第77話 主人公、到着
黒瀬透真は、浪華色街に着いた瞬間、自分が遅かったのだと分かった。
夜の関西。
駅前から少し外れた通りは、表の繁華街とは違う熱を持っていた。
明るい。
けれど、清潔な明るさではない。
古びた看板。
赤と金のネオン。
違法配信ドローンの点滅。
路地裏から漏れる歓声。
笑い声。
怒号。
賭け札の電子音。
人の熱が、狭い場所に押し込められている。
それが、透真にはひどく息苦しく感じられた。
端末を開く。
佐伯ユズルへ、現在地を送る。
『浪華色街付近に到着しました』
既読はすぐについた。
『単独突入は認めません』
当然の返信だった。
透真は短く返す。
『位置情報は残します。連絡も切りません』
数秒後。
『それは単独突入しない理由にはなりません』
正しい。
透真は、言い返せなかった。
続けて、ミナトからメッセージが来る。
『来たの?』
『来ました』
『来るなって言ったよね』
『はい』
『はいじゃないんだよ』
いつもの軽さがある文章だった。
けれど、その裏にある警戒は分かる。
ミナトは本気で止めていた。
ロロの狙いは、相原ユウだけではない。
黒瀬透真を誘い出すこと。
透明が濁る瞬間を見ること。
怒り、焦り、無力感。
それらで透明がどう歪むのか、ロロは見たがっている。
分かっている。
分かっているのに、透真は来た。
相原ユウを、見捨てられなかった。
最初に会った時、相原は弱かった。
自分でも弱いと分かっていた。
怖がっていた。
けれど、撤退条件を決めたいと言った。
失敗するのが怖いと言った。
それでも、見捨てられずに強くなりたいという祈りを持っていた。
その相原が、今は闇試合にかけられている。
翠。
二度目の手順。
成長するかもしれないから、商品にされた。
透真は端末を握る手に力を入れた。
ミナトから、さらにメッセージが来る。
『黒瀬くん。君が動くと、ロロが喜ぶ』
『分かっています』
『分かってて来るのが一番危ない』
『相原さんを戻したいんです』
しばらく、返信が止まった。
そして、短い文章が届いた。
『見捨てろとは言ってない。餌になるなって言ってる』
透真は、画面を見つめた。
餌。
嫌な言葉だった。
でも、正しい。
今の自分は、相原を助けに来たというより、ロロが置いた餌に反応してここまで来た人間だ。
それでも、足は止まらなかった。
路地の先に、地下へ続く階段がある。
入口の看板には、雑にこう書かれていた。
【虹札倶楽部】
その下には、別の店名を剥がした跡がある。
毎晩、名前を変えているのだろう。
入口には、派手なスーツの男が二人立っていた。
呼び込みに見える。
だが、立ち方が違う。
腰の位置。
重心。
足の開き。
戦闘職だ。
透真が近づくと、一人が笑った。
「兄ちゃん、初めてか?」
「はい」
「正直やな。ここ、観光地ちゃうで」
「知っています」
「何しに来た」
透真は、男を見た。
鑑定。
対象:入口警備
嘘:面倒な客は入れたくない
危険:黒瀬透真の顔が共有済み
祈り:自分の番で揉め事が起きてほしくない
色相:紅/金
顔が共有されている。
つまり、隠れて入ることは最初からできない。
ロロか。
浪華色街側か。
あるいは、両方か。
透真は、息を吐いた。
「黒瀬透真です」
警備の男の笑みが止まった。
もう一人が端末を見る。
画面に何かが表示される。
「……透明の兄ちゃんか」
その言葉で、周囲の空気が変わった。
透明。
それはもう、この場所では名前ではなく札の種類のように扱われている。
男は口角を上げた。
「ええやん。客が喜ぶわ」
扉が開く。
地下から熱気が吹き上がる。
汗。
酒。
金属。
古いコンクリート。
そして、人の興奮した匂い。
透真は階段を降りた。
地下劇場は、想像していたより広かった。
古い円形劇場を改造した空間。
中央には鉄柵に囲まれたリング。
周囲には観客席。
壁には巨大モニター。
その画面には、選手名、色相予想、倍率、負傷率、特殊札が並んでいる。
【特別異議試合】
【桃瀬ハナ VS 相原ユウ/バグ丸/論田マコト】
【勝敗倍率:桃瀬 1.1】
【三名耐久成功:7.4】
【矛盾証明成立:5.9】
【相原が二度目に対応する:4.2】
【バグ丸が試合中に事故を起こす:1.1】
相原の名前があった。
