第83話 土岐ネムの暗殺試験
土岐ネムは、殺すことを悪だと思っていない。
正確には、殺すことそのものに、善悪を置いていない。
必要なら殺す。
不要なら殺さない。
失敗すれば、次の方法を探す。
そこに怒りも、快楽も、憎しみもない。
刃物で紐を切る時、人は紐を憎まない。
火を消す時、人は火に説教しない。
毒を取り除く時、人は毒に同情しない。
危険なものを取り除く。
ネムにとって、暗殺とはそれだけの作業だった。
だから、相原ユウを殺そうとした時も、そこに私情はなかった。
未成熟な翠。
失敗を二度目の手順へ変える性質。
成長すれば、制御不能になる可能性がある。
浪華色街での動きを見れば、それは明らかだった。
一回目は逃げ損ねた。
二回目は警備の足を見た。
一回目は桃瀬ハナに吹き飛ばされた。
二回目は中心をずらした。
三回目には、傷を入れた。
一回目は出口に誘導された。
二回目は金の薄い道を探した。
弱い。
とても弱い。
だが、弱いまま変わる。
ネムは、そういうものが嫌いだった。
いや。
嫌いという感情も少し違う。
危険だと判断している。
強い者は、強さの形が見える。
速い者は、速さの限界がある。
硬い者は、硬い場所と柔らかい場所がある。
けれど、育つものは違う。
今日できなかったことが、明日できるようになる。
今見逃した隙が、次の戦場で穴になる。
そして、翠は人を巻き込む。
自分が変わるだけではない。
周囲の手順も変える。
失敗を記録し、他人に渡し、状況を更新する。
だから、摘むなら早い方がいい。
それがネムの判断だった。
日向アキラは、命令していないと言った。
確かに、命令はなかった。
だが、七曜会は国家非公式戦力だ。
現場で危険が発生した場合、各員には即応判断が認められている。
少なくとも、ネムはそう理解している。
日向の白は人を救う。
ネムの黒は、救う前に邪魔な危険を消す。
それだけの違いだった。
浪華色街から少し離れた仮設医療車両の裏。
七曜会の隊員たちが、周囲を封鎖している。
相原ユウは、簡易診察を受けていた。
首の傷は浅い。
ロロによる誘拐。
桃瀬ハナとの試合。
難波ジャックの公開処刑ショー。
そして、ネムの一撃。
身体的にも精神的にも、明らかに限界に近い。
だからこそ、今なら殺せる。
ネムは影の中から、相原を観察していた。
彼の足元にある影。
医療車両の下に伸びる影。
街灯の柱が作る細い影。
バグ丸の派手な帽子が落とす妙な形の影。
黒の通路は、いくつもある。
日向は近くにいる。
黒瀬透真もいる。
鴉羽ミナトも、おそらく気づいている。
だから、一撃で終わらせる必要がある。
失敗すれば、二度目は対策される。
相原ユウは、そういう能力だ。
ならば、二度目を与えない。
それが正しい。
相原は、医療スタッフに首の傷を消毒されながら、足元の影を見ていた。
見ている。
もう影を見ている。
先ほどの一撃で、影から来ると学んだのだ。
やはり危険だ。
ネムはそう判断した。
黒瀬透真が、相原の少し横に立っている。
背中を痛めている。
顔色も悪い。
それでも、目だけは動いている。
厄介な透明。
ネムは黒瀬透真を殺すつもりはない。
少なくとも今は。
透明は情報価値が高い。
日向も、管理局も、七曜会も、殺す判断はしないだろう。
だが、相原ユウは違う。
未成熟な翠は、保護対象であり、危険要素でもある。
そして七曜会の中で、その二つが重なった場合、ネムは危険要素を優先する。
影が薄く伸びる。
刃は短くていい。
首ではない。
今度は足首。
殺すためではなく、歩けなくする。
歩けなければ、撤退手順は止まる。
その後、隔離できる。
日向の命令に対する言い訳にもなる。
殺していない。
ただ、危険な翠の移動能力を奪った。
ネムは、そう組み立てた。
影の刃が、相原の足元へ滑る。
黒瀬透真が振り向く。
「相原さん、足!」
早い。
やはり透明は見ている。
だが、相原の反応はもっと早かった。
相原は、自分の足元ではなく、バグ丸の足元を見た。
ネムは一瞬、意味を測り損ねた。
バグ丸は医療車両の脇で、支給された水のペットボトルを開けようとしていた。
「開かん……なんでや……ワシ、握力まで見放されたんか……」
ふたが固い。
彼は本気で格闘している。
その肘が、横にあった医療用折り畳み台に当たる。
台の上の消毒液が倒れる。
消毒液が床にこぼれる。
バグ丸が慌てて踏み出す。
滑る。
「ぬおっ!?」
バグ丸の体が、予想外の角度で相原へ倒れ込んだ。
相原はそれを見て、横へ一歩引いた。
ネムの影刃は、相原の足首ではなく、滑り込んできた折り畳み台の脚を切った。
台が崩れる。
医療器具が散らばる。
バグ丸は相原のすぐ横を転がり、なぜか無傷で止まった。
