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第86話 セイラ、所有権を奪われる

 九条セイラは、自分の名前が好きではなかった。


 九条。


 その二文字は、便利だった。


 扉が開く。

 人が頭を下げる。

 銀行が話を聞く。

 行政が書類を早く回す。

 探索者ギルドが、こちらの機嫌を伺う。


 それは力だ。


 力である以上、使わない理由はない。


 セイラはずっとそう思っていた。


 だが、同時にその名前は鎖でもあった。


 九条家の娘だから。

 九条家の資産だから。

 九条家の信用だから。

 九条家の顔だから。


 何をしても、自分の前に家の名前が立つ。


 自分が作ったものですら、まず九条家のものとして見られる。


 それが嫌だった。


 だから、九条探索者選択支援財団を作った時、セイラは心のどこかで思っていた。


 これは、私のものだ。


 九条家の所有物ではない。


 低ランク探索者を契約の餌にする者たちから守るための場所。

 失敗した探索者が、もう一度条件を読み直せる場所。

 誰かに使われる前に、自分で選ぶための場所。


 高尚な理想だけではない。


 自分が作った、と言いたかったのも事実だ。


 私の財団。

 私の場所。

 私が責任を持つもの。


 その言葉には、セイラの誇りと、まだ捨てきれない所有欲が混ざっていた。


 だからこそ、正面玄関に現れた女を見た瞬間、セイラは嫌な予感がした。


 金色の髪飾り。

 淡い色のスーツ。

 派手ではないが、身につけているものがすべて高い。


 立っているだけで、周囲の職員が一歩引く。


 その女は、笑っていた。


 柔らかく。


 だが、その笑みには、値札を貼る側の冷たさがあった。


「初めまして、九条セイラさん」


 女は名刺を差し出した。


「七曜会、金剛サクヤです」


 セイラは名刺を受け取らなかった。


 受付ホールにいた職員たちが、息を呑む。


 サクヤは気にした様子もなく、名刺を机の上へ置いた。


「受け取らない自由は尊重します」


「なら、お帰りになる自由も尊重して差し上げますわ」


「残念ですが、それはできません」


 サクヤは、財団のホールをゆっくり見回した。


 掲示板。

 相談窓口。

 契約書チェック用の端末。

 無料相談を待つ低ランク探索者たち。

 職員の名札。

 壁にかかった財団設立趣旨。


 その視線が、物を見る目だった。


 セイラは、それがすぐに分かった。


 人を見ていない。


 配置を見ている。

 権利を見ている。

 誰が何に紐づいているかを見ている。


「いい財団ですね」


「褒め言葉として受け取るには、声が冷たすぎますわ」


「褒めていますよ。低ランク探索者の相談窓口、契約審査、医療連携、記録保全。これだけ短期間で形にしたのは見事です」


「ご用件は」


「単刀直入に言います」


 サクヤは、端末を開いた。


 財団の受付端末が、勝手に反応する。


 職員が慌てて操作しようとしたが、画面は固まった。


 セイラの眉が動く。


「この財団の代表権を、一時停止します」


 ホールの空気が止まった。


 相談に来ていた探索者の一人が、小さく声を漏らす。


「代表権……?」


 セイラは笑った。


 怒りが強すぎる時、彼女は笑う。


「面白い冗談ですわね」


「冗談ではありません」


「ここは私が設立した財団です」


「はい」


「資金の大部分も、私が集めました」


「はい」


「相談体制も、提携先も、職員も、私が動かしました」


「はい」


「それで、どうしてあなたが止められると?」


 サクヤは、少しだけ首を傾けた。


「所有権と代表権は、同じではありません」


 セイラの表情が消えた。


 サクヤは続ける。


「あなたは財団の設立者であり、主要な資金提供者であり、実質的な運営者です。ですが、この財団は現在、公共性を帯びています」


 その言葉。


 セイラは以前にも聞いたことがある。


 白鷺家の使者。


 所有は社会的承認によって支えられる。


 あなたは、まだ世間から嫌われていますよね。


 あの時の不快感が蘇る。


「白鷺家ですのね」


「連携しています」


 サクヤは否定しない。


