第85話 御影カナタvs水城リョウ
御影カナタは、面倒な話が嫌いだった。
特に、正しい顔をした面倒な話が嫌いだった。
協力してほしい。
君にしかできない。
今だけでいい。
誰かを守るためだ。
そういう言葉は、だいたい綺麗だ。
そして綺麗な言葉ほど、後で血の匂いがする。
カナタは、それを知っている。
昔、何度もその言葉を聞いた。
必要だと言われた。
信頼していると言われた。
君が残れば、他が助かると言われた。
そして、気づけば自分だけが生き残っていた。
契約を読み違えたのか。
判断を間違えたのか。
そもそも、最初から誰かがそうなるように組んでいたのか。
今でも、全部は分からない。
ただ一つだけ分かっている。
カナタは長い間、自分が死ぬための条件ばかり選んでいた。
それを黒瀬透真に見抜かれた。
あの時から、カナタは少しだけ変わった。
大きく変わったわけではない。
急に熱血になったわけでも、人を救う英雄になったわけでもない。
相変わらず面倒なことは嫌いだし、できれば静かにしていたい。
だが、ひとつだけ決めた。
もう、自分を罰するための契約には乗らない。
◇
管理局の臨時医療施設は、朝になっても落ち着いていなかった。
相原ユウは処置室で眠っている。
首の傷は浅い。
腹部の打撲も命に別状はない。
だが、あの少年は一晩でさらわれ、闇試合に出され、七曜会の黒に殺されかけた。
体よりも、心の方が問題だ。
黒瀬透真も、背中を打っているくせに、何度も起き上がろうとして佐伯に止められていた。
バグ丸は事情聴取室で大声を出しているらしい。
論田マコトは治療を受けながら、浪華色街と七曜会の規約矛盾をまとめている。
誰も休めていない。
カナタは、廊下の椅子に座っていた。
壁に背を預け、目を閉じている。
眠ってはいない。
ただ、誰かに呼ばれるまで動かないことにしていた。
こういう時、自分から動くと面倒な話に巻き込まれる。
そして、だいたいその勘は当たる。
「御影カナタさん」
声がした。
知らない声だった。
落ち着いている。
無駄がない。
管理局の職員ではない。
カナタは目を開けた。
青みがかった灰色のスーツを着た男が立っていた。
水城リョウ。
七曜会の水。
資料で名前だけは見ている。
蒼の色相。
契約、制御、条件整理に関わる能力者。
「少し、お時間をいただけますか」
「佐伯さんを通して」
カナタは即答した。
水城は表情を変えない。
「佐伯ユズルは、現在日向と協議中です」
「なら後で」
「相原ユウの保護方針に関わる話です」
カナタは、そこで黙った。
うまい。
そう思った。
相原の名前を出されると、無視しづらい。
しかも、保護方針。
七曜会の黒が相原を殺そうとした直後に、その言葉を出してくる。
水城リョウは、脅しているわけではない。
たぶん本気で、必要な話だと思っている。
だから厄介だ。
「……五分だけ」
カナタは立ち上がった。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
水城に案内されたのは、施設内の古い訓練室だった。
防音壁。
能力試験用の結界。
床には薄い傷跡が残っている。
昔、管理局所属の探索者が訓練に使っていた部屋だ。
今はほとんど使われていない。
カナタは中へ入るなり、扉の位置と非常解除盤を確認した。
水城がそれを見て言った。
「退路を先に見るのですね」
「癖だ」
「良い癖です」
「評価するな」
水城は、部屋の中央に立った。
床に蒼い光が広がる。
水面のような契約盤が浮かび、文字が現れた。
【暫定協力条件】
【対象:御影カナタ】
【要請者:七曜会・水城リョウ】
【目的:色相危機における契約解析および条件破棄支援】
【期間:浪華色街事案および七曜会指定関連事案の収束まで】
【義務:七曜会の要請に応じ、契約解析、条件切断、同行支援を行う】
【制限:対象者は七曜会内部契約への敵対的干渉を行わない】
【補償:医療、休養、報酬、過去事案記録の再調査】
カナタは、最後の一文で目を止めた。
「過去事案記録の再調査」
