的なものです」


「いつまで?」


「色相危機評価が更新されるまで」


「つまり、君たちが解除すると決めるまで」


「はい」


「正直だ」


「嘘をつく理由がありません」


 神楽坂は椅子に戻った。


 抵抗する方法はある。


 管理局へ異議を出す。

 佐伯ユズルへ連絡する。

 透真たちへ警告する。


 だが、今この瞬間、それらは止められている。


 日向は、神楽坂の能力を正しく読んでいた。


 神楽坂の白は、証言者に届いて初めて意味を持つ。


 なら、届く前に止めればいい。


 単純だ。


 そして、正しい。


「日向くん」


 神楽坂は言った。


「はい」


「君の正しさは、たぶん多くを救う」


「そうあるように動きます」


「でも、救われた人の中に、君を怖がる人が出る」


 日向は黙った。


「その人の声を、危険として処理しすぎない方がいい」


「覚えておきます」


「覚えるだけじゃ足りない時もある」


「では、記録します」


「君らしい答えだ」


 神楽坂は苦笑した。


 日向は立ち上がった。


 会談は終わった。


 神楽坂レイジの発言権は、一時的に制限された。


 旧時代の英雄は、新しい白に敗北した。


     ◇


 日向が去った後、神楽坂は一人で部屋に残された。


 拘束されているわけではない。


 扉も開く。


 外へ出ることもできる。


 ただ、発言が届かない。


 神楽坂は端末を取り出した。


 まず佐伯ユズルへ送ろうとする。


【送信できません】

【色相危機関連発言制限中】

【審査機関:七曜会】


 次に、黒瀬透真。


【送信できません】

【対象通信は危機事案関係者への影響を持つ可能性があります】


 白峰リア。


【送信できません】


 御影カナタ。


【送信できません】


 九条セイラ。


【送信できません】


 神楽坂は、しばらく画面を見ていた。


 怒りはある。


 悔しさもある。


 だが、それ以上に、寒かった。


 これが日向アキラの白。


 嘘をつかない。

 正しく理由を並べる。

 制度として処理する。

 本人を傷つけず、声だけを一時的に止める。


 暴力ではない。


 だからこそ、強い。


 神楽坂は端末を伏せた。


 小さく笑う。


「参ったな」


 誰にも届かない声だった。


 それでも、神楽坂は呟いた。


「負けたよ、透真くん」


 その言葉も、当然、透真には届かなかった。


     ◇


 同じ頃。


 管理局臨時施設の一室で、黒瀬透真はふと顔を上げた。


 理由は分からない。


 何かが見えたわけではない。


 鑑定表示も出ていない。


 ただ、胸の奥がざわついた。


 誰かの声が、届く前に消えたような感覚。


 透真は端末を見た。


 神楽坂からの連絡はない。


 佐伯からの連絡もない。


 リアからも、セイラからも、カナタからも、新しい通知はない。


 何も起きていない。


 画面上は。


 だが、透真はもう知っている。


 何も表示されないことが、一番危険な時もある。


 見えていないのではない。


 見えないようにされている。


 透真は、背中の痛みを堪えて立ち上がろうとした。


 医療スタッフに止められる前に、端末を握る。


「神楽坂さん……?」


 呼びかけるように呟いた。


 返事はない。


 透明は、すべてを見られるわけではない。


 見えるのは、そこに残った歪みだけだ。


 そして今、透真にはまだ、その歪みすら見えていなかった。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、神楽坂レイジと日向アキラの白同士の対話でした。


日向は神楽坂を尊敬しています。

だからこそ、旧時代の英雄として否定しました。


神楽坂の白は、少数の証言者による信頼。

日向の白は、七曜会という制度と危機対応の正統性に支えられた白。


力で殴り合ったわけではありません。

けれど、神楽坂は確かに敗北しました。


発言権を一時制限され、透真たちへ連絡できなくなる。

それは、今の七曜会がどれほど「正しく危険」なのかを示す敗北です。


次回、七曜会は透明を狩りに来ます。透真は、自分が中立ではいられないことを突きつけられます。

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