第76話 論田マコトの矛盾証明
論田マコトは、浪華色街が嫌いだった。
嫌い、という言葉では足りないかもしれない。
憎んでいる。
そう言った方が近い。
ただし、マコトは自分の感情を前に出すのが嫌いだった。
怒りで動く人間は、判断を誤る。
悲しみで喋る人間は、言葉の順序を間違える。
憎しみで叫ぶ人間は、相手に利用される。
だから、マコトは怒らない。
少なくとも、怒っているようには見せない。
憎しみは冷まして、文章にする。
悲しみは分解して、記録にする。
相手を殴れないなら、相手の言葉を殴る。
相手の力に勝てないなら、相手の建前を壊す。
それが論田マコトの戦い方だった。
浪華色街の地下闘技場。
観客席の端で、マコトは古い端末を片手に立っていた。
黒い制服のような服。
細い眼鏡。
少し長めの前髪。
年齢は高校生。
だが、目つきだけは年齢に合っていなかった。
冷めている。
そうよく言われる。
実際は、冷めているのではない。
冷やしているだけだ。
熱いままだと、壊れてしまうから。
リング横の巨大モニターに、次の試合情報が表示されている。
【特別観察枠】
【桃瀬ハナ VS 相原ユウ/バグ丸】
【暫定倍率:桃瀬 1.1】
【相原が二度目に対応する:4.7】
【バグ丸が試合中に事故を起こす:1.3】
【二名が三分以上耐える:6.2】
観客席は沸いていた。
「ハナちゃん続投や!」
「翠の子、逃げたらしいで!」
「バグ丸も出るんかい!」
「あいつ試合出たら絶対なんか起きるやろ!」
「三分耐える方に張るわ!」
笑い声。
歓声。
札を買う音。
人の恐怖が、楽しそうに消費されている。
マコトは、端末の画面を見た。
そこには浪華色街が表向きに掲げている試合規約が開かれている。
【出場者は本人同意または代理契約に基づき登録される】
【登録チップ破損時は再審査を行う】
【試合形式変更時は出場者および賭け札購入者に告知する】
【未登録者の強制出場を禁ずる】
【医療措置直後の出場は安全確認を要する】
立派な言葉だ。
反吐が出るほど立派だった。
浪華色街は違法探索者街だ。
闇試合、裏賭博、違法契約、能力者の売買に近い登録。
まともな場所ではない。
それでも、完全な無法地帯ではないふりをしている。
合意ある興行。
自己責任の賭け試合。
非公式だが自由な能力発表の場。
そういう建前があるから、管理局も表からすぐには踏み込めない。
建前。
マコトは、その建前が嫌いだった。
だが、使えるものは使う。
相手が嘘の橋を架けているなら、その橋を踏んで中央まで進み、重みで折ればいい。
そのために、マコトはここにいる。
三年前。
兄の論田ハルキは、この闘技場で死んだ。
公式記録では、本人同意に基づく試合参加。
死因は魔物による外傷。
安全管理上の不備は確認できず。
そう記録された。
だが、兄の端末ログは試合開始三時間前から途切れていた。
医療記録には薬物反応があった。
契約書の署名時刻と、兄が別区域にいた時刻は矛盾していた。
映像記録は、都合よく欠損していた。
警察も、管理局も、最後までは踏み込まなかった。
証拠不十分。
記録不備。
管轄外。
その言葉で終わった。
だから、マコトは自分で来た。
兄を殺した相手を見つけるため。
いや、正確には違う。
兄を殺した誰かが一人いる、という話ではない。
兄を殺したのは、この場所の仕組みだ。
本人同意という嘘。
自己責任という嘘。
賭けだから仕方ないという嘘。
盛り上がったのだから成功だという嘘。
その全部を、マコトは壊したい。
「論田」
横から声がした。
戌井だった。
浪華色街の運営側の男。
マコトは端末から目を上げずに答えた。
「何ですか」
「お前、また変なことする気やろ」
「変なこととは?」
「規約を読むこと」
「読まれたくない規約なら、書かない方がいいですよ」
戌井の顔が歪む。
「可愛げのないガキやな」
「可愛げで兄は戻りません」
その一言で、戌井の目がわずかに細くなった。
「またその話か」
