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第75話 桃瀬ハナ、笑顔で殴る

 桃瀬ハナは、料理が好きだった。


 得意なのは、卵焼き。


 少し甘めで、出汁を入れて、焦げないように弱火で焼く。

 形はたまに崩れる。

 でも、最後に巻き直せば、それなりに見える。


 一回目で火加減を見る。

 二回目で巻き方を直す。

 三回目で、ようやく人に出せる。


 ハナは昔から、そういう順番が好きだった。


 料理でも、掃除でも、裁縫でも。


 そして、殴り合いでも。


「ハナちゃーん!」


「今日も笑って潰してくれー!」


「紅翠に五枚!」


「三分以内決着で張ったで!」


 浪華色街の地下闘技場。


 古い円形劇場を改造した試合場は、今夜も熱気で満ちていた。


 中央には鉄柵で囲まれたリング。

 周囲には観客席。

 壁の巨大モニターには、選手名、色相予想、倍率、負傷率、特殊札が並んでいる。


【第七試合】

【桃瀬ハナ VS 轟ガイ】

【色相予想:紅翠 VS 金寄り強化型】

【勝敗倍率:桃瀬 1.6 / 轟 2.8】

【特殊札:三分以内決着】

【特殊札:五分以降逆転】

【特殊札:轟ガイ骨折数】


 ハナは、その最後の項目を見て少し眉を下げた。


「骨折数で賭けるの、よくないと思うんだけどなあ」


 声は柔らかい。


 怒っているようには聞こえない。


 だが、本気でそう思っていた。


 試合場裏の通路で、戌井が鼻で笑う。


「客が買うんや。しゃあない」


「でも、骨って折れると痛いですよ」


「当たり前やろ」


「当たり前なら、やっぱりよくないです」


「お前が言うな」


 戌井は、ハナの拳に巻かれた赤いバンテージを見た。


「今日も普通に勝て。派手にやれば、ミユの利息分くらいは消える」


 ミユ。


 その名前を聞いて、ハナの笑顔がほんの少しだけ止まった。


 ミユは、血の繋がった妹ではない。


 地方の探索者訓練施設で知り合った、年下の女の子だった。


 よく喋る。

 よく笑う。

 卵焼きに毎回殻を入れる。


 強くなりたいと言って、浪華色街近くの非正規訓練場に通い始めた。

 装備代を借りた。

 治療費を借りた。

 試合出演の契約書にサインした。

 負けた。

 借金が増えた。


 よくある話。


 浪華色街では、ありふれた話。


 ハナは、その借金の一部を自分名義に移した。


 馬鹿だと言われた。


 本人も、少し馬鹿だと思っている。


 でも、ミユは泣きながら言った。


 もうリングに立ちたくない、と。


 なら、自分が立つしかない。


 ハナにとっては、それだけだった。


「今日勝てば、どれくらい減ります?」


「派手に勝てば、利息分はな」


「元本は?」


「まだまだや」


「そっか」


 ハナは、にこりと笑った。


「じゃあ、派手に勝ちます」


「軽いな」


「暗く言っても、借金は減らないので」


 ハナはリングへ向かった。


 観客席から声が飛ぶ。


「ハナちゃーん!」


「今日もかわええな!」


「笑顔で折ってくれ!」


 ハナは手を振った。


 ふわふわと巻いた髪。

 白いショートジャケット。

 動きやすいスパッツ。

 赤いグローブ。


 見た目だけなら、地下闘技場より、配信ステージの方が似合っている。


 実際、昔はアイドル探索者として売り出そうとされたこともある。


 ただ、ハナは歌が下手だった。


 踊りも少し遅れる。


 営業メールは返し忘れる。


 その代わり、殴るのは得意だった。


 リングの向こう側に、対戦相手が立っている。


 轟ガイ。


 二メートル近い巨体。

 分厚い肩。

 全身に金属プレートのような強化装備。


 歩く壁。


 そんな印象だった。


 轟はハナを見下ろして笑った。


「ほんまに小さいな」


「よく言われます」


「折れそうや」


「意外と丈夫ですよ」


「女の子相手に本気出すの、趣味悪い言われそうやな」


「大丈夫です」


 ハナは、笑顔でグローブを合わせた。


「私、わりと本気出されるの好きなので」


 轟の笑みが少しだけ消えた。


 審判が手を上げる。


「第七試合、開始!」


 鐘が鳴った。


 轟が先に動く。


 巨体に似合わない速さだった。