「はい」
「俺にそれを出すのか」
「必要な材料だと判断しました」
「材料」
カナタの声が低くなる。
水城は、目を逸らさない。
「あなたがかつて関わった契約事故について、七曜会は管理局より深い記録にアクセスできる可能性があります。あなた一人の判断ミスだったのか、管理局側の条件提示に問題がなかったのか、再確認できます」
「やめろ」
「事実確認は」
「やめろと言った」
カナタの手元に、細い蒼の剣が浮かびかけた。
契約剣。
契約条件を斬る剣。
かつてのカナタなら、そのまま抜いていた。
相手の条件を斬り、自分に不利な条件を背負い、戦場を強引に変えていた。
だが、今は剣を握りきらない。
水城は静かに言った。
「あなたは、自分を罰し続ける必要はない」
「そういう話を、契約の餌に使うな」
水城は、そこで初めて少し黙った。
カナタは息を吐く。
怒鳴りたいわけではない。
ただ、気分が悪かった。
水城の言っていることは、たぶん嘘ではない。
七曜会なら、管理局が隠している記録に手を伸ばせるかもしれない。
過去の事案が、カナタだけの責任ではなかったと分かるかもしれない。
その可能性は、魅力的だった。
だからこそ、危険だった。
「俺は、それを知りたい」
カナタは言った。
「でも、それを理由に署名したら、また同じことをする」
「同じこと?」
「誰かを守るため。真実を知るため。必要だから。そう言って、自分を条件に入れる」
水城は答えない。
カナタは契約盤を見る。
条件は悪質ではない。
むしろ、整っている。
七曜会の要請に応じる代わりに、医療も休養も報酬もある。
過去の記録にも触れる。
だが、判断権は七曜会にある。
何が必要か。
どの事案が関連するか。
どの契約へ干渉してはいけないか。
そこを七曜会が握る。
それは、綺麗な檻だった。
「修正案を出します」
水城が言った。
契約盤の文字が変わる。
【一時協力条件】
【御影カナタは、相原ユウの保護方針に関する契約解析を七曜会と共同で行う】
【七曜会は、二十四時間、相原ユウへの強制拘束を行わない】
【御影カナタは、二十四時間、七曜会内部契約への敵対的条件破棄を行わない】
カナタは目を細めた。
最初よりずっと狭い。
しかも、相原への強制拘束を止められる。
魅力的な条件だった。
水城は言う。
「土岐ネムの判断は、七曜会内部でも問題になります。しかし、日向の口頭命令だけでは不安定です。契約として制限を置く方が確実です」
「その代わり、俺の剣を二十四時間封じる」
「七曜会内部契約への敵対的干渉のみです」
「十分広い」
「あなたの契約剣は、七曜会にとって危険です」
「相原も危険。俺も危険。だから先に縛る」
「はい」
水城は嘘をつかない。
それが厄介だった。
カナタは署名欄を見た。
【御影カナタ】
触れれば成立する。
相原への強制拘束を二十四時間止められる。
その代わり、七曜会内部契約には手を出せない。
悪くない。
そう思った瞬間、カナタは自分の指が動きかけていることに気づいた。
まただ。
誰かを守るために、自分を条件に入れようとしている。
相原のため。
透真のため。
今必要だから。
全部、聞き覚えのある言葉だった。
カナタは手を下ろした。
「署名しない」
水城は表情を変えない。
「相原ユウへの拘束停止条件も成立しません」
「別の方法で止める」
「間に合わない可能性があります」
「あるだろうな」
「それでも?」
「それでも、俺の剣を先に預けない」
カナタの声は静かだった。
「俺はもう、自分を条件に入れない」
水城の足元の蒼が濃くなる。
訓練室の扉に文字が浮かんだ。
【退出条件:面談終了】
場の条件化。
水城の能力。
カナタは扉を見た。
契約剣で斬れば出られる。
だが、斬れば水城の思う壺だ。
七曜会内部契約へ敵対的に干渉した危険人物。
そう記録される。
カナタは剣を消した。
「斬らないのですか」
「斬る必要がない」
カナタは扉ではなく、壁際の非常解除盤へ歩いた。
古い管理局施設には、能力封鎖が誤作動した時のため、物理解除が残されている。