「生きてる!」
ネムは、影の中で目を細めた。
偶然。
そう言えば、それで終わる。
だが、偶然にしては、相原の動きがよかった。
一度目は、バグ丸の事故で首を避けた。
二度目は、影ではなく、事故の発生源を見た。
影そのものを読めなくても、影をずらす要因を読んだ。
相原ユウ。
やはり、育っている。
「ネム」
日向の声がした。
白の圧が影に差し込む。
ネムは、黒の中で姿を薄くした。
だが、完全には消えない。
日向は医療車両の入口に立っている。
目が静かに怒っていた。
「下がれと言った」
「殺していません」
「言葉遊びは求めていない」
「移動能力の制限を試みました」
「それを、本人の同意なく行うな」
日向の白が強くなる。
ネムは、その眩しさにわずかに目を細めた。
白は苦手だ。
正しいからではない。
正しさを疑わずに照らしてくるからだ。
「彼は危険です」
ネムは言った。
「見ました」
「見た上で、保護すると判断した」
「保護中に成長します」
「成長そのものは罪ではない」
「制御不能な成長は災害です」
「まだ災害ではない」
「災害になってからでは遅い」
二人の間の空気が冷える。
黒と白。
同じ七曜会の中にある、違う正しさ。
透真はそのやり取りを見ながら、息を呑んでいた。
日向は相原を殺そうとはしていない。
しかし、ネムは違う。
七曜会の中には、相原を未来の危険として排除しようとする人間がいる。
それが分かっただけで、十分に怖かった。
相原は、震えながらバグ丸の方を見た。
「バグ丸さん、大丈夫ですか」
「ワシはいつも大丈夫と大丈夫じゃないの境界線上を生きてる!」
「それは大丈夫じゃないのでは」
「相原くんまで冷静に刺すやん!」
バグ丸は立ち上がろうとして、また消毒液で滑った。
「うわっ!」
今度は医療スタッフが慌てて支える。
ネムは、それを見ていた。
バグ丸。
翠黒。
制御不能の生存バグ。
致命的な結果が、別の不幸へ逸れる。
本人に意図はない。
計算もない。
だが、相原の首への一撃をずらした。
足首への二撃目もずらした。
しかも二撃目では、相原自身がバグ丸の事故を手順に組み込んだ。
危険なのは相原だけではない。
相原とバグ丸が近くにいること。
それ自体が、より大きな不確定要素になっている。
ネムは、淡々と判断を更新した。
相原ユウ単体:危険。
バグ丸単体:不確定。
相原ユウとバグ丸の組み合わせ:極めて危険。
特にバグ丸。
殺傷対象としても、観測対象としても厄介だ。
彼は強くない。
賢くもない。
勇敢でもない。
だからこそ、読みにくい。
ネムの暗殺は、相手の反応を読む。
警戒する者は、警戒した動きをする。
守る者は、守る位置に立つ。
逃げる者は、出口を見る。
だが、バグ丸は違う。
本人にも分からないところで事故る。
殺意に反応したわけでもない。
刃を読んだわけでもない。
ただ、ふたが開かず、消毒液をこぼし、滑った。
暗殺者にとって、これほど面倒な相手はいない。
ネムは、バグ丸を見る。
バグ丸はその視線に気づき、びくりと震えた。
「な、何? ワシなんかした?」
「しました」
「何を!?」
「分かりません」
「本人より分かってないやつに評価されるの怖すぎる!」
ネムは、日向へ視線を戻した。
「バグ丸も監視対象に追加すべきです」
日向は即答しない。
その沈黙だけで、バグ丸が青ざめる。
「待って。ワシ、今、何か偉い会議で議題に上がってる?」
マコトが冷静に言う。
「上がっています」
「降ろして!」
「無理です」
「ワシの人生、勝手に上場せんといて!」
日向は短く息を吐いた。
「バグ丸については、浪華色街関係者として事情聴取を行う予定だった。色相リスク監視も追加する」
「追加されたあああ!」
バグ丸が頭を抱える。
透真は、バグ丸を見る。
彼は騒がしい。
頼りない。
信用できるかと言われれば、まだ分からない。
でも、相原を二度救った。
本人の意思ではないとしても。
それを、七曜会は危険として見る。
当然だ。
危険なのは事実だ。
しかし、危険という言葉で全部を縛れば、誰も動けなくなる。
透真は、日向へ向き直った。
「日向さん。ネムさんは、また相原さんを狙いますか」
日向は、ネムを見る。
「私の命令下では、させない」
「命令下では?」
ミナトが口を挟んだ。
「その言い方、怖いね」
日向はミナトを睨む。
「七曜会内部の統制はこちらで行う」
「統制できてなかったから、今二回目が来たんだよ」
空気が張る。
ミナトは笑っていない。
「黒瀬くんが叫ばなかったら、相原くんは足をやられてた。バグ丸が事故らなかったら、今度は歩けなくなってた。保護を名乗るなら、その中の刃くらいしまってから言ってほしいね」
日向は沈黙した。