 右腕の強化装備が唸る。


 ハナの頭へ、上から叩き潰すような拳が落ちてくる。


 普通なら下がる。


 少なくとも、避ける。


 ハナは前へ出た。


 観客の声が、一瞬だけ細くなる。


 轟の拳が落ちる。


 ハナはその内側へ入り込み、腹部装甲へ左拳を打ち込んだ。


 軽い音。


 金属を叩いたような音だった。


 轟はほとんど動かない。


「効かんなあ!」


 轟が笑う。


 ハナも笑った。


「一発目なので」


 轟の膝が跳ね上がる。


 ハナは横へ飛んだ。


 膝がジャケットを掠める。


 続けて、轟の裏拳。


 ハナの肩に直撃した。


 鈍い音。


 ハナの体がリング端まで吹き飛び、鉄柵に背中を打ちつける。


 痛い。


 肩が痺れる。

 背中が軋む。

 息が一瞬止まる。


 それでも、ハナは笑った。


 体の奥で、赤い熱が灯る。


 紅。


 怒りではない。

 恐怖でもない。


 ただ、前へ出るための熱。


 その熱に、翠の光が絡む。


 痛みを記録する。

 衝撃の角度を覚える。

 相手の硬さに、体を合わせていく。


 紅翠《花嵐》。


 桃瀬ハナの色相能力。


 攻撃するほど、回復する。

 殴られるほど、適応する。

 戦いが長引くほど、相手に合っていく。


 観客席が沸く。


「出た!」


「ハナちゃんの花嵐や!」


「長引いたら轟きついで!」


 ハナは鉄柵から背を離した。


「二発目、いきます」


「来いや!」


 轟が吠える。


 ハナは踏み込んだ。


 今度は、さっきより半歩深い。


 轟の拳が横から飛ぶ。


 ハナは完全には避けない。


 左腕で受ける。


 痛い。


 けれど、その痛みで軌道を覚える。


 腕を滑らせ、衝撃を流し、その内側へ入る。


 腹部装甲へ、二発目。


 音が変わった。


 さっきより少しだけ低い。


 轟の眉が動く。


「……っ」


「少し入りましたね」


 ハナは穏やかに言った。


「三発目、いきます」


「うるさいわ!」


 轟が両腕を広げて突っ込んでくる。


 壁のような圧力。


 ハナは下がらない。


 右へ半歩。


 左肩を沈める。


 轟の腕を掻い潜り、脇腹へ拳を入れる。


 一発。

 二発。

 三発。


 すべて、少しずつ角度が違う。


 一発目で硬さを見る。

 二発目で響く場所を探る。

 三発目で、装備と肉体の隙間に通す。


 轟の呼吸が詰まった。


「ぐっ」


 初めて、声が漏れる。


 観客席が爆発した。


「入った!」


「ハナちゃんいけ!」


「五分以降に張り直せ!」


「もう遅いわ!」


 巨大モニターの倍率が揺れる。


【桃瀬勝利 1.3】

【轟逆転 4.1】

【五分以降桃瀬KO 2.2】


 数字が動く。


 人の痛みが金になる。


 ハナは、それを見ないようにした。


 今は勝つ。


 勝てば、ミユが今日もリングに立たなくて済む。


 それだけを考える。


 轟が強化装備をさらに起動する。


 金色の線が装甲に走る。


 所有。

 装備。

 強化。


 轟は、自分の装備を完全に自分の体の一部として扱っている。


 普通の拳では通らない。


 だから、ハナは普通に殴るのをやめた。


 息を吸う。


 踏み込む。


 轟の拳が来る。


 ハナは肩で受けた。


 骨が軋む。


 痛い。


 でも、折れてはいない。


 さっきより、体が衝撃に慣れている。


 ハナは笑った。


「見つけました」


「何を――」


 轟の言葉は、最後まで続かなかった。


 ハナの拳が、胸部装甲の継ぎ目に入る。


 一発。


 轟の体が揺れる。


 二発。


 呼吸が止まる。


 三発。


 膝が落ちる。


 最後に、ハナは軽く跳んだ。


 小さな体が、轟の視界から一瞬消える。


 顎へ膝蹴り。


 轟の巨体が後ろへ倒れた。


 リングが揺れる。


 観客席が叫ぶ。


「桃瀬ハナ、勝利!」


 審判の声が響く。


 ハナは着地して、少しふらついた。


 肩が痛い。

 背中も痛い。

 息も上がっている。


 でも、立っている。


 観客席へ向かって、にこりと笑う。


「ありがとうございました」


 歓声が返ってきた。


 誰かが儲けた。

 誰かが損した。