透真の足が止まる。
見つけた。
けれど、助けられてはいない。
リングの中に、相原ユウがいる。
顔色は悪い。
立っているだけでも危ういように見える。
それでも、目だけは動いていた。
床。
鉄柵。
桃瀬ハナの足元。
バグ丸のポーチ。
論田マコトの位置。
審判。
観客席。
見ている。
怖がりながら。
その隣で、バグ丸が騒いでいる。
「なあ、ほんまにこれ始まるん? ワシ、今からでも観客側に戻れる可能性ない?」
論田マコトが冷たく言う。
「ありません」
「即答やめて! 希望は丁寧に潰して!」
「希望ではなく錯覚です」
「お前、性格悪いな!」
「よく言われます」
リングの反対側には、桃瀬ハナが立っている。
ふわふわした髪。
柔らかい笑顔。
赤いグローブ。
その笑顔だけを見れば、闇試合の選手には見えない。
けれど、色は強い。
紅と翠。
攻撃の熱と、適応のしぶとさ。
殴るほど回復し、戦闘に合わせて変わる能力。
透真は、鑑定を起動した。
対象:桃瀬ハナ
嘘:痛くしすぎたくない
危険:紅翠の適応蓄積
祈り:ミユをリングに戻したくない
色相:紅/翠
祈りが見えた。
ミユ。
誰かを守るために、ハナはここで殴っている。
相原を傷つけたいわけではない。
でも、止まれない。
透真は唇を噛んだ。
ここにいる人間は、単純な悪人ばかりではない。
だからこそ、余計に嫌だった。
続けて、相原を見る。
対象:相原ユウ
嘘:怖がっているだけ
危険:未成熟な翠の強制観察
祈り:戻りたい。でも、次は間違えたくない
色相:翠
備考:二度目の手順、発芽段階
戻りたい。
その祈りが、透真の胸に刺さった。
バグ丸。
対象:バグ丸
嘘:自分は何も悪くない
危険:不確定事故発生域
祈り:死にたくない
色相:翠/黒
備考:致命的結果の別不運化。制御不能
論田マコト。
対象:論田マコト
嘘:怒っていない
危険:矛盾指摘による条件停止
祈り:兄の死を、無効な記録で終わらせたくない
色相:蒼/透明寄り
リング上の三人は、ハナに勝てない。
普通に戦えば、すぐ負ける。
でも、何かを壊す可能性はある。
相原は見る。
バグ丸は予定を乱す。
マコトは矛盾を突く。
ハナは強い。
けれど、ハナ自身にも矛盾がある。
殴りたくない。
でも殴る。
守りたい相手がいる。
だから他人を傷つける。
そこをマコトが突けば、紅翠の条件を一瞬止められるかもしれない。
相原がその一瞬を見られれば、二度目の手順が始まるかもしれない。
バグ丸の事故が、場の予定を崩すかもしれない。
勝てない。
でも、試合条件は壊せるかもしれない。
透真は、そこまで見た。
だが、同時に、リングだけを見ていればいいわけではないことにも気づいた。
場全体が、おかしい。
鑑定の範囲を広げる。
個人ではなく、闘技場そのものへ。
空気の中に、色が流れている。
まず紅。
観客の熱狂。
暴力への期待。
恐怖を見たいという興奮。
弱者がどこまで耐えるかを笑う熱。
その紅が、リングへ集まっている。
そして、その熱は金へ変わる。
賭け札。
倍率。
契約。
出場登録。
所有権。
勝敗処理。
紅の熱を、金の網が回収している。
透真の視界に、表示が浮かぶ。
対象:浪華色街・闘技場
嘘:観客が場を動かしている
危険:熱狂の所有者は別にいる
祈り:この場だけは、自分のものだ
色相:紅/金
備考:観客熱量の回収、賭け倍率による領域支配
紅金。
難波ジャック。
まだ姿は見えない。
だが、この場の中心にいる。
観客は、自分たちが盛り上げていると思っている。
違う。
盛り上がった熱が、難波ジャックの金へ流れている。
相原の恐怖も。
バグ丸の事故も。
マコトの異議も。
ハナの人気も。
全部が、この場の燃料になっている。
透真は背筋が冷えるのを感じた。
闇試合ではない。
ここは能力装置だ。
人間の感情と賭けを使った、紅金の領域。
「見えてる?」
耳元で声がした。
透真の体が固まる。
近い。
近すぎる。
首筋に、冷たい指先が触れた。
刃ではない。
それでも、動けば切れるような気がした。
「やっぱり、見えてるんだ」
ロロ。
透真は、ゆっくり振り向いた。
そこに、ロロがいた。
中性的な美貌。
柔らかい笑み。
軽い立ち方。
周囲の観客は、ロロを見ていない。
いや、見えてはいる。
でも、気にしていない。