「まだその話です」
「しつこいな」
「記録が残っていないので、しつこくするしかありません」
戌井は舌打ちした。
「今日は邪魔すんな。特別観察枠は客の食いつきがええ」
「本人同意は?」
「何?」
「相原ユウの本人同意。バグ丸の出場同意。どちらも確認できていません」
「相原は登録予定や。バグ丸は所属員や」
「登録予定は登録済みではありません。所属員であっても、通常業務と試合出場は別契約です」
「細かいなあ」
「そこが穴なので」
マコトは端末を閉じた。
「今からその穴を突きます」
「やめとけ」
「やめません」
「痛い目見るぞ」
「もう見ています」
マコトは、リングへ向かう階段を降りた。
背後で戌井が何かを言ったが、聞かなかった。
試合開始前のリング周辺は騒がしい。
係員が床を拭き、ドローンが位置を調整し、賭け札売りが声を張っている。
リングの片側には桃瀬ハナ。
さっき巨漢を倒したばかりなのに、もう笑顔でバンテージを巻き直している。
反対側には相原ユウとバグ丸。
相原は顔色が悪い。
手首には拘束具の跡が残っている。
足元も不安定だ。
バグ丸はバグ丸で、震えながら騒いでいる。
「ワシは客寄せ! 試合員ちゃう! この線引き大事やと思うんよ!」
「黙っとけ」
警備員に小突かれ、バグ丸は大げさに痛がった。
「暴力反対! ワシ、今から暴力される側やのに、始まる前から前借りせんでええやろ!」
観客が笑う。
マコトは、その笑い声を聞きながらリング脇へ立った。
審判が手を上げる。
「特別観察枠、開始――」
「異議があります」
マコトの声が響いた。
大声ではない。
けれど、よく通る声だった。
審判の手が止まる。
観客席がざわつく。
「誰や?」
「あのメガネまたおるで」
「論破ガキや」
「また試合止めるんか?」
戌井が額を押さえる。
マコトはリング脇の端末へ、自分の参加者IDをかざした。
【補欠枠登録者:論田マコト】
【資格:試合規約確認権限あり】
モニターの隅に、小さく表示が出る。
観客が面白がって声を上げた。
「なんやそれ!」
「規約確認権限て!」
「地味すぎるやろ!」
マコトは観客を見なかった。
「第八試合特別観察枠は、現時点で成立条件を満たしていません」
審判が不機嫌そうに言う。
「またそれか」
「一つ目。相原ユウは登録チップ破損後、再審査が完了していません」
マコトは端末を操作する。
巨大モニターに、記録の一部が映る。
【相原ユウ】
【登録チップ:破損】
【再審査:未完了】
【本人同意:未確認】
観客席がどよめいた。
「未確認やんけ!」
「え、これ札成立するんか?」
「運営、どうなっとんねん!」
戌井が低い声を出す。
「論田」
マコトは続ける。
「二つ目。バグ丸は客寄せ役として所属登録されていますが、試合出場者としての同意登録がありません」
バグ丸が勢いよく頷いた。
「そう! それ! ワシの意思! ワシの人権!」
「お前は黙っとけ!」
「今の流れで黙れるか!」
モニター表示が変わる。
【バグ丸】
【所属:客寄せ役】
【試合出場同意:未確認】
【登録理由:事故演出枠】
観客が爆笑した。
「事故演出枠!」
「そんな枠あるんか!」
「バグ丸らしいわ!」
バグ丸は叫んだ。
「笑いごとちゃうぞ! ワシの命が軽すぎる!」
マコトは淡々と続ける。
「三つ目。試合形式変更の告知が、出場者より先に賭け札購入者へ提示されています。順序が逆です」
審判が舌打ちする。
「細かい」
「順序は契約です。順序を崩せば、同意は無効になります」
戌井がリング脇へ来た。
顔が怖い。
「論田。客が待っとる」
「客が待っていれば規約違反が許される、という条文はありません」
「お前なあ」
「あるなら提示してください」
戌井は黙った。
観客席から野次が飛ぶ。
「早くやれ!」
「でも札無効は困るで!」
「運営、ちゃんとしろ!」
「論破ガキ、もっと言え!」
空気が変わる。
マコトはその変化を感じ取った。
浪華色街では、正義だけでは動かない。