 誰かが轟の骨折数で文句を言っている。

 誰かが次の札を買っている。


 ハナはリングを降りた。


 通路に戻ると、戌井が端末を見ながら待っていた。


「派手に勝ったな」


「肩、痛いです」


「治るやろ」


「治るからって、痛くないわけじゃないですよ」


「利息分は減る」


 その言葉で、ハナは少しだけ表情を緩めた。


「ミユの?」


「今日の分はな」


「よかった」


「元本はまだや」


「はい」


 ハナはタオルで汗を拭いた。


 その時、通路の奥が騒がしくなった。


「おい、逃がすな!」


「そっちや!」


「登録チップ壊したの誰や!」


「バグ丸や!」


「またあいつか!」


 ハナは顔を上げた。


 騒ぎの中心に、細い少年がいた。


 相原ユウ。


 手首には拘束具。

 頬には治療シート。

 顔色は悪い。


 警備員に押さえられながらも、目だけは動いている。


 床。

 壁。

 警備員の足。

 落ちている小物。

 曲がり角。


 怖がっているのに、見ている。


 ハナは、思わず目を細めた。


「へえ」


 少年の近くでは、派手な帽子の小男が床に正座させられていた。


 バグ丸だ。


「ワシ悪くないって! 床が抜けたんや! あと球が勝手に転がったんや! 登録チップも勝手に割れたんや!」


「全部お前の周りで起きとるやろ!」


「ワシの周りで世界が荒ぶるんや!」


 戌井が頭を押さえている。


 ハナは、相原とバグ丸を交互に見た。


「何があったんですか?」


 戌井は面倒くさそうに言った。


「第八試合の翠や。登録控室から登録所に運ぶ途中で、そこのアホが事故った」


「バグ丸さん?」


「そいつ以外におるか」


「相原くんは逃げたんですか?」


「少しな。すぐ捕まった」


 ハナは、相原を見た。


 少年は警備員に押さえられたまま、悔しそうに唇を噛んでいる。


 逃げ切れてはいない。


 でも、ただ怖がっているだけではない。


 目が、まだ次を探している。


 ハナは、少しだけ興味を持った。


「弱そうですね」


「弱い」


 戌井は即答した。


「ランクE。戦闘力は低い。だが、二度目以降の行動変化がある」


「二度目?」


「一回失敗した後、同じ条件で少し動きが変わる。翠や」


「へえ」


 ハナは、肩の痛みを確かめながら言った。


「私と少し似てるんですね」


「似てへん。お前は殴りながら適応する。あいつは見てから次にする。しかも遅い」


「でも、同じ翠です」


「余計な同情するなよ」


「同情じゃないです」


 ハナは、にこりと笑った。


「気になるだけです」


 戌井は、ものすごく嫌そうな顔をした。


「それが面倒なんや」


 近くのモニターに、新しい表示が出た。


【第八試合 特別観察枠】

【相原ユウ:翠/未成熟】

【バグ丸:翠黒/事故率高】

【形式:調整中】

【対戦候補:桃瀬ハナ】


 ハナは、画面を見上げた。


「あ、私ですか」


「お前や」


「さっき試合したばかりなんですけど」


「花嵐なら動けるやろ」


「動けますけど、痛いものは痛いですよ」


「客は続けて見たいんや。紅翠の人気選手が、未成熟な翠と生存バグをどう潰すか」


 潰す。


 その言葉に、ハナは少しだけ笑顔を薄くした。


「潰さない方がいいですよね」


「殺すな。再起不能にもするな。だが、ぬるすぎるのもあかん」


「難しい注文ですね」


「それで金が出る」


 戌井は端末を操作しながら続けた。


「相原は成長観察枠。バグ丸は事故率込みの賑やかし。お前は制圧役や」


「二対一ですか?」


「客の反応次第や。まだ正式には決まってへん」


 その時、相原の視線がハナへ向いた。


 目が合う。


 怯えていた。


 当然だ。


 さっきハナが轟ガイを倒したのを、たぶん見ている。


 こんな相手と戦わされるのは、怖いに決まっている。


 それでも、相原の目はハナの足元を見た。


 肩の角度。

 手のバンテージ。

 呼吸。

 立ち方。


 もう観察している。


 ハナは、にこりと笑った。


 相原の顔がさらにこわばった。


「あら」


 ハナは少し困った。


「怖がらせちゃった」


「そら怖いやろ」


 戌井が言う。


「お前、今さっき巨漢沈めたところや」