そこにいることを、重要だと思っていない。
黒。
認識を薄くする色。
ロロは嬉しそうに透真を見ていた。
「来たね、透明くん」
「相原さんを返してください」
「いきなりそれ?」
「返してください」
「嫌だよ」
即答だった。
悪意というより、遊びを断るような軽さ。
透真は奥歯を噛んだ。
鑑定。
対象:ロロ
嘘:殺す気はまだ薄い
危険:攻撃軌道と殺意の不一致
祈り:透明が割れる瞬間を見たい
色相:紅/黒
前にも見た表示。
だが、今はもっと細かく見える。
殺意は黒の奥に隠される。
攻撃の瞬間だけ、軌道が紅に染まる。
普通なら、殺意の向きから攻撃を読む。
あるいは、筋肉や重心から軌道を読む。
ロロは、その二つをずらす。
読める殺意と、来る攻撃が一致しない。
紅黒。
名前は知らない。
けれど、構造は見えた。
「君、今、分かった顔したね」
ロロが笑った。
「俺を誘い出すために、相原さんを使ったんですか」
「うん」
嘘はない。
胸の奥で、熱が生まれる。
怒り。
ロロは、それを見て目を細めた。
「あ、濁った」
透真は息を止める。
乗るな。
これは見られている。
怒りも、焦りも、全部。
ロロは、透明がどう歪むかを楽しんでいる。
「君さ、弱いよね」
「はい」
「でも見える」
「はい」
「見えてたら勝てると思う?」
透真は答えなかった。
思っていない。
見えることと、勝てることは違う。
それは何度も分かってきた。
けれど、ここまで来た。
来てしまった。
ロロは楽しそうに一歩下がる。
「じゃあ、試そう」
次の瞬間、ロロの姿が沈んだ。
消えたわけではない。
認識が滑る。
右に殺意。
左に紅。
実際の踏み込みは、斜め前。
透真には見えた。
左肩に攻撃が来る。
そう見えた。
透真は、右へ半歩沈む。
正しい。
見えた構造に対しては、正しい回避だった。
だが、ロロは途中で止まった。
「へえ」
楽しそうな声。
攻撃の軌道が変わる。
左肩ではない。
足元。
透真の足が払われた。
「っ」
視界が落ちる。
床に膝をつく。
読めていた。
構造は読めていた。
でも、ロロは読まれたと分かった瞬間に、気分で変えた。
理屈ではない。
戦術でもない。
ただ、そちらの方が面白いから。
観客席の一部がこちらに気づく。
「おい、何や?」
「ロロや!」
「ロロ来とる!」
「透明のやつとやるんか?」
歓声が膨らむ。
闘技場の紅が強まる。
予定外の出来事すら、ここでは燃料になる。
ロロは透真の前にしゃがみ込んだ。
「一回目。悪くないね」
透真は立とうとした。
その瞬間、ロロの手が伸びる。
殺意はない。
攻撃軌道は胸。
紅は右手。
黒は足元。
透真は胸への攻撃を避けようと体を引く。
だが、ロロは右手を止めた。
そして、透真の額を指で弾いた。
軽い。
なのに、体の芯が揺れる。
透真は後ろへよろめいた。
「二回目。今のも見えてたね」
観客が笑う。
「透明、弱っ!」
「見えるだけかい!」
「でもロロの動きに反応しとるで!」
「反応して負けるのが一番おもろいわ!」
見えるだけ。
その言葉が耳に刺さった。
分かっていた。
自分は弱い。
鑑定士だ。
直接戦闘では役に立たない。
でも、こうして笑われると、胃の奥が冷える。
ロロは、それさえ楽しそうに見ていた。
「傷ついた?」
「……」
「いい顔」
透真はロロを見続ける。
紅黒のズレ。
殺意と攻撃の不一致。
嘘は少ない。
というより、ロロは嘘をあまり必要としていない。
その場の快楽で変わるからだ。
言ったことと違う行動をしても、本人の中では矛盾ではない。
次の瞬間に面白い方へ動くだけ。
だから、論田マコトの矛盾証明も通りづらいだろう。
発言と行動の矛盾を突く前に、ロロは発言への責任を持っていない。
論理の外にいる。
ロロが三歩目を踏む。
透真は、今度こそ集中した。
殺意は右。
紅は左。
重心は後ろ。
黒の濃度は足元。
攻撃は、背後回り込み。
透真は、振り向かずに前へ出た。
背後を取られる前に、距離を崩す。
読みとしては正しい。
だが、ロロは笑った。
「じゃあ、やめよ」
背後へ回るのをやめた。
ただ前に出た透真の襟を掴む。
軽々と。
まるで、透真の体重などないかのように。
視界が浮いた。
「え」
「三回目。君、ちゃんと見えてる」
ロロの声が近い。