だが、金が絡むと動く。
賭け札が無効になるかもしれない。
その不安は、観客を運営への圧に変える。
戌井はそれを分かっている。
だから、今すぐマコトを黙らせられない。
マコトはそこを突く。
「このまま試合を開始するなら、現時点で購入された賭け札の成立根拠が消えます」
観客席がさらに騒がしくなる。
「おい、無効は困る!」
「ワシ、ハナちゃんに十枚入れたんやぞ!」
「説明せえ!」
戌井の顔が歪む。
「お前、ほんま嫌なガキやな」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてへん」
「知っています」
戌井は数秒黙った。
そして、端末を操作した。
「なら、条件を変える」
マコトは眉を動かさない。
「どう変えるんですか」
「相原ユウとバグ丸の登録再審査を賭けた、異議試合にする」
観客席がざわめく。
戌井の声が大きくなる。
「論田マコト。お前がそこまで言うなら、お前も出ろ」
バグ丸が叫ぶ。
「なんで増えるん!?」
戌井は無視した。
「形式変更や。桃瀬ハナ対、相原ユウ、バグ丸、論田マコト」
モニターが更新される。
【特別異議試合】
【桃瀬ハナ VS 相原ユウ/バグ丸/論田マコト】
【条件:三名が一定時間耐久で登録再審査】
【敗北時:相原ユウは観察枠へ正式登録】
【敗北時:バグ丸は事故演出枠として試合契約継続】
【論田マコト:異議申立者として出場】
観客席が爆発した。
「おもろいやん!」
「三対一!」
「いやハナちゃんなら余裕やろ!」
「論破ガキも殴られるんか!」
「バグ丸死ぬなよ!」
バグ丸は頭を抱えた。
「ワシの死なない前提で遊ぶな!」
相原は青い顔でマコトを見た。
マコトは、リングへ上がる。
ハナは困ったように笑った。
「えっと、相手が増えましたね」
「増えました」
「あなた、戦えるんですか?」
「戦えません」
ハナは目を瞬かせる。
「即答なんですね」
「事実なので」
「じゃあ、どうするんですか?」
「負け方を選びます」
ハナは、少しだけ首を傾げた。
「それ、勝つ気がないってことですか?」
「勝てない相手に勝つ気だけあっても邪魔です。必要なのは、負けても条件を残すことです」
ハナは少し笑った。
「難しいこと言いますね」
「あなたの方が物理的に難しいことをしています」
「そうかな」
「そうです」
マコトは相原の方へ歩いた。
相原は肩を震わせる。
マコトは遠慮なく言った。
「誘拐されて闇試合に出されて、意思あるんですか?」
相原の顔が強張る。
「……え?」
「嫌なら嫌と言う。怖いなら怖いと言う。出たくないなら出たくないと言う。その程度の意思表示もできないなら、相手は勝手に同意にします」
相原は、何も言えなかった。
唇が震えている。
マコトの言葉はきつい。
正しいかどうか以前に、痛い。
バグ丸が顔をしかめた。
「お前、言い方きつない?」
「きつく言っています」
「性格悪っ」
「よく言われます」
相原はうつむいた。
マコトは続ける。
「あなたが弱いのは見れば分かります」
相原の肩が小さく跳ねる。
「戦闘力も低い。逃げ足も遅い。さっきの逃走も、結局捕まった。判断も遅い」
「……はい」
「でも、見ています」
相原が顔を上げた。
マコトは、眼鏡の奥から相原を見た。
「床。警備員の足。バグ丸の事故。清掃カート。拘束具の軌道。あなたは、怖がりながらでも見ている」
「……見ているだけです」
「見ていない人間よりは使えます」
褒めているのか、馬鹿にしているのか分からない。
相原は戸惑った。
マコトは言った。
「一緒に負けるふりをしてください」
「負ける、ふり?」
「勝つ必要はありません。勝てませんから」
マコトは桃瀬ハナを見た。
彼女は柔らかく笑っている。
だが、その体に宿る紅翠は本物だ。
轟ガイを倒した直後なのに、まだ戦える。
殴るほど回復し、戦闘に適応する。
相原とバグ丸とマコトが束になっても、正面から勝てる相手ではない。