「それはそうですね」


 バグ丸が、正座したまま叫んだ。


「桃瀬ハナはあかん! ワシ死ぬ! あの子、ふわふわしながら骨に響くことする!」


「失礼ですね。なるべく骨には響かせません」


「なるべくって何!? 保証して!」


「できる範囲で」


「できないやつやん!」


 観客席の方では、すでに次の札が動き始めている。


「ハナ対翠の子やって!」


「バグ丸も出るんか?」


「あいつ出たら絶対事故るやろ!」


「相原が二度目で避けるかに張るわ!」


「いや、ハナちゃんが一分で制圧や!」


 声が波のように広がる。


 相原は、その声を聞いて顔を伏せた。


 商品にされている。


 自分の恐怖も、弱さも、成長の可能性も。


 すべてが札になっている。


 ハナは、それを見ていた。


 この場所では、よくあることだ。


 誰かの借金。

 誰かの痛み。

 誰かの失敗。

 誰かの頑張り。


 全部、客の熱に変えられる。


 ハナ自身も、そうやって戦っている。


 だから、偉そうなことは言えない。


 言えないけれど。


 相原の目が、少し気になった。


 怖がっている。

 でも、見ている。


 逃げたいのに、次を探している。


 ハナは、昔のミユを思い出した。


 ミユは、リングに立たされた時、ただ泣いていた。


 泣くことしかできなかった。


 それが悪いわけではない。


 むしろ普通だ。


 でも、相原ユウは違う。


 泣きそうな顔で、それでも周囲を見ている。


 ハナは小さく息を吐いた。


「戌井さん」


「なんや」


「もし私が相手をするなら、ちゃんと見ます」


「何を」


「あの子が、どこまで怖いまま見られるのか」


 戌井は目を細めた。


「お前、変な情が湧いとるやろ」


「情じゃないです」


「じゃあ何や」


「料理と同じです」


「は?」


 ハナは笑った。


「一回目で火加減を見る。二回目で巻き方を直す。そういう子なら、ちょっとだけ見てみたいなって」


「料理で例えるな。怖いわ」


 戌井は端末を閉じた。


「正式な組み合わせは、上が決める。お前は準備しとけ」


「はい」


「あと、変に守るなよ。お前の仕事は制圧や」


「分かってます」


 本当に分かっている。


 ハナは、相原を助けるためにここにいるわけではない。


 ミユの借金を返すために戦っている。


 相原が可哀想だからと手を抜けば、別の誰かに負担が行く。


 それが浪華色街の嫌なところだ。


 優しくしようとすると、別の誰かが傷つく。


 だから、笑って殴るしかない。


 ハナは控室へ戻り、バンテージを巻き直した。


 肩はまだ痛い。


 でも、動く。


 紅翠《花嵐》は、もう轟ガイの硬さを覚えてしまっている。


 次の相手は、まったく違う。


 相原ユウ。


 弱い翠。


 そして、バグ丸。


 死なない翠黒。


 ハナは鏡を見た。


 自分はいつも通り笑っている。


 ふわふわしている。

 優しそうに見える。

 それでも、リングに上がれば殴る。


 相手が弱くても。


 怖がっていても。


 自分には、止まれる理由がない。


 控室の外では、モニターが次の札を表示していた。


【特別観察枠】

【桃瀬ハナ VS 相原ユウ/バグ丸】

【暫定倍率:桃瀬 1.1】

【相原が二度目に対応する:4.7】

【バグ丸が試合中に事故を起こす:1.3】

【二名が三分以上耐える:6.2】


 ハナは、数字を一つずつ見た。


 相原が二度目に対応する。


 その札だけ、少し気になった。


「怖いまま見られるかな」


 ハナは、静かに呟いた。


 答えは、リングの上で分かる。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


桃瀬ハナの登場回でした。


ふわふわした雰囲気とは裏腹に、彼女は殴り合いの中で回復し、適応していく紅翠の闘士です。

そして、彼女が浪華色街で戦っている理由も少し見えてきました。


相原ユウとバグ丸は、予定外の形で次の試合に組み込まれることになります。

弱い翠と、死なない翠黒。そこに桃瀬ハナがどう向き合うのか、次回も読んでいただけると嬉しいです。

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