「でも、見えてるだけだ」
次の瞬間、透真は投げられた。
リングではない。
観客席へ。
鉄柵を越え、段差のある客席へ体が飛ぶ。
視界が回る。
赤い照明。
金のモニター。
観客の顔。
笑い声。
相原のいるリング。
ロロの笑み。
背中が段差に叩きつけられた。
息が止まる。
「がっ……」
痛い。
普通に痛い。
何か特別な能力で切られたわけではない。
即死するような攻撃でもない。
ただ、殴られ、崩され、投げられた。
普通に負けた。
観客席が、一瞬静まる。
そして、爆発する。
「落ちた!」
「透明落ちたで!」
「弱っ!」
「いや、ロロ相手やぞ!」
「でも見えてたやろ!」
「見えて負けるんが一番おもろい!」
笑い声が降ってくる。
透真は起き上がろうとした。
腕に力が入らない。
背中が痛い。
膝も痛い。
呼吸が浅い。
端末が震えている。
佐伯か。
ミナトか。
確認する余裕がない。
巨大モニターが切り替わる。
【乱入観測】
【透明鑑定士・黒瀬透真】
【戦闘評価:低】
【観測価値:高】
【破損期待値:上昇】
観客がさらに沸く。
「破損期待値ってなんや!」
「割れる透明、買うわ!」
「ロロ、もう一回やれ!」
透真は、唇を噛んだ。
悔しい。
悔しいほど、何もできなかった。
ロロの構造は見えた。
闘技場の紅金も見えた。
相原たちの勝ち筋ではなく、負け方の可能性も見えた。
それでも、自分自身は止められなかった。
ロロを止められなかった。
リングへたどり着けなかった。
自分一人で来た時点で、すでに負けていた。
ロロは、鉄柵の内側から透真を見ていた。
追撃はしない。
殺すつもりもない。
ただ、透真が見えているのに負ける姿を、ここに晒した。
透明は万能ではない。
鑑定は勝利ではない。
その事実を、浪華色街の観客へ見せるために。
ロロは、にこりと笑った。
「透明は、割れてからが綺麗だよ」
透真は、痛みの中でロロを睨んだ。
ロロは嬉しそうに手を振る。
そして、人混みの熱の中へ溶けるように消えていった。
追えない。
追えるはずがない。
透真は、観客席の段差に手をつく。
息を吸う。
視線を上げる。
リングを見る。
相原ユウが、こちらを見ていた。
青い顔で。
震えながら。
それでも、目を逸らしていない。
バグ丸も口を開けていた。
「透明の兄ちゃん、普通に負けた……」
マコトが低く言う。
「見えていても、勝てるとは限らない」
ハナは、少し困ったような顔をしていた。
透真は、彼らを見る。
自分は負けた。
でも、見た。
浪華色街の紅金構造。
ロロの紅黒。
相原の翠。
バグ丸の翠黒。
マコトの蒼透。
ハナの紅翠。
全部、見た。
勝てなかった。
だからこそ、共有しなければならない。
透明は、勝つ色ではない。
見つける色だ。
そして、見つけたものを、誰に渡すかで意味が変わる。
透真は震える手で端末を掴んだ。
画面が割れている。
それでも動く。
ミナトからメッセージが来ていた。
『動くな。君の負け、使う』
透真は、痛みの中で目を細めた。
使う。
ミナトなら、そう言う。
助けるより先に、情報として使う。
ひどい。
でも、今はそれが必要だ。
透真は短く返した。
『お願いします』
送信。
それだけで、指が震えた。
リングでは、審判が戸惑いながらも試合進行を止めようとしていない。
観客は熱狂している。
ロロの乱入。
透明の敗北。
これから始まる特別異議試合。
紅が燃える。
金が回収する。
難波ジャックの場が、さらに強くなる。
透真は、歯を食いしばった。
「……相原さんを、戻す」
声は小さかった。
歓声にかき消されるほど。
でも、自分には聞こえた。
リングの相原にも、届いたのかもしれない。
相原は、震えながらも、小さく頷いた。
その直後、鐘が鳴った。
桃瀬ハナ対、相原ユウ、バグ丸、論田マコト。
特別異議試合が、始まる。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、透真が浪華色街に到着し、ロロに敗北する回でした。
透真は闘技場の紅金構造も、ロロの紅黒のズレも見抜いています。
それでも、見えることと勝てることは別でした。
そして、その敗北すらも次の一手に使おうとする者がいます。
次回も読んでいただけると嬉しいです。