「目的は勝利ではありません」
マコトは言う。
「試合条件を壊すこと。本人同意なしの記録を残すこと。あなたがただの商品ではないと示すこと。バグ丸の事故を利用して場を乱すこと」
「ワシの事故、作戦に入っとるん?」
バグ丸が震えた声で聞く。
「入っています」
「やめて! ワシ、制御できへん!」
「制御できないから使えます」
「怖いこと言うな!」
相原は、マコトを見た。
「俺は、何をすればいいですか」
「見てください」
「見るだけ?」
「最初はそれでいいです。あなたが見たものを、僕が言葉にします」
マコトは自分の胸に手を当てた。
「僕の能力は、蒼透《矛盾証明》」
その周囲に、薄い蒼の線が浮かぶ。
そして、その縁に透明に近い揺らぎが重なる。
「相手の発言と行動、目的と条件。その矛盾を三つ指摘できれば、能力条件を一時停止できます」
バグ丸が目を丸くする。
「強いやん!」
「無言の相手には弱いです。直感型にも弱い。狂人にも弱い。あと、僕自身が殴られると普通に痛い」
「急に弱点多いな!」
「だからあなたたちが必要です」
相原は自分の手を見た。
震えている。
怖い。
リングに立ちたくない。
桃瀬ハナと戦いたくない。
観客に笑われたくない。
でも、言わなければ同意にされる。
見なければ、ただの商品にされる。
相原は、かすれた声で言った。
「出たくないです」
マコトは頷いた。
「それでいいです」
「怖いです」
「それも言ってください」
「勝てないです」
「勝たなくていいです」
マコトは、リング中央へ向き直る。
「負け方を選びます」
桃瀬ハナは、三人を見ていた。
相原の震え。
バグ丸の騒がしさ。
マコトの冷たい目。
それぞれ弱い。
でも、それぞれ違う弱さだった。
ハナはグローブを合わせる。
「私は手を抜きません」
相原の顔が青くなる。
ハナは続けた。
「でも、なるべくちゃんと見ます」
マコトが言う。
「なるべく、は曖昧です」
「では、できる限り」
「それも曖昧です」
「論田くん、面倒ですね」
「よく言われます」
バグ丸が相原の横で小声で言った。
「なあ、ワシらほんまに出るん?」
相原も小さく答える。
「たぶん」
「ワシ、死にたくないんやけど」
「俺もです」
「意見一致やな」
二人は、ほんの一瞬だけ目を合わせた。
同盟というには頼りない。
友情というには早すぎる。
ただ、死にたくないという一点だけは同じだった。
審判が手を上げる。
モニターの表示が変わる。
【特別異議試合】
【勝敗倍率:桃瀬 1.1】
【三名耐久成功:7.4】
【矛盾証明成立:5.9】
【相原が二度目に対応する:4.2】
【バグ丸が試合中に事故を起こす:1.1】
観客席が笑う。
「バグ丸事故、倍率低っ!」
「ほぼ確定やん!」
「そら事故るやろ!」
バグ丸が叫ぶ。
「ワシの尊厳!」
マコトは、観客席を一度だけ見た。
そして、静かに言った。
「記録してください。今からここで起きることは、全部あとで矛盾になります」
誰に向けた言葉なのか。
観客か。
運営か。
死んだ兄か。
それとも、自分自身か。
相原には分からなかった。
ただ、その言葉だけは覚えた。
全部あとで矛盾になる。
なら、見なければならない。
怖くても。
弱くても。
泣きそうでも。
ハナが構える。
マコトが半歩下がる。
バグ丸がさらに半歩下がろうとして、足元の紐に引っかかりかける。
相原は、それを見た。
見る。
とにかく見る。
それが、自分に残された最初の手順だった。
鐘が鳴る。
特別異議試合が始まった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
論田マコトの登場回でした。
兄を浪華色街で失った彼は、正面から殴るのではなく、規約や発言、行動の矛盾を突くことで戦います。
相原、バグ丸、マコトの三人は、桃瀬ハナに勝てるわけではありません。
それでも、ただ負けるのではなく、負け方を選ぶ。
次回も読んでいただけると嬉しいです。