「七曜会と白鷺家が?」


「国家危機対応において、名家側の正統性を参照することはあります」


「随分と便利な正統性ですわね」


「便利です。だから使います」


 セイラは、受付カウンターに手を置いた。


 金《王権登記》。


 この財団の一部設備を、暫定的に自分の所有物として扱う。


 受付端末。

 相談室の予約システム。

 財団内通信。


 いつもなら、すぐに反応する。


 だが、今日は違った。


 端末の画面に、金色の文字が浮かんだ。


【所有根拠照合中】

【九条セイラ:設立者】

【九条家:資金根拠】

【財団理事会:法的運営権】

【白鷺家推薦機関:公共性承認】

【七曜会危機対応権限:一時優先】

【照合結果:九条セイラ単独所有、否認】


 セイラの指が止まった。


 サクヤの足元に、薄い金色の帳簿が開く。


 紙ではない。


 端末でもない。


 空中に浮かぶ、金の台帳。


 そこには、人名、資産名、権限、登記、寄付履歴、推薦状、社会的承認、危機対応指定が細かく記されていた。


「金《正統簿》」


 サクヤは静かに言った。


「社会的承認、血統、登記、資産、推薦、公共性。所有を支える根拠を統合し、最も正統な権限者を一時的に確定します」


「つまり、横取りですわね」


「違います」


「綺麗な横取りですわ」


 サクヤは微笑む。


「所有というものを、あなたは少し個人的に考えすぎています」


 セイラの目が鋭くなる。


「あなたに所有を語られる筋合いはありません」


「あります。私も金ですから」


 金と金。


 セイラの《王権登記》は、目の前のものを暫定的に自分の所有物として扱う力だ。


 強い。


 速い。


 現場では圧倒的に便利だ。


 だが、サクヤの《正統簿》は違う。


 所有を支える根拠そのものを並べ、どちらがより正統かを決める。


 セイラの金が、手を伸ばして掴む金なら。


 サクヤの金は、台帳に書いて奪う金だった。


「この財団は、低ランク探索者を集めています」


 サクヤは言った。


「契約相談、医療紹介、記録保全。表向きは支援ですが、見方を変えれば、色相能力者の独自ネットワークです」


「支援をネットワークと呼ぶなら、病院も学校もネットワークですわ」


「その通りです。だからこそ管理が必要です」


「管理」


 セイラは吐き捨てるように言った。


「またその言葉ですのね」


「浪華色街の件で、未成熟な翠が誘拐されました。透明鑑定士が観測対象として賭けられました。紅白の配信者は世論を動かし、蒼の契約者は国家協力契約を拒んだ」


「だから、私の財団を止めると?」


「止めるのではありません。一時的に代表権を整理します」


「言葉遊びですわ」


「制度です」


 セイラは、サクヤの金の帳簿を睨んだ。


 自分の所有権が、薄くなっている。


 財団の端末が、セイラの命令をすぐに受け付けない。


 相談室の鍵も、予約システムも、職員用連絡網も、一部がサクヤの《正統簿》に照合されている。


 完全に奪われたわけではない。


 だが、セイラ単独では動かせない。


「代表権の一時停止期間は?」


「七曜会と白鷺家推薦機関による危機審査が終わるまで」


「つまり、あなた方が終わりと言うまで」


「はい」


「正直ですこと」


「嘘をつく必要がありません」


 その言い方に、セイラはほんの少し日向アキラを思い出した。


 七曜会の人間は、嘘を嫌うのではない。


 嘘をつかずに押し通せるだけの力を持っている。


 だから厄介なのだ。


 受付の奥から、若い探索者が立ち上がった。


 宮野アキ。


 以前、悪質な契約書を持ってここへ来た新人探索者だ。


 セイラが最初に助けた相談者の一人。


「ちょっと待ってください」


 職員が止めようとする。


 だが、アキは前へ出た。


「この財団って、セイラさんがやってるから来たんですけど」


 サクヤは、アキを見る。


「あなたは?」


「相談者です」


「この場の権限に関係ありません」


「あります」


 アキの声は震えていた。


 それでも、言った。


「私、前に変な契約書にサインしそうになって、ここで止めてもらいました。セイラさん、言い方はきつかったけど、ちゃんと読んでくれました。私のこと、商品みたいに扱わなかった」