元S級探索者用の緊急権限。
とっくに失効しているはずだったが、管理局の書類は遅い。
カナタは古い認証コードを入力した。
【施設安全優先権限】
【使用者:御影カナタ】
扉の蒼い文字が揺らぐ。
水城が、初めてわずかに驚いた顔をした。
「その権限は失効しているはずです」
「管理局は遅い」
カナタは淡々と言った。
「たまには役に立つ」
扉が開いた。
カナタは水城を見た。
「面談は終わりだ」
「こちらは終わっていません」
「俺は終わった」
水城は追わなかった。
ただ、静かに言った。
「撤退を選べる蒼は、厄介ですね」
カナタは肩越しに答える。
「褒め言葉として受け取る」
「褒めてはいません」
「知ってる」
廊下に出ると、佐伯ユズルが立っていた。
壁にもたれ、腕を組んでいる。
疲れた顔をしていたが、カナタを見て少しだけ息を吐いた。
「署名しました?」
「してない」
「助かりました」
「聞いてたのか」
「部屋の外です。全部は聞こえていません」
「嘘が下手だな」
「黒瀬くんがいなくてよかったです」
カナタは、少しだけ笑った。
すぐに真顔へ戻る。
「七曜会は、契約がうまい」
「でしょうね」
「悪い契約じゃなかった」
「そこが一番危ない」
「相原の拘束停止を条件に入れてきた」
ユズルの表情がわずかに硬くなる。
「えげつないですね」
「正しいとも言える」
「だからえげつないんです」
カナタは、訓練室の扉を見る。
「次はもっと断りづらくなる」
「でしょうね」
「なら、先にこっちで条件を作る。相原の保護について、七曜会単独で決めさせない。管理局単独でも決めない。本人の意思確認を条件に入れる」
「文書にします」
「俺が見る」
「お願いします」
カナタは、少しだけ目を閉じた。
疲れている。
朝はやはり嫌いだ。
何かが始まる。
誰かが契約を持ってくる。
必要だと言われる。
署名欄を差し出される。
それでも、今日は署名しなかった。
戦って勝ったわけではない。
相手を倒したわけでもない。
ただ、退いた。
昔の自分なら、それを負けだと思っただろう。
今は違う。
撤退は、次に選ぶための手順だ。
「佐伯さん」
「はい」
「俺はもう、死ぬための契約はしない」
ユズルは静かに頷いた。
「はい」
「でも、生きるための契約なら見る」
「それで十分です」
カナタは廊下の先にある処置室を見た。
相原ユウが眠っている部屋。
あの少年は、まだ自分で選べる状態ではない。
だからこそ、周りが勝手に署名欄を作る。
カナタは、低く呟いた。
「名前を書く前に、読ませないとな」
誰にも聞かせるつもりのない声だった。
だが、ユズルは聞いていた。
「お願いします」
カナタは何も答えず、歩き出した。
◇
訓練室の中で、水城リョウは契約盤を閉じた。
失敗。
そう記録するのは簡単だった。
だが、実際は少し違う。
御影カナタは、条件を読んだ。
魅力も理解した。
相原ユウを守れる可能性も認めた。
そのうえで、署名しなかった。
ただ反抗したのではない。
逃げたのでもない。
撤退した。
水城は端末に記録を入力する。
【御影カナタ】
【色相:蒼】
【契約耐性:高】
【自己犠牲条件への誘導:失敗】
【評価:撤退選択能力あり】
【七曜会協力候補から要注意対象へ移行】
最後に、一文を加える。
【再交渉時、黒瀬透真または相原ユウを条件に含める場合、慎重を要する】
水城は、静かに目を伏せた。
「厄介ですね」
声には、少しだけ敬意が混じっていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、御影カナタと水城リョウの回でした。
七曜会は、力で押さえつけるだけではありません。
むしろ、必要な条件を整え、本人が署名した形を作ってくる。
だからこそ、カナタには危険でした。
相原を守るためなら、契約してもいい。
そう思いかけたところで、カナタは踏みとどまりました。
勝ったわけではありません。
ただ、署名せずに撤退した。
次回、七曜会の圧力はついに九条財団へ向かいます。