それは、ミナトの言葉が間違っていないからだ。
正しさで押し切るには、今の七曜会は一枚岩ではなさすぎる。
ネムは淡々と言う。
「私は、必要な試験を行いました」
「試験?」
相原の声が震えた。
「俺を殺すのが、試験なんですか」
「殺せるかどうかの確認です」
ネムは平然と答える。
相原の顔が歪む。
透真の中で、何かが熱くなる。
だが、相原が先に言った。
「俺は、試験じゃないです」
声は小さい。
震えている。
けれど、確かだった。
「俺は、商品でも、危険物でも、試験対象でもないです」
ネムは相原を見る。
「将来的に危険になる可能性があります」
「それでも、今は俺です」
相原は、自分の足元の影を見た。
一度目。
首を狙われた。
二度目。
足を狙われた。
どちらも、バグ丸の事故で助かった。
でも、ただの偶然で終わらせてはいけない。
次は影を見る。
バグ丸の位置を見る。
街灯の角度を見る。
足元に何があるか見る。
怖い。
とても怖い。
でも、怖いまま見る。
相原は顔を上げた。
「次は、ちゃんと避けます」
ネムの目が、ほんの少し動いた。
「次があると思っていますか」
「ない方がいいです」
相原は言った。
「でも、あるなら、見ます」
その言葉に、ネムは初めて少しだけ沈黙した。
殺せるかどうかの試験。
その試験は、完全には成功しなかった。
相原ユウは殺せなかった。
足も奪えなかった。
その代わり、相原は二度目の見方を手に入れた。
ネムは、それを失敗として記録した。
同時に、情報として記録した。
未成熟な翠は、黒の暗殺に対しても学習する。
危険度、上方修正。
バグ丸との組み合わせで、さらに上方修正。
日向が言った。
「ネム。処分は後で伝える。今は下がれ」
「了解しました」
ネムは影へ沈む。
完全に消える直前、バグ丸を見た。
「バグ丸」
「はい!?」
「あなたは、監視対象です」
「嫌な正式発表やめて!」
ネムの姿が消えた。
黒が薄れる。
しかし、不安は消えない。
相原は、足元の影から目を離せなかった。
透真は、相原の横に立つ。
「大丈夫です」
相原は首を振った。
「大丈夫じゃないです」
「……はい」
「でも、次は見ます」
透真は頷いた。
「それでいいと思います」
バグ丸が、まだ頭を抱えている。
「ワシ、七曜会監視対象って何? これ、履歴書に書ける? 書けへんよな? 書きたないもん」
マコトが言う。
「少なくとも、浪華色街よりは箔がつきます」
「箔いらん! 平穏がほしい!」
ハナが少しだけ笑った。
疲れた笑いだった。
日向は、彼らを見ていた。
正しさで救うつもりだった。
だが、その正しさの内側から刃が出た。
日向は、その事実を軽く扱えなかった。
「黒瀬透真」
日向は言った。
「先ほどの発言を一部訂正する」
透真は日向を見る。
「相原ユウの保護について、七曜会単独では行わない。管理局、医療機関、本人の意思確認を含めて調整する」
ミナトが小さく言う。
「少しは話が通じるんだ」
日向は無視した。
「ただし、あなた方を完全に自由にすることもできない。浪華色街、ロロ、難波ジャック、そして色相能力の拡散。危険は残っている」
「それは分かっています」
「なら、監視は受けてもらう」
透真は、相原を見た。
相原は疲れ切っていた。
すぐに答えを出せる状態ではない。
透真は言う。
「相原さんが休める場所を先に決めてください。話はその後です」
日向は少し黙った。
そして頷いた。
「認める」
それは小さな譲歩だった。
けれど、相原にとっては大きかった。
今すぐ連れていかれるのではない。
今すぐ決めろと言われるのでもない。
まず、休む。
それだけで、少しだけ息ができた。
だが、バグ丸だけはまだ震えていた。
「なあ、ワシも休める?」
日向は言う。
「事情聴取後だ」
「扱い!」
ミナトが肩をすくめる。
「仕方ないよ。監視対象だし」
「味方の口調で刺すな!」
そのやり取りを聞きながら、相原は足元の影を見た。
暗い。
怖い。
でも、ただ怖いだけでは終わらない。
一度目は避けられなかった。
二度目は、バグ丸を見て避けた。
次があるなら。
三度目は、自分で見る。
相原ユウは、そう決めた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
土岐ネムの回でした。
ネムにとって、暗殺は怒りや快楽ではなく、危険を取り除くための作業です。
だからこそ、相原ユウの成長を危険として見ています。
一方で、相原はその暗殺すらも一度目、二度目として記録し始めました。
そして、バグ丸はついに七曜会の監視対象になりました。
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