 ホールが静かになる。


 アキだけではない。


 別の低ランク探索者も立ち上がる。


「俺も、ここの記録保全があったからギルドと交渉できました」


「セイラさん、態度は最悪だけど、相談はちゃんと見ます」


「最悪は余計ですわ」


 セイラが思わず言う。


 数人が少し笑った。


 その笑いは、緊張の中で小さく揺れた。


 サクヤは、その様子を見ていた。


 表情は変わらない。


 だが、金の帳簿の一部がわずかに揺らぐ。


【利用者支持:発生】

【現場承認:計測中】

【九条セイラ個人への信頼:限定的増加】


 セイラにも、それが見えた。


 サクヤの《正統簿》は、社会的承認を扱う。


 ならば、ここにいる相談者たちの支持もまた、所有根拠の一部になる。


 小さい。


 白鷺家の推薦や七曜会の危機対応権限に比べれば、あまりにも弱い。


 それでも、ゼロではない。


 サクヤは静かに言った。


「興味深いですね」


「何がですの」


「九条セイラ個人への信頼は、世間評価よりも現場の方が高い」


「嫌味ですの?」


「分析です」


「もっと嫌ですわ」


 サクヤは帳簿を閉じない。


「ですが、代表権停止は実行します」


 金の文字が財団中に走った。


【九条探索者選択支援財団】

【代表権:九条セイラ】

【状態:一時停止】

【暫定管理:危機審査委員会】

【七曜会金担当・金剛サクヤによる正統簿照合中】


 職員端末が一斉に鳴る。


 セイラの端末にも通知が届く。


 短く、冷たい文面。


【代表権限が一時停止されました】


 セイラは、その画面を見つめた。


 怒りで手が震える。


 悔しい。


 屈辱だった。


 自分が作った場所を、正統性という名で奪われる。


 しかも、完全な違法ではない。


 七曜会。

 白鷺家。

 公共性。

 危機対応。

 登記。

 理事会。


 根拠が並んでいる。


 サクヤはただ奪ったのではない。


 奪える形を整えてきた。


 だからこそ、今この場で殴っても意味がない。


 セイラは奥歯を噛んだ。


「ずいぶんと立派な簿冊ですわね」


「ありがとうございます」


「でも、一つ足りませんわ」


 サクヤが目を向ける。


「何でしょう」


「この財団を使う人間が、誰の元に残るか」


 セイラは、ホールにいる探索者たちを見る。


 アキが、ぎゅっと拳を握った。


 別の探索者も、職員も、まだ迷っている。


 当然だ。


 七曜会と白鷺家が相手だ。


 セイラ側に残ると言うのは、危険なことだ。


 それでも、何人かはセイラの方へ歩いた。


 一人。


 二人。


 三人。


 アキが最初に、セイラの後ろに立つ。


「私は、セイラさんに相談します」


 別の探索者が続く。


「俺も」


「私も、記録はセイラさんに見てほしい」


「財団の名前じゃなくて、セイラさんが読んでくれるから来ました」


 セイラは、何も言えなかった。


 胸の奥が熱くなる。


 嬉しい。


 そんな単純な言葉では足りない。


 だが同時に、怖かった。


 自分の後ろに立つということは、彼らを危険に巻き込むということでもある。


 所有するとは、守る責任を引き受けることだ。


 なら、これは所有ではない。


 彼らは、セイラのものではない。


 セイラを選んで、そこに立っている。


 その違いを、間違えてはいけない。


 サクヤの《正統簿》がまた揺れた。


【現場承認:増加】

【利用者信頼:増加】

【九条セイラ代表権:停止継続】

【ただし、個別相談先としての選択権は未凍結】


 サクヤは、少しだけ目を細めた。


「なるほど」


 セイラは言った。


「何がなるほどですの」


「代表権は奪えても、人の選択はすぐには奪えない」


「当然ですわ」


「良いデータです」


「あなた、本当に嫌な女ですわね」


「よく言われます」


 サクヤは、名刺をもう一枚受付へ置いた。


「正式な危機審査は本日より開始します。九条セイラさん、あなたは代表としての権限を一時停止されました。ただし、個人としての相談対応までは禁じません」


「恩着せがましいですわ」


「禁じれば、現場承認がさらにあなたへ寄ります。今はその方が不利です」


「本当に正直ですこと」


 セイラは、怒りを飲み込んだ。


 ここで叫んでも、帳簿は戻らない。


 ここで能力をぶつけても、財団は返ってこない。


 なら、やることは一つ。


 取り戻す。


 所有としてではなく。


 選ばれる場所として。


 サクヤは背を向けた。


 去り際に、静かに言う。


「九条セイラさん」


「何ですの」


「あなたは、金を少し誤解している」


 セイラは答えない。


「金は、持つ力ではありません。持っていると認めさせる力です」


 サクヤは微笑んだ。


「次にお会いする時までに、どちらがより認められるか、試しましょう」


 七曜会の金担当は、そう言って財団を出ていった。


 ホールには、静寂が残った。


 代表権を失った通知音だけが、まだ端末の中で冷たく光っている。


 セイラは、深く息を吸った。


 そして、受付カウンターの前に立つ探索者たちを見た。


「あなたたち」


 声は、いつも通り高飛車だった。


「私の後ろに立つということが、どういう意味か分かっていますの?」


 アキが少し怯えながらも頷く。


「分かってます。たぶん、面倒になります」


「たぶんではなく、確実に面倒ですわ」


「でも、ここで帰ったら、前と同じなので」


 セイラは、少しだけ目を伏せた。


 前と同じ。


 契約書を読めず、誰かに決められ、危ない場所へ押し込まれる。


 その前に戻らないために、彼らはここにいる。


「いいですわ」


 セイラは言った。


「代表権がなくても、目はあります。口もあります。嫌味も言えます」


「嫌味は減らしてもらえると」


「却下ですわ」


 ホールに、小さな笑いが戻った。


 セイラは端末を閉じる。


 代表権は奪われた。


 財団の一部は、もう自分の命令だけでは動かない。


 だが、全てを失ったわけではない。


 人が残った。


 それは所有物ではない。


 けれど、金の根拠になる。


 セイラは、初めてその意味を本当に理解し始めていた。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、九条セイラと金剛サクヤの回でした。


サクヤの金《正統簿》は、単純に物を奪う力ではありません。

社会的承認、血統、登記、資産、公共性を並べて、誰が持つべきかを上書きする力です。


セイラは財団の代表権を一時停止されました。

完全な敗北です。


ただし、代表権を奪われても、セイラを選ぶ人間まではすぐに奪えませんでした。


所有するのではなく、選ばれる。

セイラの金は、ここから形を変えていきます。


次回、白と白がぶつかります。日向アキラは、かつての英雄・神楽坂レイジに「あなたの正しさはもう古い」と告げます。

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